【小説】大倉崇裕|一日署長 ~一九九九(後編)~
三
現場となった公衆トイレは、ブルーシートで目張りがされ、立入禁止を示すテープが張ってあった。公園自体も封鎖されており、そこここに制服警官が立っている。
道端のあちこちでは、近所の住民と思しき人々が、顔を寄せ合っては小声で何事かを話し合っている。その周りをウロウロしているのは、マスコミの連中に違いない。
「まずいですよ。こんなところに署長が出ていったら、ただではすみませんよ」
近くに駐めた車の中で、倉城が言った。彼がハンドルを握り、いずみは助手席に座っている。
「変装くらい、すべきだったかな」
「そんなのすぐバレますよ」
「しかし、現場を厳重に封鎖したりして、これではかえってマスコミの目を引くじゃないか。これでどうやって轟巡査部長の自殺を隠蔽できると言うんだ? 本部だって黙ってはいないだろうに」
「その辺のことはよく判りません。すべて佐所副署長が取り仕切っておられるので」
また副署長か。佐所の油断ならないニタニタ笑いが脳裏に浮かぶ。
「佐所副署長とは、どういう人物なんだ?」
倉城は目をぱちくりさせる。
「署長は副署長の経歴について、ご存じないのですか?」
「い、いや、通り一遍のことは知っている。だが、彼のような人物には、決して表に出ない、そう、言わば裏の履歴のようなものがあるのではないかな」
倉城の目が驚きに見開かれる。
「署長がそこまでご承知だったとは」
「話してくれないか。かばう必要はないだろう」
「いえ、自分も詳しくは知りませんが、現場からのたたき上げで、上層部にもかなり顔が利くと。人事部とも深い繋がりがあり、そのせいか、もう七年間、異動もなく、当署の副署長を務めておられます」
「北新宿署の署長は、キャリアの腰掛けポストだ。実務は副署長が回すことになる。その事を恩義に感じたキャリアの面々が、副署長の後ろ盾になる。そういうことか」
倉城はどう表情を繕ったらよいかわからぬ様子で、「はぁ」と頭をかきながら、下を向いてしまう。
ここまで強気な隠蔽に走ったということは、副署長には何らかの勝算があったとしか思えない。しかし、現実にはすべてが裏目と出て、署長、副署長をはじめ、多くの者が責任を取らされ処分。ほとんどが依願退職に追いこまれる事になる。
佐所副署長も退職し、その後、行方不明となっていたのではなかったか。
倉城が一度止めた車のエンジンをかける。
「あまり長く駐まっていると、人目を引きます。いったん、ここを離れます」
「判った。どちらにしろ、公園に入るのは無理だな。昨夜の状況について、君の知るところを話してくれないか。運転しながらでいい」
「はい」
倉城はハンドルを切ると、そのまま大通りへと車を走らせた。
通りは渋滞が激しく、快適なドライブとは言えない。そんな中、倉城はこちらの真意を測りかねているようで、口は重いままだった。
湯山俊彦が普段からどのような署長であったのかは、判らない。それでも、こうして倉城の態度を見ていると、決して、親しみやすく尊敬できるリーダーではなかったと想像できる。
「倉城巡査、君がとまどっているのは判る。しかし、今は非常時だ。このままでは、北新宿署が崩壊してしまう。私は署長として、何とか救いたいのだ。疑問もあるだろうが、今はすべて忘れて、私に知っている事を話してくれないか」
信号が変わり、車が流れ始める。
倉城はアクセルを踏みつつ、何事かを決意したように、一人、うなずいていた。
「深夜の午前二時三十四分、公園付近に不審者がいるとの通報を受け、現場に臨場しました。公園周りは街灯も少なく、一時は不良のたまり場になっていたこともあります。最近ではもっぱら、ホームレスの居座りが問題となっていました」
「現場に到着した後、君は轟巡査部長と分かれたのだね?」
「はい。不審者と言っても恐らくホームレスだろうと轟巡査部長に言われ、手分けして公園周りをくまなく当たる事としました。轟巡査部長が公園内を、自分がその周り一帯を担当しました」
「その担当割りは、轟巡査部長が決めたんだね?」
「はい。集合時間を十五分後と決め、分かれました」
「轟巡査部長はその後、公園内のトイレでけん銃を使って、自殺した。銃声は聞かなかった?」
「はい。不審者の気配もないので、少し範囲を広げ、パトロールしていましたので」
「公園内に、君たち以外に人は?」
「もちろん、一人もおりませんでした。いたら、真っ先に声かけをしています」
信号が赤に変わり、車はゆっくり停止する。約二十年前の世界だが、驚くほど大きな変化はないように見える。道行く人々は、どこか不安げで忙しく、一方で、若者たちの表情はうらやましいほどに明るい。大きな違いは、携帯を手に歩いている人の少なさだろうか。スマートフォンは登場前であり、いわゆるガラケーは、インターネットに接続できるようになったばかり。歩きスマホなどという言葉も存在しない。
「署長?」
外に気を取られていたいずみは、倉城の声で我に返る。
「外に何か珍しいものでも?」
「い、いや。別に。人々の顔には、まだ希望と明るさがある。何とも切ないねぇ」
「まだ、とはどういうことでしょうか。たしかに、失われた十年などと言われてはおりますが……」
「何でもない、忘れてくれ。質問に戻りたいのだが、遺体発見の経緯を頼む」
「十五分後に集合場所に戻りましたが、巡査部長の姿はなく、数分待って、公園内を捜しました。それで……用足しかもしれないと思い……公衆トイレに向かったところ……」
「遺体を見つけたか」
「いえ、その前に通報を行いました。真ん中の個室の扉下部から大量の血液が流れており、ただ事ではないと思いましたので。ただ、じっと待っている事はできず、通報後、独断でドアを開きました」
「個室の鍵はかかっていなかったのか?」
「はい。鍵は壊れておりました」
「個室は全部でいくつあった?」
「三つです」
「三つとも鍵は壊れていたのか?」
「いえ、私自身が確認したわけではありませんが、壊れていたのは、真ん中の個室だけだと聞いています」
「判った。遺体の状況はどうだった?」
倉城は唾を飲みこみ、少し間を空けた後、乾いた声で答えた。
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