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10.17.2020 人間は見返りを求め続けなければ生きていけないのかもしれない


私は人間だ。

残念ながら、と疑問ながらにも、

人間に生まれてきてしまった。

いつものあそこのカフェの店主さんが、相変わらず常連さんと談笑しているのに毎度耳を傾けてしまう。

そこで、店主さんが人間の前世の話をしていた。

人というのは、生まれる前に神様に既にどういう人生を歩むか自分で決断と覚悟をくくってから、この星に命として誕生し、それをやり遂げてから死を迎えると。

ような事を話していて、私は少しガッカリした。

もしこの話が本当ならば、私は何度今まで前世の自分を嫌悪し、責めただろうか。

もしこの話が本当ならば、人が他人に「見返り」を求めるのも無理がない。

「期待」をし、感情を備わっているのも無理がない。

自分で決めたからには、そうでないといけない訳だから他人に期待を委ね続けなければ、人生という名の章が進んでいかないのかな、と思った。


私は相変わらず人を愛せない。

愛と期待は比例していないけど、同じベクトルを向いているのかもしれないから中々交じり合わない。

愛と見返りも比例はしていない。

記号で表すと”≒”

比例はしていないけど同じ天秤にはかけられていると思う。

でも、主観でしかその天秤は見れない事が多いから、中々理解するには難しい。

私は、誰かに期待はしているかもしれないけど、見返りを求める人間にはなりたくない。

何故、この話を記そうと思ったかというと、

相変わらず私は両極端性で、人が心から愛せない分天秤にかけると極端に生理的に人を嫌悪してしまうか、信頼を簡単にしてしまう。

それももしかしたら、期待なのかもしれないからこそ、ガッカリして自分の事もその人も嫌いになってしまう。

嫌いというか突き放してしまいたくなる。

何かのきっかけがあったら、極端に信頼の方が傾き軽くなる事が多かった。

でも、最近は何もなくても天秤が傾き人を生理的に離したくなる。

でも、彼からついに「一緒に居れない」と言われて、じつはあまり悲しくなかった。

自分にも冷め、既に呆れ果て枯れかけていたし、見返りを求められていた事が解って、その感情が全て行動や言動に反映していたんだなと、実感したから。

結局は自分のためだったのかな。

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とようやく自分の中で混乱していた紐の一部が解けたように感じた。


私は人から認められる事が少なかったため、マジョリティになった事がないと信じている。

だからこそ、マジョリティな人生を歩んでいる彼をどこか反発し続けてしまうのかもしれない。

無理にマイノリティに合わせなくて良いと思ってるし、なろうともしないでほしい。

マイノリティからマジョリティになる事は簡単かもしれないけど、マジョリティからマイノリティになるのは難しいと思っている。

マイノリティは個性が"強い"から、個性のない集団的なマジョリティになれない。

私はこれをネガティブにも捉えてないし、批判もしていない。

マジョリティはマジョリティでしかなれない。

マイノリティは割と最初からマイノリティな思考と性格なのだから、交じり合えないのは仕方がないと思っている。

どうして、マジョリティやらマイノリティな話をしているかと言うと、
私と彼は列記とした交じわることのない別々の枠組みにいるから。

マイノリティになろうとしている彼に、マイノリティな私が意見を嘆くと、彼は基本的に反発する。

私はコロナの影響で、学校にもろくに行けず以前働いていた所からも外され行く宛も、頼るアテもなくなった。

そして鬱病を再発した。

元々友達もあまり居なかったからこそ、余計に外に出る機会もなく、ただただ引きこもる事しかなく、絵を描いたり文を綴るエネルギーさえ枯れていたのだ。

でも、もし死以外の選択をしなかったら生きなければならない。

生きるには不平等ながらにも、お金という概念が付き纏ってくる。

もし、世の中に「お金」という概念が消えて、物々交換の社会になったらどうなるんだろう、とたまに考える事がある。

話は逸れたが、生きるには最低限の資金が必要だ。

その中で、自分に出来る事とは何だろう

と、何度も彼と真剣に話をしてきたと思い込んでいた。

彼は一体、何を求めているのだろう。と、常々思う。

そう改めて考えさせられたのも、最近彼は「時間」のせいにする事がある。

私は仕事を理由にする人が苦手だ。

そして時間のせいにするのも言い訳にしか聞こえなかったのも、最初は受け入れてたが、時間に囚われているはずの彼が時間を作れる事を知った。

私は複数人の飲み会は打ち合わせ以外、この歳になると私が思い描いている未来には不必要だと思っているから参加しないというか、そういうことに誘ってくる人間がそもそもいないから良いのだけど、

彼もきっと似たようなベクトルで居たいはず。

なのに、マイノリティに属している私からするとそういう飲み会に参加するのは時間とお金に余裕が出来たらいくつになってからでも、いくらでも出来る。

ただ、今の優先順位は本当にそこにあるのか。と疑問に思い彼に嘆いた。

本当に今やるべき事、会うべき人、使う時間はそこにあるのか。

というか、あれだけ時間のせいにしていたのにどうしてわざわざ繁華街へ出向けるのかが私には理解が出来なかった。

時間作れるじゃん。

と、呆れてしまった。

今まで、少しだけ同情していた自分がアホらしく感じ、やっぱり人には期待はしない方が良いなと実感した。

もし、本当に私を信じて付いていきたいと思う人がいるならば、きっとわざわざ私がこうして悩む時間、考える時間、そして呆れる時間さえ不必要になるのかもしれない。

本当に興味や関心があれば、わざわざ言及しなくても後から付いてくると信じて私は今日もなんとなく生きてしまっている。


昨日の夕飯は何を食べましたか? 幸せなはずの毎日も、日常化すると人の記憶は薄れがち。 私はそんな毎日の中に、少しでも心がじゅわ〜とする瞬間を見つけてこれからも描き続ける。