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自分で考える

この前、久々にグッド・ウィル・ハンティングを観た。

この映画の中で「自分でものを考えてる」という言葉が出てくる。「自分でものを考えてる」というのは、その出てきた文脈では「人の言葉を盗んでない、オリジナルだ」という感じで出てきてたけど、もっと広い意味があると理解してる。

価値とは何か

自分の作ったものの価値、自分がやってきたことの価値などを知りたいと思う時、評価という物差しはある。それは、多くは他人の評価になるわけだけど、他人の評価という客観性は参考になる気もするが、参考にならないこともある。と思う。

「自分の人生における価値」という観点がある。

それは他人には評価できないし、自分でしか決まらないことなんではないかと思う。

心から信頼する相手がいれば、その人に価値基準を委ねることもできると思う。自分の場合は妻で、自分がこれまでしてきたことや、考えてることもほとんど知ってて、その上で客観性もあり、こちらの価値基準も知ってコメントしてくれる。

あとはやっぱり自分だろう。自分の人生における価値は自分が一番知ってる。

人の基準

例えば、SNSとかに作品のことを流して反響を見ることはある。そういう時の反応の強さを指標にすることもできる。それは、自分の場合は「世間の」反応として心得ていて、それ受け止めて次に生かそうと思う。

他にも、コンテストなど審査員の評価を受けるようなこともある。賞を取りたいと思うとそういうことになる。

では、賞を取れなかったものは価値がないのか。

自分にとって価値が高いのに世間の評価が低いことはあると思う。自分の価値観と世間の価値観のチューニングをしたいときはそれを参考にしてチューニングするけど、自分にとって揺るぎない価値が確信できてる場合は、他人の評価で自分の価値が揺らぐことはない。

歳をとってそうなってきたのは、頭が固くなったのかもしれないが、価値が明確になってきたとも言える。「価値観が明確になることの価値」(言いたかっただけ)

自分の価値観

価値観というのは人それぞれ違うはずだ。良しとすることも違うだろうし好みも違う。育った環境も見てきたものも違う。美味しいと思うラーメンも違えば、笑うツボも違う。

そういう多様な価値観を認める時代において、評価基準を他人に委ねるということと、自分の価値は自分で決めるということのバランスはとても難しいと感じる。

考える

AIが思考して見える昨今、自分の思考さえもただの言語モデルかと、ただの経験からの反射なのかと嘆くこともあるが、考えることの大切さはちゃんと自覚しておきたい。

自分の価値基準をどこに置くのか、それを言語化したり抽象化したり、何度も繰り返して体に染み込ませる。

それは「考える」というプロセスで馴染むイメージがある。

人の思考を知ることで、自分で考えたような感覚を得ることはできると思う。自分の思考で得た感覚は結論が同じだとしても違う気がする。

自分の経験と、自分の言葉によるもので思考することで自分の思考が得られるのか。

とにかく

自分のなかの「価値」は自分で決めていきたいものだ。

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