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ミステリとSNS|藤田直哉・謎のリアリティ【第49回】

多様性の加速度を増すいっぽうの社会状況に晒さらされ、ミステリが直面する前面化した問題と潜在化した問題。重層化した「謎」を複数の視座から論ずることで、真の「リアリティ」に迫りたい

文=藤田直哉

『俺ではない炎上』
浅倉秋成あさくらあきなり(双葉社)

『オシント新時代 ルポ・情報戦争』
毎日新聞取材班(毎日新聞出版)

※浅倉秋成『俺ではない炎上』『六人の嘘つきな大学生』の内容・結末・真相に触れているのでお気を付けください。

ゼロ年代的な作風から、リアリズム寄りへ

 浅倉秋成は、『六人の嘘つきな大学生』(二〇二一)で本格ミステリ大賞候補、本屋大賞五位、『2022本格ミステリ・ベスト10』四位に選ばれるなど、急速に評価を高めている。デビュー当初、二〇一二年の講談社BOX新人賞Powers受賞作『ノワール・レヴナント』、投稿作『フラッガーの方程式』では、特殊能力を持った高校生が出てきたり、現実を美少女ゲームのように変えて「フラグ」が出てくるシステムを描くなど、ライトノベルやオタクカルチャー的な要素の強いミステリを書いていた。しかし、ここ最近は、よりリアリズムに近く、メジャーなヒットを飛ばせる題材を扱うことが増えている。『教室が、ひとりになるまで』ではスクールカースト、『六人の嘘つきな大学生』では就職活動、そして『俺ではない炎上』では炎上と冤罪えんざいを扱っている。後者二つにおいては、超自然的な設定はほとんど導入されていない。

 当初はオタク文化やサブカルチャーと現実の重なった世界を舞台にしてきたが、その手つきが近作では、ネットと物理的現実の重なり合っている我々の生活世界を描くことに応用されていると言っても良い。

 特に、『俺ではない炎上』と『六人の嘘つきな大学生』は、SNSによる告発や評判が大きな影響を及ぼし、そのことを意識して振る舞いや態度を変えなくてはいけない現代社会に生きる者の葛藤かっとうやドラマを描き、トリックや物語を通して読者に教訓を伝える作品として、極めて良質な成果となっている。本論では、この二作を中心に論じていくことにする。


脊髄せきずい反射と感情で動くSNS社会の問題に

『俺ではない炎上』の主人公・山縣やまがたは、大手住宅メーカーの部長である。ある日、彼を装ったツイッターのアカウントが、殺人現場の写真を投稿し、炎上が起こってしまう。いきなり犯人に仕立て上げられ、周囲の人間や警察にも疑われた彼は逃亡する。しかし、ネット上では犯人探しが始まっており、家なども特定。会社などに嫌がらせが起こり、YouTuberがバットを振り回しながら山縣に私的制裁を加えようとする状況になる。

 山縣の逃亡は非常にサスペンスフルで、手に汗を握らされる。デマをバラかれたり、嘘をつかれたり、ネットで虚偽のイメージが広げられたり、仕事先や家庭に嫌がらせをされたり、暴力が行使されたりすることは、現実でもよくあることなので、感情移入が容易である。また、ネットで情報を収集して犯人を捜したり、拡散に加担する側の人物の視点の章などもあるので、色々な立場から多角的に炎上やデマ、SNSの問題にアプローチすることができている。

 中でも見事だと思われたのは、読者にSNS社会への反省を促す効果を、叙述トリックを通じて実現させていることである。たとえば、叙述トリックでは、読者が男性だと思って読んでいると女性だったりして読者に驚きを与えることがある。それは、使われている語彙や語尾などによって「これは男性だろう」という先入観を読者が持ってしまうからこそ機能するトリックである。だから、偏見、先入観、印象で物事が判断されやすいSNS社会を反省するときに、この手法が有効性を持つ。

 SNSでは、属性だけで物事が判断されたり、発言や動画を部分的に切り抜いて拡散したりして人々の感情をあおる手法が非常に広範に行われて影響を持っており、論理や証拠や深い思考は軽視される傾向がある。SNSが、短文や画像を中心としたコミュニケーションメディアであることから、体系性や一貫性、熟考を要する思考が失われてきているのである。それゆえに、陰謀論やデマはすぐに広がり、論理や事実ではなく「これを信じたい」「これを信じたら気持ちがいい」という情動の原理が優先される。かくして陰謀論やフェイクニュース、歴史修正主義が蔓延しているのが、現状である。

表面や断片だけで人間を判断しないようにすること

『六人の嘘つきな大学生』は、就職活動をしている六人の中の一人が、内定を得るために、「裏の顔」をあばき評判を落とすという工作を仕掛ける作品である。作家やミュージシャンや政治家などのスキャンダルを暴き、公的な職から降ろす「キャンセルカルチャー」と、犯人のやっていることはそれに近い。

 大学生たちは、就職活動で見せている輝かしい側面とは異なる「裏の顔」を知ってショックを受けるが、しかしそれもまた恣意しい的な切り取りであり、実際の本人とは異なっているというどんでん返しが最後に用意されている。叙述トリックによって、読者もだまされることになる。

 読者が読んできた地の文の発言で、読者の多くは登場人物に悪い印象を抱くように仕向けられている。たとえば、大学時代に詐欺に加担していた人物が「騙される方が悪いでしょ」と言い放つ。それを、読者はふてぶてしい開き直りだと思うが、実は、お金に困っており、騙されて詐欺に参加させられた自分自身を断罪する言葉だと後に分かる。文脈を抜きに断片だけを切り抜くことで、ある言葉の意味が正反対のものになるということを、叙述トリックを用いて読者に分からせようとしているのである。

『俺ではない炎上』でも、そのような「実態」「事実」「文脈」抜きの断片による印象の形成を批判する部分がある。ネット上では、アイデンティティポリティクスがSNSのポピュリズムと合流してしまい、表面上の属性だけで誰かを判断したり攻撃するような事態が起こっている。それを反映するように、作中で、山縣の炎上が悪化するのは彼が中年男性であり、大手の部長職という「勝ち組」だからだと描かれる。勝ち組に対するイメージ、偏見、やっかみ、彼らがひどい目にうのをみたいという心理が、彼を犯人だと決めつける世論を煽っていくのだ。

 作中のSNSの人々が山縣を犯人だと勘違いするのと重なるように、読者も被害者と加害者が誰なのかについて誤認させられる。包丁を持ち、山縣を殺そうとしているかのように描かれていた女性こそが、むしろ彼を救おうとしている。加害者と被害者が、「印象」と「実態」でひっくり返るというのも、現実のネット社会でよく起こっていることだ。告発などが起こってネットで一斉に批難するが、それは事実ではなく、名誉棄損きそんや虚偽であるケースなどは少なくない。

 だから、冤罪やデマに加担しないためには、印象や断片だけで判断せず、その人間を深く理解する努力をしたり、事実をしつこく追求しなければならない。

『オシント新時代 ルポ・情報戦争』では、陰謀論やフェイクニュースが国際的な世論形成、戦争の武器、選挙介入などに使われていることがハッキリと描かれている。ロシアとウクライナの戦争では、「ナラティヴ戦」「情報戦」が行われている。国内外の世論に影響を与えるために、フェイクを用い、加害者と被害者を入れ替えようとする工作をロシアは行っている。それは、世論のポピュリズムに迎合し、山縣を犯人に仕立て上げる「物語」を流通させた犯人の行っていることに近しい。

 そしてそれに対抗し、民間や公的機関でオシント(オープンソースインテリジェンス)が行われている。これは、一般人でも誰でも出来る、ネットの私立探偵のようなものだ。ここには可能性があるが、危険もある。

 全世界七〇億人が、探偵になれるし、捜査官にもなれる。しかし、それは、探偵や捜査官のように、論理的能力や証拠の吟味ぎんみなどの訓練を受けていない者たちなので、妄想的論理に基づく恣意的な断定が蔓延する危険もある。それを扇動し利用した攻撃が山縣に行われていると言っていい。

 真犯人は、そのような「民間探偵」の負の極限のような人物である。彼は、自分自身の基準で、売春をしている女性に「死」の罰を与える「正義」の動機を持つ人物として描かれている。殺人の動機はこうである。「世の中はあまりに不公平だ。それが許せなかった。甘い汁を啜っているやつには罰が必要だと思った」「本当は今のような仕事をするつもりはなかった。仕方なく働かざるを得なくなった。別の夢があったのに、幼い頃に父が亡くなったせいで進学できなくなって、高卒で働く必要に迫られた。自分のような不幸な人間がいるのに、へらへらと楽して大金を稼いでるクズが許せなかった」(三三〇頁)

 つまり、浅倉の二作は、叙述トリックと言う装置を用いることで、ミステリ小説特有の快楽を通じて、SNS社会における我々が獲得すべき認識や、反省すべき態度を伝え、同時にフェイクニュースやナラティヴ戦のダイナミズムを疑似的に体感させる作品だと言ってもいい。非常に強い同時代性を持っている、社会的使命感と芸術的完成度を両立させた快作である。

 評者は二〇一八年に刊行した『娯楽としての炎上 ポスト・トゥルース時代のミステリ』(南雲堂)の中で、「現代ミステリこそがポスト・トゥルースに抗する」とし、「同時代や社会の課題の切迫感を共有しつつ、技術的・芸術的に高度であり、なおかつ他にないユニークな角度から切り込める。そんな特異なジャンルが、現代ミステリであ」(九頁)り、ファシズム、情動政治、フェイクニュースの蔓延する現代においては、このジャンル自体が「政治的抵抗」になるということを述べた。浅倉の二作は、まさにこの文脈で高く評価されるべきだろう。


「責任」の問題

 その上で、本書がより深く踏み込んでいると思われるのは、「責任」の問題である。いわゆる「法的責任」だけではなく、「道義的責任」の範囲が拡大しあやふやになっている現状に踏み込んでいるのだ。

 なぜ「責任」の範囲が曖昧あいまいになるのか? それは、加害や暴力のあり方が物理的なもの以外にも拡大し、曖昧で確率的なものになってしまったからである。たとえば、デマや誹謗中傷ひぼうちゅうしょうで誰かが自殺した場合、その書き込み一つ一つに、その加害の「道義的責任」はあるだろう(昨今では「法的責任」も問われるようになってきているが)。匿名掲示板やSNSなどが裁判所の命令で開示され、本人が特定されると、往々にして加害者たちは、自分のせいではない、自分は被害者だ、ストレスが多かった、などと正当化し、責任を引き受けようとしない。

 加害と被害も反転し合い確定が難しく、責任があるのかないのか曖昧な領域が薄く広がっているのが現状である。本書で、山縣が犯人であるという印象を形成する「拡散」をした人物は、責任を追及され、「ぼ、僕は悪くない」と言い逃れをする。

 責任を引き受けず、逃れようとする人々の醜悪しゅうあくさが描かれる一方で、山縣とその娘の夏美なつみは、責任を過剰に引き受ける主体として描かれている。たとえば、夏美は、この事件の責任が自分にあると考え、解決のために奔走する。幼少期に、自分が犯人に助けられ、自分がアニメキャラの正義の味方に彼を見立てた――そのキャラの名前を、犯人は名乗っている。彼の凶行の遠い原因は自分にあると考え、法的には全く罪に問われないその道義的な責任を取るために、命の危険すら冒す。

 様々な「因果」を全て考慮に入れた場合、ある事柄が起きる場合の「責任」は非常に小さく広く薄く存在することになるだろう。山縣は、この因果による責任を、一手に引き受ける覚悟を示す。「今日という日の事件は、果たしていつから始まっていたのだろう。昨日か、十年前か、あるいは更に遥か昔なのか。言い訳は悲しいほどに便利であった。俺ではない。自分を納得させるだけならば、責任転嫁は造作もない。それでもこの程度の責任、一手に引き受けられなくて、何が父親であろうか」(三六二頁)

 ネットでは、匿名の陰に隠れて、自分は何かを攻撃するが自分はされない状態だと錯覚し、ひたすら自分は一方的に被害者であると考え、人を攻撃するような他罰的な人がいる。「みんな、『自分は悪くない』ってことしか呟いていなかったんだよ」「自分は悪くない。自分の価値観だけが正しい。ねえそうでしょ――って。そういう呟きしか存在してなかったんだよ。だから、そういう人間になっちゃ駄目だなって、すごく思ったんだ。みんな、ものすごくみっともなかった」(三四四頁)。そのような独善的な「正義」同士が衝突し続け、「分断」が深まっているのが現在の状況であり、全世界で大きな政治的問題ともなっている。

 注目すべきは、その逆で、自分の責任ではないかもしれない責任まで引き受ける主体が、「父」の名においてそれを行っていることだろう。フェミニズムや格差の影響などで、今では「父」や「中年男性」「家父長制」はネットでは叩きの対象になりやすい。しかしここには、「悪」とされがちな「男らしさ」「パターナリズム」の善悪をひっくり返そうとする気配が見える。

 その良し悪しは議論があってしかるべきだが、本書がネットでの「正義」同士の衝突や炎上やリンチや偏見などの状況を前提に、現代の政治的な状況にまでミステリならではのトリックを通じて介入しようとした意欲作であることは間違いがないだろう。

《ジャーロ No.85 2022 NOVEMBER 掲載》



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