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日本語を守りたい

長く職人的な仕事をされている方が、「一生をかけて、さらには子供の世代にも受け継いで、自分の仕事を続けたい」とおっしゃるのを聞きました。その時、「僕もそういう風にして日本語を守りたいです」と思わず言いました。

口をついて出た言葉で、言ってから自分でも驚きました。

しかし、執筆や編集の仕事を通して、日本語の豊かさを後の世代に伝える営みに参加したいのは本心でした。

日本文学は世界に通じる

春頃、『日本語が亡(ほろ)びるとき』という本を読みました。2008年に出版された当時、かなり話題になりました。作家として国際交流をする著者のエッセイで、かんたんに言うと、世界的に一つの文化圏・言語圏として認められてきた日本の文学は、衰退の危機にあるのではないか。だとしたら、それは日本語という言語のピンチでもある、という内容でした。

日本には、書物に残るかぎりでも、古事記や万葉集(6,7世紀頃)の頃から脈々と続く、文学の伝統があります。それは変化しながら、時代ごとに新しい日本語の表現を生み出してきました。

そのため、20世紀になってグローバル化した世界の中でも、日本文学は一つの文学ジャンル、つまり「世界文学」として認められました。

すべての言語や地域が、そういう世界文学になれるわけではありません。たとえば、植民地時代に自分たちの言語を奪われ、公用語として持ち込まれた英語やフランス語に、土地の言葉が替わっていくこともあります。そういう場合、自国語で新しい文学を書いたり、朗読したり、昔の作品や詩を自国語で受け継ぐことが難しくなります。

日本はそういう意味で恵まれているし、言葉に関する努力をたゆみなく積み上げてきた国です。

そういう背景を踏まえつつ、著者は、日本文学が元気よく更新されなくなってきているのではないか、日本語を大切にしようという文化が衰えてきているという危機感を綴っていました。

日本語の恵まれた豊かさ

たしかに、日本語をこうして使えることや、翻訳や学習書をふくめ、日本語で本が読めるということは普通ではありません。というか、「日本に住む多くの人がそうできた」ということが普通ではないのです。

僕は、自分が日本人で、日本という国に住み、日本語を話すことを当たり前のように享受きょうじゅしてきました。けれど、世界を見渡せば「〇〇人」「〇〇という国に住む」「〇〇語」を話すといったことが一致しない国や地域は、たくさんあります。この3つが一致することは、おそらくかなりまれで、特別なことです。

たとえば、フィリピンの土着の言語はフィリピノ語ですが、公用語はフィリピノ語と英語のふたつで、職場や公的な機関では英語がよく用いられるそうです。

もう一つ付け加えると、「〇〇語を話す」ということと「〇〇語を読み書きする」というのも別のことです。たとえば、外国に住んでいて、家族とは母語で話すけれど、仕事や役所の手続きは外国語でする、ということもあるでしょう。

恵まれた境遇にある日本語と、それを守り育んできた祖先や昔の人々のことを思います。

伝統を受け渡す

冒頭の話に戻ると、「日本語を守りたい」というのは日本語の伝統をのちの世代に受け継ぐ一人でありたいということです。

それはただ「日本文学を守りたい」や「教えたい」ということではありません。たとえば、日本語は日常の礼儀作法とも関わっているし、暦のような生活や文化とも関わります。俳句の季語や二十四節気など、四季折々の言葉はたくさんあります。それは食文化ともつながっていますし、お茶の収穫や茶道などとも深く関わっています。各地の方言、風習、歴史とも密接です。

だから、日本語を大切にするということは、自分たちの生き方や生活と結びついています。そういう日本語を大切にすることは、職人の仕事がそうであるように、一生をかけても終わらず、次世代にバトンをつないでいくことでしょう。

それに「日本語」が変わらないということもありません。日々、日本語の使い方や外国語との関係が変わっていく、それを受け入れる柔軟さも含めて、今あるものを受け渡していくこと。それが「伝統を守り、言語を守る」ということなのかと考えます。

かつてアメリカ先住民の多くの言語など、少数民族の言葉で消滅した言語は多くあります。日本でもアイヌの言葉は消滅しかかっていますし、それはほかならない「日本人」のしわざです。

今日も日本語を話したり、書いたりすることを豊かな経験として分かち合いたいと思うのでした。


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