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映画とエッセイ|『tick, tick...Boom!』とかぼちゃのスープ

2021年の暮れ、京都の映画館・出町座へ向かった。受付で「11時半からのチックチックブーンで」と伝えると、「チックチックブーンですね」と返ってくる。受け答えのリズムが、ちょっとかわいかった。
地下のスクリーンで観た年納めの一本は、ミュージカル『RENT レント』を生んだ作曲家、ジョナサン・ラーソンの自伝的ミュージカル『tick, tick...Boom!』。

ジョナサンは29歳。30歳になるまで、あと数日。時計の「チックチック」という音が、時限爆弾みたいに彼に忍び寄っている。これはミュージカル作曲家を目指す青年の、夢の実現への焦りと、友人・恋人との葛藤を描く作品。出町座の座席でハンカチを握りしめながら観た。

テレビでもネットでも、映画や小説などの芸術作品でも、「若者が懸命に夢を追いかけ成功するエピソード」はごまんとあって、わたしは「夢」という言葉がちょっとキライだ。

小学生のころ、クラスメイトがプロフィール帳を書きながらぽろっと言った。「将来の夢はないとだめだよ」って。小さな教室の小さな机はがたがたした。彼女はいつも髪をポニーテールにしていて、とてもしっかり者だったから、その言葉にわたしはひっそりと身を固くした。
わたしには夢がなかった。でも、そのことを後ろめたく感じたのとはちょっと違う。べつに「漫画描くの好きだから漫画家になろうかな」とか、「ゆっくり探したいと思ってる」とか、それなりに適当な言葉はいくらでもあったのだろうけれど、わたしはそれらが言えなかった。
うっすら心に灰色の雲がかかったのは、「こんな時、将来の夢をすらりと答えられるほうが上手くいくんじゃないかなあ、何事も……」そんなふうな気持ちのせいだと思う。社会はそういうふうに回ってるんじゃないか、と、ぼんやり思い始めていたのかもしれない。

今でも、本当のところはよく分からない。ただわたしが思うことは、夢があってもなくても、夢が叶っても叶わなくても、この世に生まれてしまったので、なんとかして生きていくだけだっていうこと。だから普段、「ドリームカムトゥルーっぽい映画」を特段好んで観るというわけではなかったし、ましてやこの映画を観ながら、こんなに泣くとは思っていなかった。マスクの内側もハンカチも、ぐしょぐしょになるくらいだった。

なんでこんなに泣いてしまったんだろ。上映後、出町座の中にあるカフェ「出町座のソコ」で頼んだカレーライスを待ちながら考えていた。

「いつもは付いていないんですが、かぼちゃスープが余っていて、飲みますか?」
カウンターの中から、店員さんがそう話しかけてくれた。
「いいのですか。」
「いいですよ。」
「お願いします。うれしいです」

えらく上ずった声だっただろうと思う。こんな寒い年の瀬に、かぼちゃのスープ。わたしはかぼちゃのスープが大好き。少しつぶつぶが残っている、とろーっと濃厚なスープだった。夢中になっている間、店員さんは炊飯器を開けてお皿にごはんを盛ってくれる。カレーの匂いがしてくる。うれしい。

「もうすぐ30歳だ、時間がない、ジョン・レノンは30でビートルズを解散したのに!」という主人公がもし、その才能が世に認められず、ダイナーのアルバイトで一生を終えたとしたら不幸だった? 愛する作曲とともにあった日々は本当に時間の無駄? 恋人のうなじに口づける瞬間は? 1990年、エイズが猛威を振るっていた当時のNYで、友人の死を身近に感じた恐怖は? 30歳を迎えた瞬間に、本当に時限爆弾は爆発する?
ピアノの音がまだ頭の中に残っていた。音楽が素晴らしくて、演者のふるまいが素晴らしくて、思いがこみ上げてしょうがなかった。人として生まれ、音楽に心を震わせ、歌い踊り、他人を羨み、大切な人を傷つけ、また抱きしめ合い、亡くして、やがて自分も死んでしまう。それだけなんだ、それだけなんだなあ。

夢を追う人にとってだけではない、今を生きる全ての人に響く映画なのだと思う。時限爆弾は誰の体の中にもあって、命を終えるその瞬間までみんな道半ばなのだから。
ところで、わたしは小さな頃から夢らしい夢がない人間だったけれど、大切にしたいことはたくさんある。心に留めておいて、いちいち感動していたいような。映画館の受付で小さなチケットをもらうこと。上映時間まで静かに待つこと。隣の席で観ていた女の子が涙を拭ったのにつられて、いつまでも泣きやめないこと。紙ナプキンで丁寧に包まれたカレー用のスプーン。オマケで出してもらえたかぼちゃスープの温かさも。
こういったことを胸の中からいつでも取りだして、自分を救ってあげられること。それを夢のひとつにしてもいいかもしれない。簡単なようで、とても難しいことだと思うから。

ジョン・レノンもジョナサンも、夢を叶えた天才だけれど、自分にとって大切なことを知っているはず。かぼちゃのスープをオマケにつけてもらえたら、彼らもウレシくてにっこりしてくれるといいのだけれど。

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