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友人の写真展にて

友人の写真展に行った日は、昨年の12月25日。
曇り空が広がるクリスマスでした。

「えっと、展示を観に来たのですが」
「どうぞどうぞ」
会場は京都・岡崎の「Photolabo hibi」さん。初めて訪れるお店だったので、様子を伺うようにそろそろと入り口まで近づくと、店主さんがすぐに扉をぱっと開けて招き入れて下さいました。店内は暖かく、手袋をとりました。

友人であり、写真を用いた表現活動をしている 秋田 京花さん。今回の展示タイトルは、「torch」。トーチは、たいまつのこと。棒の先についた火。灯り。オリンピックの聖火も思い浮かぶでしょうか。「トーチ」。丸みのある、どことなく収まりのいい言葉です。人が生活していくために、火は欠かせません。同時に、心の拠り所としての灯火(ともしび)も必要なのでしょう。京花さんの写真は、「確かにそこにある生活」を映し出すのと同時に、「目には見えない神聖なる何か」を伝えてくれる。今回の展示は、いつにも増してそう感じました。

大小様々な大きさの写真と、手書きの文字(日記のように日付とともに日々の出来事が綴られています)が、白い壁一面に貼り出されていました。それらのうち半分ほどはトレーシングペーパーで覆われていて、遠目ではぼんやりとおぼろげに見えるだけです。プリントや文字をよく観るためには、指で触れて薄い紙の下を透かす。そんな工夫がなされていました。
(展示会場の様子はこちらにて。)

展示内容に関する、冒頭のキャプションにはおおよそ、このように書かれていました。「子どもの頃、一時的なものではありましたが、人前でうまく話せなくなった時期がありました。」「その頃、はっと、自分もいつか死んでしまうのか、と気づいた瞬間がありました。体と一緒に、うまく他者に伝えることの出来なかった想いや気持ちごと、この世から消えてしまうことが、恐くて仕方ありませんでした」
まだお店に足を踏み入れたばかりだっていうのに、私は、この言葉を前にじんわりと目に涙を滲ませました。こみ上げる気持ちを抑えきれずに。

私も幼い頃、そっくりそのままの同じ感情に苛まれ、恐怖していました。ぼんやりと記憶に残っている光景があります。あれは、もう一人でお風呂に入っていた頃だったか、はたまた浴槽の外で母が髪を洗っていたのか、鮮明ではありませんが、私は湯船に身体を沈めていて、お湯の中でゆらゆら揺れている自分の身体を眺めていました。何故か、こわくてぞっとしているのです。「わたし、いつかしんじゃうんだ。それがいつかまだ分からないけど、しんじゃうんだ。どうしよう。しんじゃうってことは、もう明日が来ないんだ。誰にも会えなくて、何も見えなくて、聞こえなくて、わたしがわたしじゃなくなって……全部『なくなる』のに、地球や宇宙は『つづいて』いって……たらこのスパゲティも食べられなくて……どうしよう。」

引っ込み思案で、人に何かを伝えるのが苦手でした。苦痛と言ってもいいかもしれません。思っていることの2割も正確に伝えられない、そんな感覚でした。感情というのはあまりにも不確かで、霧の中に漂っているそれを探し出すのに苦労しました。心から口元までの道のりが、長い長い迷路のようです。あてはまる言葉にむりやり置き換え、喉のところまで持ってくるのですが、それがなかなか出てきてくれない。もごもごしているうちに、その言葉は熱量を失いどこかへ消えてしまう。それはとても苦しいことでした。

大人になってもあまり感覚は変わりません。ごまかすのが上手くなっただけで、今でも口で何かを伝えることは、大変なエネルギーが必要です。そして時々、混沌とした社会の中でさまざまな思いが巡るとき、あの湯船の中での「こわいよ、どうしよう」が襲ってくる。

京花さんの作品を見ていると、無防備で無知なあの頃の肉体に戻ったように、涙がとまりませんでした。お店の方は背後のカウンターの中にいましたから、気づかれないように背を向けたまま静かに泣きました。巻いていたマフラーの中に、涙がするする落ちていきました。

誰の目にも触れているであろう、誰の日々にも訪れるであろう景色なのです。水たまりやバースデーケーキや眠る人、など。でも、京花さんが覗いたレンズ越しの世界は、夢のように儚くて、白い光に溶けて消えてしまいそうでした。自分の肉体も魂も確かにここにあるはずなのに、時々ふと、それが「夢ではなく現実だ」ということを、一体誰が証明してくれるのでしょう。そんな、脆くて不確かな世界を土台にして、私たちはあまりにも多くのことを「きちんとしなければいけない」と思い込んでいるのではないか。分からない、どうしよう、本当のことに近づきたい。京花さんの作品は、そんな想いを私にもたらしてくれました。

トレーシングペーパーを指でそっとなぞって、その下にある文字を読みました。私の人差し指の爪の先は、ちょうどその日、少しめくれたように欠けていました。仕事中の作業で、ひっかけてしまって。京花さんの世界を、ぼろぼろの指先でなぞることは、あちらこちらにある痛みを共有するようにも感じられました。自分の手で作品に触れられることはなかなかありません。それは求めた場所へ繋がるための、祈りのようにも思えたのです。

朝の光が満ちる教会みたいでした。
教会は、神聖な人のための場所ではありません。だれにでも開かれているところです。自分の信じるものに従って、それぞれの人生を歩んでいけるように。
京花さんの写真のあるところは、そういう場所です。

私は自分の泣き顔が気になって、挨拶もそこそこにお店を飛び出してしまいました。角を曲がったすぐそこにはお寺があって、小さな門の軒先でまだぐずぐずとしていました。こどもみたいです。でも、これでいいのだとも思えました。私にとって、大事なことだと思いました。
曇っていた空から、ちらちらと雪まじりの雨が降り始めました。傘を持っていなかったのですが、そのままずんずんと歩きました。前髪が湿っていき、私の身体が冷たい空気を切り開いていく。知らない誰かが飾ったポストが、サンタさんになっている、そんな冬の町。目に飛び込んでくるひとつひとつ、不思議なことばかりです。

痛みや恐ろしさをも抱えて、私たちの日々はこれからも続くでしょう。
京花さんへ。答えの出ない問いについて、向かい合って、あるいは作品を通して、交わし合える時間にいつも感謝しています。元気でいてください。

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秋田 京花さん
Instagram @akt.kyk

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