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里山ナショナリズムの源流を追う 21世紀環境立国戦略特別部会資料から

更新情報
・誤字、表記ゆれの修正と、IGESに関する追記を行いました。(2019年12月31日)
・矢原徹一さんのブログ記事での指摘を受け、総合地球環境学研究所のプロジェクト「日本列島における人間ー自然相互関係の歴史的・文化的検討」に関する内容を修正しました。(2020年1月1日)
・矢原徹一さんが『環境史とは何か(シリーズ日本列島の三万五千年史ー人と自然の環境史1)』中の「第5節 西欧的自然観と日本的自然観の違いとその意義」を公開してくださいましたので以下のリンクを追記します。是非ご一読ください。(2020年1月2日)

西欧的自然観と日本的自然観 - 空飛ぶ教授のエコロジー日記  (Y日記)(研究業務用)
https://yahara.hatenadiary.org/entry/2020/01/02/210245

本稿の内容は私の独自調査と考察に基づき構成されています。登場する人物について、私と交流あるなしにかかわらず、公開前に特定の誰かの主張を反映させていません。全て私の考えで書いています。ご意見ご指摘は本記事のコメント欄からか、もしくはSNSアカウントまで寄せていだけると幸いです。
https://twitter.com/MC_sashiba

矢原先生のブログの当該記事はこちらになります。

「里山ナショナリズムの源流を追う」へのコメント - 空飛ぶ教授のエコロジー日記  (Y日記)(研究業務用)
https://yahara.hatenadiary.org/entry/2020/01/01/164425

法定計画中の中の日本人像

「自然と共生してきた日本人」
このような表現は現在、環境省が所管する法定計画の中に多く見られます。

私たち日本人は、豊かな恵みをもたらす一方で、時として荒々しい脅威となる自然と対立するのではなく、自然に対する畏敬の念を持ち、自然に順応し、自然と共生する知恵や自然観を培ってきた。
我が国の文化は自然との調和を基調とし、自然とのつきあいの中で、日本人の自然への感受性が培われ、伝統的な芸術文化や高度なものづくり文化が生まれてきた。
第五次環境基本計画 37ページ  平成30年4月17日https://www.env.go.jp/press/files/jp/108982.pdf
私たち日本人は、自然と対立するのではなく、自然に対する畏敬の念を持ち、自然に順応し、自然と共生する知恵や自然観をつちかってきました。
このように、豊かですが荒々しい自然を前に、日本人は自然と対立するのではなく、自然に順応した形でさまざまな知識、技術、花鳥風月などを題材とした特徴ある芸術、豊かな感性や美意識をつちかい、多様な文化を形成してきました。その中で、自然と共生する伝統的な自然観がつくられてきたと考えられます。
生物多様性国家戦略2012-2020 ~豊かな自然共生社会の実現に向けたロードマップ~ 平成24年9月28日 10ページ
https://www.biodic.go.jp/biodiversity/about/initiatives/files/2012-2020/01_honbun.pdf

これは具体的には生物多様性国家戦略における「第2の危機」に関する内容です。

2 第2の危機(自然に対する働きかけの縮小による危機)
第2の危機は、第1の危機とは逆に、自然に対する人間の働きかけが縮小撤退することによる影響です。里地里山の薪炭林や農用林などの里山林、採草地などの二次草原は、以前は経済活動に必要なものとして維持されてきました。こうした人の手が加えられた地域は、その環境に特有の多様な生物を育んできました。また、氾濫原など自然の攪乱を受けてきた地域が減り、人の手が加えられた地域はその代わりとなる生息・生育地としての位置づけもあったと考えられます。しかし、産業構造や資源利用の変化と、人口減少や高齢化による活力の低下に伴い、里地里山では、自然に対する働きかけが縮小することによる危機が継続・拡大しています。
生物多様性国家戦略2012-2020 ~豊かな自然共生社会の実現に向けたロードマップ~平成24年9月28日 29ページ
https://www.biodic.go.jp/biodiversity/about/initiatives/files/2012-2020/01_honbun.pdf
https://www.biodic.go.jp/biodiversity/about/initiatives/index.html

過去の日本人は「自然と共生」してきたが、現在は自然への働きかけが縮小し、人の手が加えられることで維持されてきた「里山」の生物多様性が低下している

これが生物多様性国家戦略における「第2の危機」です。

生物多様性国家戦略ではわが国で生物多様性にを損なっている要因を4つに分類しており、「第1の危機」は開発などの人間活動による危機、「第3の危機」は人によって持ち込まれた外来種等による危機、「第4の危機」は気候変動による危機としています。

こうした日本人観と「第2の危機」対策は、環境省が行っている里山政策の根拠になっています。

1.問題の背景
(1) 里地里山の定義と特性
里地里山は、集落を取り巻く農地、ため池、二次林と人工林、草原などで構成される地域であり、相対的に自然性の高い奥山自然地域と人間活動が集中する都市地域との中間に位置しています。里地里山の環境は、長い歴史の中でさまざまな人間の働きかけを通じて形成され、動的・モザイク的な土地利用、循環型資源利用が行われてきた結果、二次的自然に特有の生物相・生態系が成立し、多様な生態系サービスを享受しつつ自然と共生する豊かな生活文化が形成されてきました。
里地里山保全活用行動計画 ~ 自然と共に生きる にぎわいの里づくり ~ 平成22年9月15日 環境省 1ページ
https://www.env.go.jp/nature/satoyama/keikaku/1-1_keikaku.pdf
http://www.env.go.jp/nature/satoyama/keikaku.html

かつて行われていた「自然との共生」を取り戻そう、というわけです。
ここで言う「自然」は手付かずの「原生の自然」とは別の、いわゆる「二次的自然」のことです。

環境基本法は環境省所管の法律の中で最上位の法律であり、環境基本計画は同じく最上位の法定計画です。
自然環境だけでなく水や大気に関する法律や計画など環境省全ての計画はこの法律と計画に基づいて定められています。
生物多様性国家戦略は自然環境分野の法定計画では最上位の計画です。
生物多様性国家戦略の下に里地里山保全活用行動計画などの具体的な計画が置かれています。

本題から逸れますが法律と法定計画の構造について簡単に確認しておきましょう。

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入れ子構造になっています。
生物多様性国家戦略は生物多様性条約の表記に従い「戦略 strategy」という表現をとっていますが、国の生物多様性保全基本計画と読み替えていただいて問題ありません。
個別の法律に基づきそれぞれ計画が定められています。外来生物法には外来種被害防止行動計画といった具合です。

環境基本計画は現在第5次(2018年4月閣議決定)、生物多様性国家戦略も第5次(2012年10月閣議決定)です。
生物多様性国家戦略は2020年に中国で開かれる生物多様性条約第15回締約国会議のあと、2021年9月の改定が予定されています。

さて本題です。
「自然と共生してきた日本人」という考え方は、当初から生物多様性国家戦略の中に盛り込まれ、現在は上位計画である環境基本計画にも反映されています。
一般にも広く信じられている考え方であり、疑問を持つ人は多くないかもしれません。

「自然共生」が新しい日本ブランドになる | nippon.com
https://www.nippon.com/ja/views/b00301/

外国人が心底驚く日本人の特異な「自然観」 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
https://toyokeizai.net/articles/-/188765

実際に日本人が自然と共生してきたかというと、必ずしもそうではないようです。
研究の結果、過去には収奪的な資源利用があったこともわかってきています。
そもそもなにをもって「共生」と呼ぶのかは非常に難しい問題です。

終章 森林資源の持続と枯渇 判断の基準とは
一 人間社会の持続と森林の持続
 それでは、先に述べた退行遷移的な植生の連続の中で、どこかで退行が止んで平衡した場合は、それを持続的利用が成立したとみなしてよいのだろうか。しかし、よく考えてみれば、資源回復の可塑性を越えてしまうほど人の利用圧が強くないかぎり、資源は劣化したとしても、荒廃地にまでは至らないどこかの段階に留まることになる。そのような、単なる下げ止まり状態を、持続的利用と呼ぶべきだろうか。持続という言葉に、資源管理上の積極的な評価をこめるのであれば、それは、利用する側が価値を認めて対象とした資源の状態について、使用されるべきである。
大住克博・湯本貴和. 2011年. 『シリーズ日本列島の三万五千年 ―人と自然の環境史 第3巻 里と森の環境史』. 文一総合出版. 251-253ページ.

それにもかかわらずこういった言説は広く信じられ、政策に取り入れられています。
「日本人は自然と共生してきた」という考え方はいったいどこからやってきたのでしょうか。

本稿ではこの「自然に対する畏敬の念を持ち、自然に順応し、自然と共生する知恵や自然観を持つ想像上の日本人像」とその像への信奉を「里山ナショナリズム」と定義し、これがどこから現れたのかについて検証します。

これを解くヒントとなりそうな資料があります。

21世紀環境戦略特別部会資料「伝統的な自然観を現代に活かした美しい国づくり」

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これは「21世紀環境立国戦略策定」にあたり招集された「中央環境審議会 21世紀環境立国戦略特別部会」で配布された資料です。

中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会(第5回)議事次第・資料
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/y320-05.html
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/y320-05/ref01-4.pdf
中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会
https://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/yoshi32.html

礼賛的な内容ですね。著名な哲学者の名前があります。
どの程度参照されたのかはわかりませんが、実際にこういった内容が「21世紀環境立国戦略」に反映されています。

(2) 「環境立国・日本」に向けた施策の展開方向
① 自然との共生を図る智慧と伝統を現代に活かした美しい国づくり
古来より私たち日本人は、生きとし生けるものが一体となった自然観を有しており、自然を尊重し、共生することを常としてきた。我が国には、例えば里地里山に代表されるように、自然を単に利用するだけではなく、協働して守り育てていく智慧と伝統がある。
こうした伝統的な自然観は現代においては薄れつつあるが、自然に対する謙虚な気持ちを持って、協働して自然を守り育てていくという智慧と伝統は、持続可能な社会を目指す上で、我が国のみならずアジアを始めとする世界に発信できる積極的な意義を持つ。我が国の環境・エネルギー技術などの強みに加えて、自然との共生を図る智慧と伝統を現代に再び活かすことにより、自然の恵み豊かな美しい国づくりを目指す。
21世紀環境立国戦略 平成19年6月1日
https://www.env.go.jp/guide/info/21c_ens/21c_strategy_070601.pdf
https://www.env.go.jp/guide/info/21c_ens/index.html

断定的な書き方がされています。法定計画の中では事実として扱われています。

21世紀環境立国戦略は、「国内外あげて取り組むべき環境政策の方向を明示し、今後の世界の枠組み作りへ我が国として貢献する上での指針として『21世紀環境立国戦略』を6月までに策定する」という2007年1月の安倍内閣総理大臣による施政方針演説に基づき策定された指針です。
「低炭素社会」「循環型社会」「自然共生社会」の実現により持続可能な社会を目指し、自然共生の智慧と伝統や公害克服の経験を「環境立国・日本」として世界に発信しようと謳っています。
2019年現在もこの指針に基づき様々な法定計画が策定され、政策として実施されています。

まずは資料中に出てくる人物と引用されている文献について整理しましょう。


資料中に登場する人物と文献

人物についての簡単な説明を wikipedia から紹介し、資料中で引用されている箇所について引用元と比較、同じ文献中から気になる箇所をピックアップしてみます。

寺田寅彦
1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日。物理学者、随筆家、俳人。

●寺田寅彦(日本人の自然観 寺田寅彦随筆集 第五巻、1948)
日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のこと。
中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会(第5回)議事次第・資料
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/y320-05/ref01-4.pdf
日本人の自然観 日本人の精神生活
 単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のような多彩にして変幻きわまりない自然をもつ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も気も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守の杜を建てさせた。これも日本の特色である。(昭和十年十月、東洋思潮)
寺田寅彦随筆集第5巻 245ページ 岩波文庫

この文章の末尾には以下のような追記があります。

(追記) 以上執筆中雑誌「文学」の八月特集号「自然の文学」が刊行された。その中には、日本の文学と日本の自然の関係が各方面の諸家によって詳細に論述されている。読者はそれらの有益な所説を参照されたい。またその巻頭に掲載された和辻哲郎氏の「風土の現象」と題する所説と、それを序説とする同氏の近刊著書「風土」における最も独創的な全機的自然観を参照されたい。自分の上述の所説の中には和辻氏の従来すでに発表された自然と人間との関係についての多くの所論に影響されたと思われる点が少なくない。また友人小宮豊隆・安倍能成両氏の著書から暗示を受けた点も多いように思われるのである。
寺田寅彦随筆集第5巻 252ページ 岩波文庫

和辻哲郎の「風土」の影響を受けているようです。
「風土」を参照されたいと寺田は書いています。

「日本人の自然観」は青空文庫でも読むことができます。

図書カード:日本人の自然観
https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2510.html



福島要一
1907年(明治40年)8月5日 - 1989年(平成元年)9月1日。農林官僚、農業経済学者。

●福島要一(自然保護とは何か、時事通信社、1975)
もともとの日本語をヤマト言葉と呼べば、ヤマト言葉に『自然』を求めても、それは見あたらない。それは、古代の日本人が『自然』を人間に対立する一つの物として、対象として捉えていなかったからであろうと思う。自分に対立する一つの物として、意識のうちに確立していなかった『自然』が、一つの名前を持たずに終わったのは当然ではなかろうか。
中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会(第5回)議事次第・資料
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/y320-05/ref01-4.pdf
 大野晋氏の『日本語の年輪』の冒頭には、次のような箇所がある。
 「もちろん、日本語の方がいつも言葉の数が多く、ヨーロッパ語の方がいつも少ないというのではない。ヨーロッパ語にあって、日本語に欠けている言葉もある。例えば、英語には『自然』という言葉がある。ネイチュア nature がそれである。このネイチュアにあたる言葉は、日本語では『自然』という他、何とも言いようがない。中国語やヨーロッパ語から借り入れたものではない。もともとの日本語をヤマト言葉と呼べば、ヤマト言葉に『自然』を求めても、それは見当らない。何故、ヤマト言葉に『自然』を発見できないのか」。
福島要一. 1975年. 『自然の保護』. 市民の学術双書. 3ページ.
 前記大野の『日本語の年輪』では、先の問題提起に続いて、何故ヤマト言葉に「自然」が発見できないのか、という点について、
「それは、古代の日本人が『自然』を人間に対立する一つの物として、対象として捉えていなかったからであろうと思う。
福島要一. 1975年. 『自然の保護』. 市民の学術双書. 5ページ.

なんとほとんどが国語学者大野晋の著作からの内容です。
21世紀環境立国戦略のこの資料では福島要一の言葉のように読めてしまいます。

この文章の直前に、こんな内容があります。

 この点については、本書の中で、四手井綱英氏が。「自然観について」というところで、いくつかの面白い考え方を提起していられるが、そうした自然科学的な解明については、すでに寺田寅彦や、和辻哲郎がそれぞれ卓見を述べており、特に和辻の『風土』は有名である。後にその中から若干のものを引用させて貰うが、そうした解釈自体にも多くの異説がある。しかし今は、もう少し手前のほうから問題を掘り下げてみよう。
福島要一. 1975年. 『自然の保護』. 市民の学術双書. 5ページ.

再び和辻哲郎です。どうやら和辻哲郎が鍵のようです。
以下のように続きます。

 前記大野の『日本語の年輪』では、先の問題提起に続いて、何故ヤマト言葉に「自然」が発見できないのか、という点について、
「それは、古代の日本人が『自然』を人間に対立する一つの物として、対象として捉えられていなかったからであろうと思う。自分に対立する一つの物として、意識のうちに確立していなかった『自然』が、一つの名前を持たずに終わったのは当然ではなかろうか。」
 といっている。そして、それは、日本人の思想が、元来、アニミズム的であったということに結びつくのではないかとも述べている。
福島要一. 1975年. 『自然の保護』. 市民の学術双書. 5-6ページ.
 仏教の思想が入る前からあったこの日本人のアニミズム的思想は、実は現在の日本人の感覚の中で、も消えていないようである。自然界のあらゆるものが、「たましい」をもっているという観念は、「一寸の虫にも五分の魂」などということわざなどで、われわれの日常感覚の中にも入ってきている。大きな樹があれば、それが神として扱われる。しかしまた逆に、人間が死んで神になる、という概念がある。
福島要一. 1975年. 『自然の保護』. 市民の学術双書. 7ページ.

さらに「日本人の思想はアニミズム的」であると言っています。
アニミズムとは、wikipedia によれば「アニミズム(英語: animism)とは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方」だそうです。
特別部会の資料中にも注釈がありますね。



梅原猛
1925年(大正14年)3月20日 - 2019年(平成31年)1月12日。 哲学者。

●梅原猛(共生と循環の哲学、小学館、1996)
アニミズムと融合して日本化した仏教を生命(自然)中心主義として高く評価。近代化の中で忘却された日本的仏教思想の伝統の復権を21世紀を救う思想として強調。その評価の中心は、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)のスローガンに代表される生命平等主義と、輪廻思想に象徴される人間と自然の間の循環思想にある。
中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会(第5回)議事次第・資料
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/y320-05/ref01-4.pdf

これが大問題で、梅原猛の『共生と循環の哲学』の中にこのような文章はありません。
この本は講演をまとめたものなので「ですます調」で書かれています。
この資料は「この本を読んだ誰かがまとめた梅原評」という印象です。
同じ資料の安田喜憲の著書に関しても同様のまとめが用いられています。
国の指針策定がこのような雑な資料に基づいて行われていることは好ましくありませんね。

内容を検証するために梅原の著作から関係がありそうな箇所を多めに抜粋しておきます。

神道と仏教
共生と循環――神道の原理
 このようにみると、縄文人の宗教はいまだ現代の日本人の心のなかに生きているということができます。私は、このような共存と循環の信仰は狩猟採集時代、すなわち縄文時代の日本にだけ存在するものではなく、旧石器時代の共通な人類の思想的原理であったのではないかと思います。
 エドワード・タイラーにひょって原始社会の宗教として明らかになったアニミズムと日本の神道はほとんど変わりはないと思います。私は、タイラーが原始社会の宗教をアニミズムと定義したことには賛成ですが、アニミズムは幼稚な宗教原理で、現代においてまったく意味をもっていないする点において、タイラーと意見を異にするものであります。このような思想ははなはだ非科学的なものにみえますが、循環の原理は現代の科学明らかにした遺伝子の不死ということの神話的な説明ではないかと思うのです。われわれの遺伝子はまちがいなく子孫に遺伝され、子孫が生きながらえるかぎり、その遺伝子は永遠です。遺伝子は、個体が生き変わり死に変わりしてもなお生きつづけるものなのです。魂の不死を遺伝子の不死に置き換えれば、アニミズムのもつ循環思想は、デカルトのように我のみを認め、死後は無であると考える近代的世界観より、はるかに科学的であると思います。神道の話はこれくらいにして、仏教の話に移りたいと思います。
(一九九五年一一月一五日・アメリカ 講演会「日本の宗教の現代的意味)
梅原猛. 1996年. 『共生と循環の哲学』. 小学館. 303ページ.

アニミズムに関する箇所です。アニミズムは循環思想だそうです。

ギリシアで考えたこと
旅から学んだ哲学者、和辻哲郎の風土論
 それはやはり見事な一つの生き方だと私は思いますが、西田のような哲学者に対して、旅が一つの大きな思想の契機になる哲学者がいます。その代表が和辻哲郎だと思う。和辻は大正の終わりに、留学の旅に出ます。当時は船旅で、海路、アジア大陸に沿って東から西へと横断した。その旅が彼にたいへん大きな収穫をもたらしたことはまちがいありません。この旅で、彼は農学者大槻正男博士といっしょになり、大槻博士の「ヨーロッパには雑草がない」という言葉が、和辻の頭に天啓のように受けとめられ、彼の西洋観が変わった。そして、あの有名な『風土』という本が書かれたのです。ご存じのように、和辻はこのなかで風土を三つの類型――東アジアのモンスーン域、アラビア、アフリカ、蒙古などの砂漠域、それからヨーロッパの牧場というように分けた。そしてモンスーン、砂漠、牧場の三つの風土的特性をあげ、それぞれが人間にどのような影響をおよぼすかというひじょうに新しい一つの哲学を、彼は提唱した。その意味でも現代なお生きる思想家として、西田と和辻が挙げられるのではないかと思いますが、彼らの哲学は、それぞれまったくちがった方法によってつくられている。
 和辻はやはり他者との対話を通じて、たとえば自然科学者との対話を通じて、彼のなかにひらめいた新しい直観をもとに読書をし、思弁して、一つの哲学体系を構築していった。それが『風土』ですが、当時『風土』はたしかにひじょうに斬新な視野を拓きました。それは、ヘーゲル流あるいはマルクス流の一元史観に対して、風土によって歴史は一様に発展しないんだという、一つの多元史観を唱えたからです。これは後に梅棹忠夫さんたちの生態史観にもたいへん大きな影響を与えたと思いますし、いろんな学問分野へ影響を与えた画期的な世界観だったと思います。しかし、これも現在からみればひじょうに問題が多い。元来、哲学者というものは完璧な思想体系を提唱するようなことはしなくてもいいのではないか、新しい視野を拓き、その後につづく人たちが議論を積み重ねてゆく、そこに新しい学問が生まれる、そういうことでいいのではないかと思います。そういう意味で、『風土』はやはりたいへんな名著であると思うのです。
 この和辻の風土論に何が欠けているのか。動物生態学者の河合雅雄さんによると、和辻の考え方には森という概念が落ちているという。この指摘は和辻批判としてひじょうに正しいと思います。和辻はモンスーン地帯と砂漠と牧場という三つの類型をあげたけれど、むしろ森と砂漠と牧場しなければおかしい、モンスーンというのは気候であって、砂漠や牧場といった風土と対応する概念としてあげることは根本的に不正確ではないか、というわけです。モンスーンに換えて森という概念を当てはめると、森から稲作農業へ、そしてまた砂漠や牧場から小麦農業へというように、生産の問題とも結びついてくる、そういう新しい風土論が可能ではないかと思います。最近、久しぶりに『風土』を読んで、私は和辻のいろいろな見解に、あらためて考えさせられることが多かった。
(一九九二年五月二四日・山形県鶴岡市 国際日本文化研究センター主催「文明と環境」公開シンポジウム)
梅原猛. 1996年. 『共生と循環の哲学』. 小学館. 93ページ.

和辻哲郎の『風土』について説明しています。

やはり「アニミズム」「風土」です。そして和辻の『風土』は「梅棹忠夫さんたちの文明史観」に影響を与えたそうです。
西田幾多郎や和辻哲郎などの京都学派に対し、梅原や梅棹らを新京都学派と呼ぶことがあります。

第四章 〝森の思想〟が人類を救う
草木国土悉皆成仏の心理 ― 環境破壊にたいして
 この極限において、華厳仏教でいう昆慮遮那や、密教でいう摩訶昆慮遮那、大日如来が出現したわけです。もはやここでは仏はたんなる人間ではなく、太陽に象徴される宇宙の中心にあって、万物をそれによって生ぜしめるものになるわけです。日本の仏教の合言葉になった「草木国土悉皆成仏」ということが、まさにこの自然中心の宗教となった仏教のあり方を示しているのです。人間だけが仏になるのではありません。生きとし生けるもの、動物も植物もあらゆるものが仏になれるのです。
 現代において真に注目すべき自然科学の発見は三つあるといいます。一つは相対性理論、一つは量子力学、もう一つが遺伝子の発見です。この遺伝子はDNAという形で存在し、このDNAは人間だけにあるものではなく、あらゆる動物、植物に存在するのです。
 あるキリスト教の科学者は、人間は神によって他の動物とは別なものとしてつくられている、と聖書に書いてあるので、人間にはDNAではなく別の遺伝子があるのではないかと一所懸命それを探したが、そんなものはなかったという、笑うに笑えぬ話がありますが、まさにこのDNAの発見こそ、私は「草木国土悉皆成仏」という大乗仏教の心理の正しさを証明したものではないかと思います
 根底にこのような宇宙観を含んでいる仏教はさらに発展して、そこから二十一世紀以後の世界の人類の規範になるような宇宙観を構成することができます。そして仏教徒は、今日、この自然破壊の文明にたいして強い怒りをもち、環境保護運動の先頭に立たねばならないのではないかと私には思われるのです。
梅原猛. 1995年. 『森の思想が人類を救う』. 小学館. 161-163ページ.

なにやら壮大な話ですが、要約すると日本の仏教が持つ「草木国土悉皆成仏」という自然中心の思想を用いて環境問題に取り組め、ということでしょう。
『森の思想が人類を救う』第4章「〝森の思想〟が人類を救う」の小題は「哲学者の任務」「世界に誇るべき日本の森林」「森の文明の考え方」「日本の社会を貫く平等と和の原理」「二十一世紀に必要な羅漢の和」「日本の芸術にあらわれた自然観」「宗教にあらわれた森の思想」「二十一世紀最大の危機-環境破壊」となっています。

和辻哲郎の「風土」「アニミズム」、梅棹忠夫の「文明の生態史観」「草木国土悉皆成仏」「森」がキーワードのようです。


安田喜憲
1946年(昭和21年)11月24日 - 。 地理学者、環境考古学者。

●安田喜憲(大地母神の時代、ヨーロッパからの発想、1991)
日本には古来より山や川あるいは動植物にいたるまで神の存在を予感し、生命あるもの生きとし生けるものが一体となった世界観をもっていた。ヨーロッパの人々が主に人間だけが持つ観念あるいは精神を中心にして、一切の存在を見ていたのとはまったくことなった世界であった。
中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会(第5回)議事次第・資料
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/y320-05/ref01-4.pdf

前後はこうなっています。

Ⅰ日本とヨーロッパ ― 三つの時代
3 異質性認識の時代
自然生命的存在論の発見
 梅原氏の代表作というべき『美と宗教の発見』のなかで、梅原氏は「自然生命的存在論」の重要性を指摘する。それは奇しくも和辻哲郎批判という形で述べられている。
 日本には古来より山や川あるいは動植物にいたるまで神の存在を予感し、生命あるもの生きとし生けるものが一体となった世界観をもっていた。それはヨーロッパの人々が主として人間だけがもつ観念あるいは精神を中心にして、一切の存在を見ていたのとはまったくことなった世界であった。梅原氏は、この日本人が古来よりもっていた伝統を「自然生命的存在論」と名づけたのである。
 ところが和辻は、この古代の日本人が持っていた生きとし生けるものを中心として、あらゆる存在を考えようとする「自然生命的存在論」の存在にほとんど気づいていない。こう梅原氏は指摘したのである。
安田喜憲. 1991年.『大地母神の時代』. 角川書店. 31ページ.

一転して和辻哲郎が批判されています。
安田は和辻を批判しつつ梅原を評価しているようです。
本書ではこのほかに以下のような記述も見られます。

Ⅰ日本とヨーロッパ ― 三つの時代
3 異質性認識の時代
異質性認識の時代の到来
 これまでヨーロッパと日本が相違していることを指摘する比較文明論は数限りなくあった。しかし、それらの多くはいずれもヨーロッパ文明の優越と日本文明の劣等感に根ざしていたように思う。ヨーロッパ文明との異質性の認識は、日本文明の劣等性の認識と裏腹の関係にあった。
 そうした中で、日本人が古来より伝統的に持っていた自然観や世界観の中に、人類の未来を救済しうる積極的な価値を認めた梅原氏の日本文化論の意味は大きいと思う。ヨーロッパ文明との異質性の認識が、近代ヨーロッパ文明にかわる新しい文明の潮流の創造という積極的な意味を持って登場したのである。東洋の「慈悲の文明」「安らぎの文明」が人類の未来を救済しうる可能性をひめて登場したのである。
安田喜憲. 1991年. 『大地母神の時代』. 角川書店. 35ページ.

やはり梅原を高く評価しています。
同時にヨーロッパの文明との比較から日本文化を再評価しているようです。

●安田喜憲(日本文化の風土、朝倉書店、1992)
日本人の自然観の特色は、円環的・循環的。限られた資源を有効に利用し、自然を破壊し尽くさない、自然=人間の循環系に立脚した文明を継承・発展。対して、西欧は、自然=人間搾取系であり、自然の側から見れば、一方的に搾取されるといった自然搾取型の文明の性格を持つ。
中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会(第5回)議事次第・資料
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/y320-05/ref01-4.pdf

これも誰かがまとめた要約です。
同書から関係している部分を抜粋します。

Ⅳ. 生態史的日本論
3. 自然=人間循環系の文明
家畜と文明
 日本人の自然観の特色は、一口でいば、円環的・循環的である。こうした日本人固有の自然観は、すでに縄文時代にその萌芽が見られる、一九七五年以来、筆者は福井県三方町の鳥浜貝塚遺跡の調査に従事してきた。遺跡から出土する縄文人の食料残渣を分析した西田正規は、イノシシやシカの骨に幼獣が少なく、かつ大半が晩秋から冬にかけて捕獲されていることを明らかにした。縄文人達は狩猟の季節を限定し、季節のリズムを核とした循環系の生活様式を、すでに六〇〇〇年前に確立していた。そこには限られた資源を有効に利用し、自然の生態系を熟知し、自然を破壊しつくさない、自然=人間の循環系に立脚した文明の胎動がみられる。
 こうした、自然を破壊しつくさない文明の性格は、これに続く弥生時代の農耕社会に入っても受けつがれている。それは里山とのかかわりに明示されている。弥生時代に日本列島へ伝播した農耕は、イネとそれに付随するウリなどの栽培作物や、オナモミなどの雑草を伴ってはいたが、食肉用家畜を欠如していた。近年、吉野ヶ里遺跡などでブタの骨が見つかっているが、食肉用の家畜を飼うことは、なぜか日本の稲作農耕社会では広く行われなかった。この点が、縄文時代以来の自然=人間循環系の文明を継承・発展させるのに幸いした。西欧と日本の農耕社会が、自然とのかかわりにおいて際立った相違をみせるのは、この家畜の地域社会における位置づけにおいてである。
(中略)
 こうして、すでに述べたようにイギリスでは、一八世紀の段階に国土の九〇%近い森林が消滅し、ていたのである。こうしたヨーロッパの農耕社会は、森(自然)の側からみれば、一方的に搾取される社会であり、自然搾取型の文明の性格を持つ。その搾取型の地域システムの核となっているのが、家畜である。
安田喜憲. 1992年. 『日本文化の風土』. 朝倉書店. 152-153ページ.

この2ページを要約して資料を作成したようです。
西洋の文明を搾取的、日本の文明を循環的だと評しています。

梅原と安田はともに1987年に梅原らによって設立された国際日本文化研究センターの教授という共通点があります。
1991年には「地球環境の変動と文明の盛衰ー新たな文明のパラダイムを求めてー」(略称「文明と環境」)というプロジェクトを両者が所属する国際日本文化研究センターで行っています。
梅原の『共生と循環の哲学』や安田の『大地母神の時代』や『日本文化の風土』にはこのプロジェクトを踏まえての内容が多く書かれています。

結論から言うと、このような梅原・安田の思想は「森の思想」と呼ばれています。
梅原は1987年の国際日本文化研究センター設立、1991年からの上記のプロジェクトを経て、日文研の所長を退官する1995年あたりまでに、このような考え方をまとめたようです。
このプロジェクトの成果は、全15巻の『講座 文明と環境』シリーズとして朝倉書店から出版され、参加者それぞれも単行本を発行しています。
「森の思想」やプロジェクトの内容については後段で取り上げます。


中西進
1929年(昭和4年)8月21日 - 。 文学者、教育者。

●中西進(国家を築いたしなやかな日本知、2006)
日本人は深く自然を愛し、命との相通を感じては四季の移ろいを楽しむ。むかしから日本人は自然を尊重し、破壊するよりも共生することを常としてきた。西欧で自然が人間に征服されるべきものと思われているのとは正反対である。
中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会(第5回)議事次第・資料
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/y320-05/ref01-4.pdf
七 草も木も仏になる 日本固有の自然観が生んだ、山川草木の成仏。そのことで成熟していった自然観
自然観の根幹を託した幻の『中陰経』
 日本人は深く自然を愛し、命との相通を感じては四季の移ろいを楽しむ。―こう言われて異論を唱える人はそう多くないだろう。むかしから日本人は自然を尊重し、破壊することよりは共生することを常としてきた。西欧で自然が人間に征服されるべきものと思われているのとは正反対である。―これも大賛成の声が大きいだろう。そのとおりだ。日本人は木々に精霊が宿ると、むかしから思ってきたのだから、と。
 しかし以上のような日本仏教における山川草木の成仏論を合わせ考えると、これは単純なアニミズムとは異質だと、いうべきだろう。もっと、十分に意識化され、哲学的に吟味された自然の見方である。仏教が草木成仏を唱えるのは、日本人の良質な自然観の、きわめてすぐれた吟味だったと思う。四季の変化を本覚し、秩序ある宇宙への回帰を「成仏」という快楽において見たのだから。
中西進. 2006年. 『国家を築いたしなやかな日本知 Japan Wisdom』. ウェッジ. 68ページ.

非常に礼賛的です。
ここでもアニミズム草木国土悉皆成仏が出てきます。
中西は梅原、安田らと同じく国際日本文化研究センターの教授で、90年代に同じ「文明と環境」プロジェクトに参加しています。


ここまでの流れをまとめます。

和辻哲郎「風土論」 → 寺田寅彦 → 福島要一

梅棹忠夫「文明の生態史観」

梅原猛・安田喜憲「森の思想」 = 国際日本文化研究センター → 中西進

21世紀環境立国戦略 ?

大まかな流れが見えてきました。


次は、資料中には出てこなかった和辻哲郎と「風土論」、梅棹忠夫と「文明の生態史観」について検討し、梅原・安田が「森の思想」に至った経緯について見ていきます。
いずれも多大な業績を残した思想家たちであり、この場で全像に迫るのは不可能です。
今回はごく簡単に、日本人観に関する内容に絞ってまとめます。


和辻哲郎「風土」、梅棹忠夫「文明の生態史観」、梅原猛・安田嘉憲「森の思想」

4名の3つの説について簡単にまとめます。

和辻哲郎の「風土」と脱「風土」
和辻 哲郎(1889年3月1日 - 1960年12月26日)。日本の哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家。

和辻は1927年から28年にかけての船旅によるドイツへの留学と、ハイデカーの哲学への考察をもとに、1931年に『風土 人間学的考察』を発表します。

『風土 人間学的考察』
「風土」では世界を3つに分類しています。
東アジアや東南アジアは暑熱や湿潤が特徴の「モンスーン地帯」です。
自然の猛威に晒されるかわりに自然の恵みも多く、「受容的・忍受的」な人間が形成されるとしています。
アラビアやアフリカは乾燥が特徴の「砂漠地帯」です。
強い結束の集団を形成し、少ない資源を奪い合うため、人間は「戦闘的・服従的」にあり方になるとしています。
ヨーロッパは乾季と雨季のある中間的な「牧場地帯」です。
自然は人間に従順であり管理しやすいため自然科学が発達し、人間は「合理主義的」なものになるとしています。

この本は人間の類型化、分類を目的としていません。ハイデカーの『存在と時間』に対し「空間 = 風土」の視点から人間を考察しようという試みです。
特別部会の資料で和辻ではなく寺田寅彦を引用していたのは、寺田の文章が「和辻の風土を読んで寺田が考えた『日本人の自然観』」だからでしょう。引用するならこちらのほうが扱いやすいですよね。

和辻に興味のある方は原本や以下の解説サイトをご覧ください。

和辻哲郎の『風土』を簡単にまとめてみる。具体例で分かりやすく解説、要約する哲学入門。
https://kotento.com/2019/05/18/post-3051/

和辻哲郎 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
http://www.ifsa.jp/index.php?kiji-sekai-watuji.htm

和辻哲郎の風土論
https://philosophy.hix05.com/Japanese/watsuji/watsuji03.huudo.html

和辻哲郎『風土』1929
https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/150202watzujiTetz.html

その和辻ですが、敗戦の経験とブラーシュの『人文地理学原理』との出会いから自身の『風土』に対して否定的な見解に転じたようです。このことはあまり語られません。

ブラーシュの『人文地理学原理』での考え方は環境可能論と言われています。ラッツェルに代表される環境決定論に対する反論として、人間は環境によって法則的に決定されるわけではなく、能動的に活動することができる、というもので、登場以降地理学の主流的な考え方になっています。

環境決定論は侵略を正当化し帝国主義を招いたという批判もあり、現在は否定的に扱われています。
一方で環境可能論も、自然に対する支配や破壊を肯定するものだという批判がされています。
この議論は現在でも行われています。あとで登場するダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』は環境決定論的であると地理学の分野から批判を受けています。
環境決定論、環境可能論についての議論は本題と外れるためここまでとします。

話を戻します。
環境決定論的な『風土』の考え方から脱し、環境可能論的なブラーシュの『人文地理学原理』に傾いた和辻を、安田喜憲は痛烈に批判します。それが前述の『大地母神の時代』です。

 これはどうしたことだろう。一九二七年に渡欧した和辻は、西洋の理性と東洋の感性が相補うことによって「風土的限定」を超えることができると記していた。でもいまはすっかり理性のとりこになってしまっている。
安田喜憲.1991年. 『大地母神の時代』. 角川書店. 24ページ

安田はブラーシュのような環境可能論を「人間の傲慢と自然破壊を加速度的に進行させる危険をはらんでいた」と考えているためです(安田 1991, 25)。

そして、和辻が考えを変える前の「風土」を高く評価し、それを新たに発展させたものとして梅棹忠夫の「文明の生態史観」を位置づけています。

和辻はユーラシア大陸の東のモンスーンアジアに感性を、西のヨーロッパに理性の光をみとめた。これに対し梅棹氏は東端の日本と西端の西ヨーロッパに歴史的な相似性、平行進化をみとめた。和辻はヨーロッパに理性へのあこがれを、梅棹氏は歴史の相似性をみとめたと言える。和辻によって先鞭がつけられたユーラシア大陸の風土学は、梅棹氏によって生態史観という名のもとに、新たな展開へと導かれたのである。
安田喜憲.1991年. 『大地母神の時代』. 角川書店. 25ページ

次は梅棹忠夫の「文明の生態史観」について見てみましょう。


梅棹忠夫と「文明の生態史観」
梅棹忠夫(1920年6月13日 - 2010年7月3日)、日本の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者。
生態学者、文化人類学者今西錦司の門弟のひとりです。
1974年から約20年間にわたり国立民族学博物館の初代館長を務めました。
国立民族学博物館は現在、国際日本文化研究センター、国立歴史民俗博物館、国文学研究資料館、国立国語研究所、総合地球環境学研究所とともに大学共同利用機関法人人間文化研究機構を構成しています。

大学としては主として動物生態学を専攻されたが、1944〜1945年の内蒙古の学術調査、及び1955年のカラコルム・ヒンズークシ学術探検を通じて民族学、比較文明学に転じられた。1957年に発表された論文「文明の生態史観」では、サクセッション(遷移)という生態学の概念を用いて人類文明史を説明され、西欧文明と日本文明がほぼ同じあゆみで進化したという「平行進化説」をうちだして新しい世界史モデルを示された。
C&C賞 | 公益財団法人 NEC C&C財団
http://www.candc.or.jp/kensyo/recipient_cc.html
http://www.candc.or.jp/kensyo/pdf/2002_candc.pdf

和辻と同じように海外での見聞をもとに自説を展開しました。
「文明の生態史観」では、ユーラシア大陸の東端の日本と、西端の西ヨーロッパを「第一地域」とし、この地域では歴史の展開(遷移)が順序よく進行(平行進化)したとしています。
ユーラシア大陸の日本と西ヨーロッパの間の地域を中国、インド、ロシア、地中海、イスラムからなる四大ブロックとし、ここではそれが行われなかったとしています。

当時論壇で影響力を持っていた唯物史観(マルクス主義)に対抗するものとして論争となります。一部からは「日本主義」的だと批判されます。
「文明の生態史観」は生態学的な観点から世界史を考察しようという試みであり、当初梅棹は「日本論」を展開するつもりはなかったようですが、その後の『日本探検』シリーズなどで日本文明の比較文化論研究を行うようになります。

その後、この「生態史観」を応用した考え方が多数出現します。
中央公論社で1990年代以降、川勝平太『文明の海洋史観』、安田喜憲『文明の環境史観』、村上泰亮『文明の多系史観』、森谷正規『文明の技術史観』、 吉野敏行「文明の代謝史観」など、梅棹の「文明の生態史観」の影響を受けた内容の書籍が多く出版されています。
前者3名は国際日本文化研究センターの教授職を務めました。
前述の『共生と循環の哲学』の中で梅原が「梅棹忠夫さんたちの生態史観」と言っていたのはこういうことです。

梅棹忠夫の文明の生態史観については以下の論文や記事が参考になるかもしれません。

「文明」と「文化」の変容 佐藤洋子 早稲田大学リポジトリ
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=25942&item_no=1&page_id=13&block_id=21

廣松渉の歴史観 : 梅棹生態史観との比較から 渡辺恭彦  同志社大学学術リポジトリ
https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/22966/?lang=0

「文明の生態史観」と東アジア共同体|日本総研
https://www.jri.co.jp/page.jsp?id=4767

アジアを忘れた丸山、戦争を忘れた梅棹【シリーズ歴史学の名著を読む:その4】梅棹忠夫『文明の生態史観』 - researchmap
https://researchmap.jp/joe6kypmo-2237052/

11月15日 - 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2000/11/15_0000.html

安田も前述の梅原と同様に『風土』と梅棹の『文明の生態史観』の関連性を指摘し、風土学から生態史観へと発展したと言っています。

次はその梅原と安田がどんな説を展開したのかについて見てみましょう。


梅原猛・安田喜憲「森の思想」

「森の思想」については若林明彦の以下の説明が参考になります。
『森の文明・循環の思想』や『共生と循環の思想』の内容が丁寧にまとめられています。
少し長いですがそのまま引用させていただきます。

三 日本の環境思想(エトスからのアプローチ)
 次に、こうした欧米の環境思想の倫理学的アプローチに対して、 より根本的な解決のためには自然と共生する心的傾向を回復すること、いわばエトスからのアプローチが必要だと説き、西洋文明に対する日本・東洋の文明を再評価し、その思想を現代に生かそうとする試みがなされている。その代表的なものが、和辻哲郎の「風土論」や梅棹忠夫の「文明の生態史観」に基づいた梅原猛や安田善憲の「森の思想」や岩田慶治の「ネオ・アニミズム」論である
1 文明論的批判
 梅原は、環境破壊の問題は文明そのものの成立と深く関係しており、文明の盛衰という視点から解明しないと根本的な解決には繋がらないとし、次のように論じる。
 まず、現代の環境破壊の直接的な原因は近代科学技術文明であり、それを正当化する理論が、人間と自然を峻別し、自然を客観的に捉える自然科学の知識によって自然を征服しようとするデカルトやべーコンの思想であったことは言うまでもない。しかし、それは第二次環境破壊と言うべきもので、破壊の原点、第一次環境破壊は、農耕牧畜(小麦農業と牧畜)によって築かれた四大文明にあった。というのも、農耕牧畜文明は、森を食いつぶして限りなく耕地・牧草地を拡大することによって成り立つものだからだ。そしてそれを合理化する思想が、ユダヤーキリスト教の人間中心主義的思想、人間が自然を支配する思想であった。つまり、西洋文明の農耕牧畜型社会は森を破壊することによって発展してきたことこそが環境破壊の根源なのである。
 それに対してアジアの稲作農業の文明は、それもまた耕作地を作ることにおいて自然破壊的要素をもっているには違いないが、農耕牧畜文明よりは破壊の度合いが少ない。なぜなら、稲作農業においては耕地面積がごく限られており、平地で水の引けるところでしか耕作は可能ではないし、その上、稲作農業が多量の水を必要とすることから水の貯蔵庫である森の破壊はきわめて限定されざるをえないからである。 そしてそれを支える思想が人間と他の生物の共生という思想と「すべての生き物は太陽のように絶えず生と死の循環を続ける」という循環の思想である。 すなわち、それが「森の思想」である。 それは、 本来農耕や牧畜の文明が発生する以前の人類共通の狩猟採集時代の世界観であったが、 稲作農耕文明においてはそれを多分に受け継いでいる点で、 環境保護の視点からは優れた文明である。
 このように論じた上で、 梅原は西洋文明と東洋文明を「超越神・唯一神教」対「アニミズム・多神教」 、「小麦の文明」対「米の文明」というように対峙させて、 前者の人間と自然の二元論思想および自然支配の思想(いわば「砂漠の思想」)を徹底的に批判し、 後者の人間非中心主義的な自然共生的「森の思想」を再生することが環境問題の解決には不可欠であると主張する。 彼にとって欧米の倫理学的アプローチは、 文明論を欠いている点で根本的な解決にはならないという。
 ところで、日本は豊かな森林に恵まれた国であり、 「森の思想」の伝統を残している。 実際、日本文化の基層とされる縄文文化は、 人間、 動物、植物すべてがこの世とあの世の絶えざる循環運動のなかにあるという共生と循環の原理をもち、稲作農耕文化に移行した後もそのアニミズム的自然観は神道に受け継がれ、さらに、 仏教伝来以降も天台本覚思想の「山川草木悉有仏性」に表れるようにきわめてアニミズム色の強い日本仏教を生み出した。 梅原は、 この点で日本は環境問題においてリーダーシップをとることができると主張する。
 同様に安田喜憲もまた、 彼の提唱する「環境考古学」(文明や歴史の変動をその舞台となる自然環境の変化と結びつけて解明する)の観点から一神教を「森を支配する文明」 、多神教やアニミズムを「森を守る文明」と規定し、とくに後者の原点として、 森の神々に畏敬の念をもつことによって自然と共生しつつも高度な文化を築いていた日本の縄文文化を高く評価する。 そして、 縄文文化時代の日本のような「森の環境国家」を建設することが環境問題の解決の鍵となると考える。
 しかし、 果たして梅原らが言うように日本の文化は一貫して自然共生型の文化であったと言えるかどうか、 そして自然共生の思想を日本人が明確に持ち合わせていたかどうか、 まずそこから検討する必要がある。
J-STAGE Articles - 環境思想における倫理学的アプローチとエトスからのアプローチ 若林明彦
https://doi.org/10.20716/rsjars.77.3_703

「日本の文化は一貫して自然共生型の文化であったと言えるか」という若林の指摘はとても重要です。
この点は後ほど検討します。

西洋と日本の自然観を対峙させるこのような梅原・安田の「森の思想」は、先に登場した福島要一とスチュアート・ピッケンの共著『環境と思想 その歴史と現在』の中で語られる日本人の自然観、西洋の自然観ともおおよそ符号しています。


以下、梅原、安田の著作からピックアップした「日本的なもの」と「西洋的なもの」を並べてみます。

日本的                                西洋的
縄文          弥生
狩猟採集        農耕牧畜
東洋          西洋
米           小麦
多神教         一神教  ユダヤ教・キリスト教
アニミズム       
神道          
日本仏教        
            ベーコン・デカルト・マルクス  
            唯物論
モンスーン・森林     牧場・草原
森を守る文明       森を破壊する文明
アイヌ・沖縄
山地型・縄文型      平地型・弥生型


このように対比させ、日本の特殊性や優位性を主張しています。

縄文と原生林を称える「森の思想」ですが、二次的自然「里山」についてはどう考えていたのでしょう。
安田は1996年の『森のこころと文明』での中でこう述べています。

第9章 動物裁判と魔女裁判
動物の擬人化
 日本人はこうした原生林を破壊したあとに成立してきた二次林の資源に強く依存した農耕社会をつくり上げた。アカマツや雑木林の二次林が生育する山を里山という。里山の落葉は水田の肥料としてなくてはならないものであったし、日々の薪や農耕具をつくる木材もすべて里山で得ることができた。里山でとれるキノコや山菜も大切な食料源だった。里山は水源涵養林の役割も果たした。そして、何よりもこの里山は、狐や狸の野生動物の生息地となったのである。
安田喜憲. 1996年. 『森のこころと文明』. 日本放送出版協会. 188-189ページ.
里山と日本人の動物観
 ヨーロッパではこうした里山に相当する部分は牧草地に変えられてしまい、牛や羊などの家畜は生育できたが、野生動物のすみかは失われてしまったのである。ところが日本では、この里山のおかげで、人間のすみかにきわめて接近した所に野生動物のすみかが長い間維持されてきた。さらに殺生を嫌う仏教の影響もあって、里山を核とする日本の農耕社会は、動物との共存の世界を実現したのである。
安田喜憲. 1996年. 『森のこころと文明』. 日本放送出版協会. 190ページ.

破壊という点では西洋の農耕牧畜と同様のように思われますが、原生林の破壊ののちに誕生した二次的自然「里山」は、資源の供給源であり、動物との共存の世界であると肯定的に評価しています。弥生時代は農耕文明ではあるものの西洋の農耕牧畜とはこの点で異なり調和的であるというわけです。

第11章 近代化と森林破壊
「洛中洛外図」が語る京都
 しかし、小椋純一氏は、現在では森に覆われて遠方から見ることのできない清滝川上流の天狗岩や大原の金毘羅山の岩山まで描かれていることから、現在よりはるかに森の少ない風景であったことを指摘している。だが、当時のイギリスと比較した時、どこまでも牧草地の続く風景に比べて、はるかに森の多い風景であったことは一目瞭然としている。「洛中洛外図」の中には、京都近郊の山へ行楽に出かけた人々が、アカマツ林の中を楽しそうに歩いている様が描かれている。
安田喜憲. 1996年. 『森のこころと文明』. 日本放送出版協会. 220-222ページ.

原生林の破壊は認めつつ、イギリスとの比較からアカマツ林を「森」として評価しています。
しかし、大原の金毘羅山の岩山まで見える禿げ山は、「森」と呼べるのでしょうか。
こうした禿げ山を「自然との共生」と呼べるのでしょうか。
そもそも梅原や安田らはどうしてこのような説に至ったのでしょうか。

次は梅原や安田が参加した国際日本文化研究センターと同センターによるプロジェクトについてです。


国際日本文化研究センターとプロジェクト「文明と環境」

国際日本文化研究センター(日文研)|日本文化に関する国際的・学際的な総合研究所
http://www.nichibun.ac.jp/pc1/ja/

国際日本文化研究センターについてホームページではこのように説明しています。

国際日本文化研究センター(日文研)は、日本の文化・歴史を国際的な連携・協力の下で研究するとともに、世界の日本研究者を支援するという大切な使命をもった、国の交付金によって運営されている大学共同利用機関です。
日文研とは|国際日本文化研究センター(日文研)
http://www.nichibun.ac.jp/pc1/ja/about/

設立の背景にはもう少し複雑な事情があるようです。

 ところが、物事には表があれば裏がある。経済が良くなったらなったで、日本異質論という名のネガティブな反日国際論調が欧米知識人の間で高まり、「金の匂いはするが顔の見えない日本人」「欧米とは異なるルールで金儲けしたインチキな日本」という日本人としてはいいがかりのような批判が、一方で巻き起こりつつあった時代でもあった。
 そんな時、現代の日本文化を国際的に研究し、「日本とは何か」を多面的に発信する新たな研究機関が国としても必要になっていた。
柴山哲也. 2014年. 『新京都学派 知のフロンティアに挑んだ学者たち』. 平凡社. 12-13ページ.
 一九八四年十月二十四日、中曽根康弘首相が京都を訪れたとき、桑原をはじめ新京都学派の五人の学者たちとの懇談会があった。場所は東山の南禅寺に近い風光明媚な野村別邸。出席者は桑原武夫、今西錦司、上山春平、梅棹忠夫、梅原猛の五氏だった。日文研創立に関して文部省などと表で交渉するのは縄文文化論を掲げて聖徳太子や柿本人麻呂の新解釈でジャーナリズムでも活躍していた梅原だった。梅原はに近い創立とともに初代所長に就任したが、日文研に賭けた情熱には激しいものがあった。
柴山哲也. 2014年. 『新京都学派 知のフロンティアに挑んだ学者たち』. 平凡社. 17ページ.
それにしてもなぜ中曽根首相が京都に日文研を作ることに積極的だったかというと、国際派の中曽根としては、サミット等で外国のトップと交流する際、どの国の元首も自国の文化を持ち出しいわばお国自慢の会話をすることをよく知っていた。サミットの場は国のトップが自国の教養や知性を競い合う場でもあり、経済力や外交術だけで乗り切れるわけではない。自国の文化にどれくらい造詣が深いか、相手の政治家としての知性と文化的力量、影響力をはかろうとする。欧米の真似ばかりして自分の国の文化やアイデンティティを曖昧にしている政治家は尊敬されない。そこで新しい日本文化研究を志向する京都の日文研創立に関して、中曽根の側にも推進したい内発的な動機があった。
柴山哲也. 2014年. 『新京都学派 知のフロンティアに挑んだ学者たち』. 平凡社. 18ページ.

朝日新聞の元記者で現在メディア学者として活動している柴山哲也はこう説明しています。
日文研構想は「日本」を研究し発信したい学者グループ側にも、教養として外交に活用したい政治家側にもメリットがあるプロジェクトでした。
こうして1987年に国際日本文化研究センターが京都市西京区に設立されます。

日文研についてはこちらの記事も参考になります。

日本研究の総本山・国際日本文化研究センター30年の軌跡 | nippon.com
https://www.nippon.com/ja/column/g00513/

そして1991年に、伊東俊太郎をプロジェクトリーダーとするプロジェクト「地球環境の変動と文明の盛衰(文明と環境)」が始まります。
研究分担者には安田喜憲、小泉格、速水融、埴原和郎、梅原猛の名前があり、小泉以外の所属は国際日本文化研究センターです。

KAKEN — 研究課題をさがす | 地球環境の変動と文明の盛衰ー新たな文明のパラダイムを求めてー (KAKENHI-PROJECT-02351014)
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-02351014/
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-04212114/

このプロジェクトの成果は15巻からなるシリーズ『講座 文明と環境』として朝倉書店から出版されているほか、参加者がそれぞれ多くの書籍を出版しています。

朝倉書店|検索結果[講座 文明と環境]
『講座 文明と環境 1 地球と文明の周期』
『講座 文明と環境 2 地球と文明の画期』
『講座 文明と環境 3 農耕と文明』
『講座 文明と環境 4 都市と文明』
『講座 文明と環境 5 文明の危機』
『講座 文明と環境 6 歴史と気候』
『講座 文明と環境 7 人口・疫病・災害』
『講座 文明と環境 8 動物と文明』
『講座 文明と環境 9 森と文明』
『講座 文明と環境 10 海と文明』
『講座 文明と環境 11 環境危機と現代文明』
『講座 文明と環境 12 文化遺産の保存と環境』
『講座 文明と環境 13 宗教と文明』
『講座 文明と環境 14 環境倫理と環境教育』
『講座 文明と環境 15 新たな文明の創造』
http://www.asakura.co.jp/G_11.php?sreiesname=13

地球環境の変動と文明の盛衰-新たな文明のパラダイムを求めて 研究成果(科学研究費助成事業データベースから)
[文献書誌] 中西 進: "謎の王国・勃海" 角川書店, 286 (1992)
[文献書誌] 埴原和郎: "朝倉書店" 日本人と日本文化の形成, 444 (1993)
[文献書誌] 伊東 俊太郎: "草原の思想・森の哲学" 講談社, 253 (1993)
[文献書誌] 伊東 俊太郎: "十二世紀ルネサンス" 岩波書店, 276 (1993)
[文献書誌] 小泉 格: "海・潟・日本人" 講談社, 302 (1993)
[文献書誌] 安田喜憲: "気候が文明を変える" 岩波書店, 116 (1993)
[文献書誌] 梅原猛: "森の文明・循環の思想" 講談社, 244 (1993)
[文献書誌] 梅原猛: "講談社" 森の文明・循環の思想, 248 (1994)
[文献書誌] 安田喜憲: "蛇と十字架" 人文書院, 237 (1994)
[文献書誌] 安田喜憲: "森と文明" 日本放送出版協会, 164 (1994)
[文献書誌] 安田喜憲: "古代文明と環境" 思文閣出版, 255 (1994)
[文献書誌] 安田喜憲: "日本文化と民族移動" 思文閣出版, 229 (1994)

自然科学の面からの環境史の研究だけでなく、その背景にある哲学や思想、歴史などの人文学的検討も行ったのがこのプロジェクトの特徴です。

『講座 文明と環境 第11巻 環境危機と現代文明』の中で梅原はこう言っています。

11. 破壊はいかにして起こり、今何をなすべきか 梅原猛
第二次環境破壊
 このような環境破壊の現状について、多くの自然科学者たちが各々専門の領域において正確なデータに基づいて警告していることであるので、ここで哲学者の私が改めて語る必要はあるまい。
(中略)
 日本の国土の67%にはまだ森が残されている。しかもその森のうちの40%は天然林であるといわれる。国土の3分の2が森であり、しかも天然林が国土の3割を占めるというような先進国は他に存在しない。このことを日本人はもっとも誇りにすべきであると思うものであるが、なぜこのように大量の森が残されているであろうか。
(中略)
森の残存とともに、日本文化には人間と他の生物を本来同じものと考え、人間と他の生物の共生を図ろうという思想がその文化の根源に存在している。
 共生と並んで狩猟採集文化に強く内在し、稲作農業文化において多分に残存している原理が循環の原理である。それは、日や月をはじめ、一切の生きとし生けるものは永遠の循環を続けるという思想である。
梅原猛・伊東俊太郎・安田喜憲. 1996年. 『講座文明と環境 第11巻 環境危機と現代文明』. 朝倉書店. 167-179ページ

当時の科学的な知見を基に「森の思想」を展開しています。
梅原や安田の「森の思想」はこのプロジェクト「文明と環境」に裏打ちされたものだったわけです。

1980年代以降、里山と呼ばれるような二次的な自然環境に関する研究 = 人と自然の関わりの歴史 = 環境史の研究が進展しました。
1990年代のこのプロジェクトもそのひとつと言えます。
現在、研究はさらに進展し、過去の日本人と自然環境の関係すなわち日本の環境史がより高い精度で明らかになってきています。
若林が指摘する「日本の文化は一貫して自然共生型の文化であったと言えるか」という疑問に対する答えが様々な分野から示されています。

次は現在の環境史研究についてです。

環境史研究の現在

梅原や安田らによる1991年のプロジェクト「地球環境の変動と文明の盛衰ー新たな文明のパラダイムを求めてー」も環境史研究のひとつです。

全般に当時の科学的知見に基づく堅実な内容であり、日本人と自然環境の関係を解き明かそう点ではその後の研究と同じ路線の研究です。
二次的自然「里山」に関するものも含まれており、やや古い内容ですがおすすめできるものも多いです。
しかし、この中で語られる文明論や思想論には科学的とは言い難い内容のものもあります。

このような文明論に対し、「賢明な利用」が本当に行われてきたのか、すなわち「日本人は自然と共生してきた」かについて、批判的に検証したプロジェクトがあります。
2005年から2011年にかけて行われた総合地球環境学研究所のプロジェクト「日本列島における人間 - 自然相互関係の歴史的・文化的検討」です。

総合地球環境学研究所 研究プロジェクト:日本列島における人間-自然相互関係の歴史的・文化的検討
http://www.chikyu.ac.jp/rihn_13/rihn/project/D-02.html
シリーズ日本列島の三万五千年―人と自然の環境史

1991年のプロジェクトと同様に、地球研のこのプロジェクトも成果がシリーズとして書籍化されています。

第1巻 環境史とは何か: 文一総合出版の書籍案内
https://bun-ichi.seesaa.net/article/182437069.html
第2巻 野と原の環境史: 文一総合出版の書籍案内
https://bun-ichi.seesaa.net/article/200200659.html
第3巻 里と林の環境史: 文一総合出版の書籍案内
https://bun-ichi.seesaa.net/article/200203109.html
第4巻 島と海と森の環境史: 文一総合出版の書籍案内
https://bun-ichi.seesaa.net/article/200204988.html
第5巻 山と森の環境史: 文一総合出版の書籍案内
https://bun-ichi.seesaa.net/article/200208473.html
第6巻 環境史をとらえる技法: 文一総合出版の書籍案内
https://bun-ichi.seesaa.net/article/200211621.html

序章 日本列島おける「賢明な利用」と重層するガバナンス 湯本貴和
一 支え合う生物多様性と文化
 本シリーズでは日本列島をおもな対象としているが、その根本にあるのは世界のどこにでも共通する問題意識であり、その中で日本列島の位置づけを明示することで、そこから抽出した原理の普遍性と特殊性を考えたいという狙いが、この第1部には込められている。その結果、日本列島の恵まれた自然環境という側面が強調され、これまで日本独自であると主張されることの多かった「自然と共生する思想」については、自然の恩恵を受けて持続してきた社会ではむしろ当たり前ではなかったかというまとめになっている。このことは後述するように、生物多様性締約国会議で提案された「国際里山イニシアティブ」で、当初は日本の里山に典型的に見られるとした「自然との共生」や「生物資源の利用と保全の両立」が、結局は世界各地に類似のモデルがあることがわかったことと軌を一にしている。
湯本貴和・松田裕之・矢原徹一. 2011年. 『シリーズ 日本列島の三万五千年── と自然の環境史 第1巻 環境史とは何か』. 文一総合出版. 12ページ.
五 日本列島で「賢明な利用」は行われてきたか
 一方で、一九世紀のゲルマン世界のロマン主義にみられるように、西洋の足許にも近代主義への反動としての自然回帰があった。西洋の優位を誇示するオリエンタリズムの裏返しとして、近代西洋文明が自然を征服し、支配してきたことに対して批判的な欧米人が、アメリカ先住民や東洋、特に日本に、自らの内部としてもたなかった「自然と『共生』する」理想像を投影し、一部の日本の知識人がその投影に自己同一化を図ったと見ることはできないだろうか。そして、日本の中でも、「自然と『共生』する」姿を、北海道の先住民であるアイヌ民族に投影することが行われてきたのではないか。
 そのオリエンタリズムのひとつの現れが、里山問題であったのかもしれない。第三巻で述べられるように、日本の里山はさまざまな生態系サービスを限定つきではあるが持続的に引き出してきた。しかし、過去には過度な利用によって禿げ山が広がり、治山治水を含めた生態系サービスが低下したことも判明している。長い歴史の中では、決して「里山」とひとくくりに描写できるような、同じような生態系サービスの利用と景観が続いてきたわけではない。
2011年. 『シリーズ 日本列島の三万五千年──人と自然の環境史 第1巻 環境史とは何か』. 文一総合出版. 17-18ページ.

プロジェクトリーダーの湯本貴和は、里山のような形態は日本に限ったものではなく世界に類似のものがあること、必ずしも里山の資源が持続的に利用されていたわけではないこと、そして「共生」が理想像の投影であることを指摘しています。
「一部の日本の知識人」が誰を差しているのかは想像に難くないですね。

同書「第4章 人類五万年の環境利用史と自然共生社会への教訓」の中で矢原徹一も、梅原や安田の説について「ひとつの主張であって、日本人の自然観を必ずしも客観的に表現していない」と指摘しています。

このほかの個別の事例については是非このシリーズをお読みください。非常に興味深い内容です。
以下の書評、紹介も参考になります。

環境史とは何か - researchmap
https://researchmap.jp/joohfs0cm-46767/

環境史とは何か - 空飛ぶ教授のエコロジー日記  (Y日記)(研究業務用)
https://yahara.hatenadiary.org/entry/20110128/1296223433


このように、「人と自然のかかわり」に関する研究は日々進展しています。
現在も新しい成果が世に出されています。

朝倉書店|人と生態系のダイナミクス 1 農地・草地の歴史と未来
http://www.asakura.co.jp/G_12.php?isbn=ISBN978-4-254-18541-6
朝倉書店|人と生態系のダイナミクス 2 森林の歴史と未来
http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-18542-3/
(現在刊行中)


安田らが行った花粉や年縞の分析による「過去の復元」は、現在も行われている手法であり、これについては一定の成果があったと言えるでしょう。
しかし、そこから発展したこれらの「過去の『思想』の復元」や文明論は科学的とは言えず、政策立案のための資料として用いるに適しているとは言えません。

総合地球環境学研究所は、梅原が所長を務めた国際日本文化研究センターや梅棹が所長を務めた国立民族学博物館と同じく、大学共同利用機関法人人間文化研究機構の構成機関です。
(※地球研によるこの研究は同じ機構の過去の研究に対する反論と見ることもできそうです。)

【2020年1月1日追記】
上記のように書きましたが、実際にはプロジェクトとして「文明と環境」ないしは梅原・安田の「森の思想」を検討の対象とした事実ないそうです。
訂正してお詫びします。

TOP | 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構
http://www.nihu.jp/ja


さて、それでは安田は現在どのように考えているのでしょうか。


安田の誤り、安田の不遇

安田は現在、里山について以下のように主張しています。

第四章 里山の比較文明論
なぜ日本人は里山をつくりだせたのか
 日本人は世界にさきがけて森の農業を確立した。里山の資源を利用する水田稲作農業がそれである。なぜ日本人は世界の中でも得意な里山の資源を利用する水田稲作農業を誕生させたのであろうか。
安田喜憲. 2018年. 『文明の精神 「森の民」と「家畜の民」』 古今書院. 124ページ.
日本が世界に誇るべき里山
 日本が世界に誇るべき稲作漁撈社会における伝統のひとつに里山がある。この森の生態系を核にした地域システムを確立した日本人の知恵を、未来社会の構築にも生かし、再生力ある自然=人間循環型の文明(安田一九八五)を創造しなければならない。
 日本のの風土に適した自然=人間循環型社会を構築するヒントが、里山の利用の中にあるのではないか。
 そのためにはまず過去における里山と日本人の関わりを現代正しく位置づけ、未来の自然=人間循環型社会の構築のために、役立てる必要がある。過去において日本人は、岡山県(安田、一九八五)や濃尾平野(速水、一九九二)で家畜の頭数を減らすことに成功した。私(安田、二〇〇九)は、ひょっとしたら日本人なら里山を核にした地域システムの再構築ができるかもしれないという、淡い期待をよせいている。
安田喜憲. 2018年. 『文明の精神 「森の民」と「家畜の民」』 古今書院. 137ページ.

里山のような形態は日本に限ったものではないこと、持続的な利用ばかりではなかったことは、先の通りです。

森の農耕社会の誕生
 家畜を欠如し、里山の資源を利用してきた日本の森の文化のすばらしさを私は一九八〇(昭和五五)年に初めて指摘し、「里山の文化」と言う用語も初めてそのとき仕様した(安田、一九八○)。独立の章をたてて里山に触れているにもかかわらず、一般の人々にはその里山の重要性を指摘する私の説は、まったく共鳴しなかったようだ。それから四〇年近くがたって、やっと多くの人々が里山の重要性に注目するようになった。その背景には、藻谷浩介氏(藻谷、二〇一三)のような里山資本主義の重要性について触れる説などが大きく影響しているのであろう。
安田喜憲. 2018年. 『文明の精神 「森の民」と「家畜の民」』 古今書院. 166ページ.

文明の精神 - 古今書院 Since1922 地理学とともに歩む
http://www.kokon.co.jp/book/b373331.html


里山が認知されてるようになった経緯は諸説ありますが、1980年代後半から90年代にかけての『となりのトトロ』や今森光彦作品のブーム、里山保全活動の普及、同じく80年代後半から現在に至るまでの里山研究の成果とその政策化などがあると思われます。

自国開催の生物多様性条約第10回締約国会議(2010年)では日本発の伝統的生物多様性保全手法として「SATOYAMAイニシアティブ」が提唱されました。

藻谷の『里山資本主義』(角川書店、2013年)はベストセラーになりましたが、これは上記のような「里山ブーム」を受けて書かれたものです。
「里山」という単語が認知されていることが前提の新語「里山資本主義」です。


先見の明のない地方のリーダーは未来を封殺する
 このことを私は四○年以上言い続けてきたが(安田、二〇〇九)、いまだに広く理解されないのは誠に残念である。しかし、共同研究者の経済産業省岸本吉生氏・環境省中井徳太郎氏や、NPO場所文化フォーラムの吉澤保幸氏(吉澤、二〇一二)、地球村研究室の石田秀輝氏(石田、二〇〇九)等の努力によって、里山を守り、森里海の生命の水の循環系を守ることの大切さが、しだいにわかりはじめてきた。
安田喜憲. 2018年. 『文明の精神 「森の民」と「家畜の民」』 古今書院. 171ページ.

これも不正確です。
環境省から一名挙げるとするれば、中央環境審議会会長武内和彦らと共に里山政策を推進し、2010年の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)を成功に導いた渡辺綱男元自然環境局局長でしょう。
21世紀環境立国戦略以降の政策について武内と渡辺はこのような本を出しています。

日本の自然環境政策 - 東京大学出版会
http://www.utp.or.jp/book/b306632.html


しかし、気になる箇所もあります。
安田は1980年には「里山」について言及していた、重要性を指摘していたと言ってます。
これはどういうことでしょう。

少し遡って「里山」という語について整理します。

一般に「里山」という言葉は本頁でも登場した植物学者四手井綱英が1960〜70年代に用いだしたとされています。
実際はそれ以前から様々な場所で使用されていた単語ですが、四手井が用いたことで認知されたと言われています。

1980年代になると二次的自然の価値が認識され始めます。
大阪自然環境保全協会の里山一斉調査が1983年から始まります。
二次的自然の価値について言及した画期的な名著、守山弘の『自然を守るとはどういうことか』が出版されたのは1988年です。
この年は宮崎駿監督作品『となりのトトロ』の公開年でもあります。作中に里山という言葉は登場しませんが、1993年の石井実『里山の自然を守る』では「トトロに代表される里山の自然」という表現が見られます。
1995年には今森光彦の連載が写真集『里山物語』として出版されます。今森の棚田の写真は多くの人を魅了しました。
「里山」という単語を市民権を得だしたのはこの頃でしょうか。
市民による里山保全活動が活発になり、2002年の自然再生推進法制定につながります。

1995年に生物多様性条約に基づくわが国初の生物多様性国家戦略が策定され、「里山等の二次林」「里山の二次的自然環境」という表現が盛り込まれます。
2001年、武内和彦をはじめとする東京大学チームは『里山の環境学』を刊行し、一連の二次的自然、農業景観を「里地里山」と定義付けします。
これが2002年の「新・生物多様性国家戦略(第二次)」に「里地里山」として取り込まれます。
その後、2007年の「21世紀環境立国戦略」と「第三次生物多様性国家戦略」を経て、里山は日本が世界に誇る「SATOYAMAイニシアティブ」として環境省自然環境局の看板事業になります。

ざっくりとですが、これが一般的に説明される「里山」の歴史です。
(これらの内容については次の記事で詳細に扱います。)

安田は1980年には「里山」を取り上げいていたと主張しています。
1980年の安田の著作を見てみましょう。

Ⅴ 森林破壊期の文化 ― 古墳時代・歴史時代 ―
二 里山の文化
里山の風景
 水田稲作農業の導入以降、沖積平野周辺の平地林は破壊されつくした。しかし、森林の再生を不可能にする家畜を欠き、気候が温暖・湿潤な日本では、農耕地とならなかった丘陵や山地に、再び森が回復してきた。ヨーロッパや中国では、農耕の開始は一方的な森林の消滅を意味したのと大きな相違であった。ただ回復した森の風景は、以前とは大きく異なっていた。森林が破壊された後には、アカマツ・スギなどの針葉樹林と、コナラ・クヌギ・クリなどの雑木林が成立した。特にアカマツは、こうした二次林を代表するものである。
(中略)
 人里周辺の山林は、人々の生活になくてはならないものであり、たえず人間の手が加えられていた。こうした農耕伝播以降、日本人の生活と密接なかかわりをもっていた山を里山と呼ぼう。里山は、日本の風景を代表するものであるといってよい。
安田喜憲. 1980年. 『環境考古学事始』. 日本放送出版協会. 242-243ページ.

アカマツが二次林を代表するかはさておき、二次的自然の価値について認知し「里山」を提唱しています。
四手井が用いていたとはいえ、まだ「里山」が一般的な用語としては定着していなかったとされる時期です。

里山文化の崩壊
 しかし、第二次大戦後、塩田が輸入塩と化学製塩にとってかわられ、化学肥料が普及し、石油とガスの使用が一般化するにともなって、里山の集約的利用はしだいに少なくなっていった。瀬戸内沿岸のアカマツ林の林床には、ヒサカキ・イヌツゲ・コシダ・ススキなどの低木や草本が繁茂しはじめた。また中国山地では、鉄鉱石の輸入にともなって砂鉄生産の廃止、耕転機などの普及にともなう役牛としての牛の需要の減少などによって、里山の利用度は低下した。それは瀬戸内沿岸のハゲ山化の進行とは異なった、別の意味での里山の荒廃であった。こうした里山の利用度の低下と林地の回復にともなって、イノシシなどの動物が生息地を拡大してきた。
安田喜憲. 1980年. 『環境考古学事始』. 日本放送出版協会. 253-254ページ.

これは生物多様性国家戦略が言う「第2の危機」です。
イノシシの生息範囲の拡大は現在大きな問題になっています。先日も「アーバンイノシシ」が話題になりました。
生物多様性に迫る3つの危機を定義した1995年の第一次生物多様性国家戦略から遡ること15年、1980年の著作中にこのような表現が見られます。これは驚きです。

里山の文化は、自然と人間が比較的調和的な関係の中において維持することができた日本独自の生活の知恵であった・そして、豊かな地方文化を維持し発展させたのも、この里山であった。石油ショック以降、われわれは、再びこの里山の重要性に気づき始めた。稲作伝播以降、約二〇〇〇年にわたって日本人の生活と密接なかかわりをもったこの里山の重要性を見直す時に至っている。そして、もう一度、人々の心の中に里山の風景を蘇らせなければならない。
安田喜憲. 1980年. 『環境考古学事始』. 日本放送出版協会. 254ページ.

安田のこの主張は現在の「SATOYAMAイニシアティブ」そのものです。
SATOYAMAイニシアティブは、21世紀環境立国戦略の中で提唱され、第三次生物多様性国家戦略に落とし込まれると、2010年の名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国で世界に発信されました。
そうです、先の資料が用いられ策定された「21世紀環境立国戦略」です。

一般に、「里山」の文脈で安田が語られることはほとんどありません。
登場するのは四手井や守山、政策化を担った東京大学チームの武内和彦や鷲谷いづみなどです。

安田が提唱していた「日本独自の智慧『里山』の復興」は、安田の文章を参考文献に政策化され、世界に発信されていてます。
2018年の安田の著作を読む限り、安田はそのことに気づいていないようです。
安田の主張は、当人の知らないところで、当人の言葉を借りて、すでに政策として実現しています。

安田の主張全体を見ると現在の知見とそぐわないものもあり、また、現在の里山政策そのものにも問題があります。
しかし、この点では不遇と言わざるを得ません。
安田は1980年には二次的自然「里山」の価値や、それを維持してきた営みに注目していました。
この先見性は里山研究と政策化の歴史に記されて然るべきです。


梅原が言いたかったこと

梅原についても誤解がないように説明しておきたいことがあります。

梅原は中曽根康弘元首相との関係が知られます。国際日本文化研究センターは中曽根の力添えがあって設立されました。
これについては「国家主義的」との批判もあります。
しかし、決して権力者におもねっていたわけではありません。

 日本文化への探求を深め、広げていった。「今までの日本研究は総合的な視野が欠けていた。『日本のことなんかやるのは反動だ』と左寄りの批判があった」。学生運動が盛り上がった時代の世相には距離を置きつつ、権力者に対する舌鋒(ぜっぽう)は鋭かった。国際日本文化研究センター(京都市西京区)創設にあたり、中曽根康弘首相(当時)に恩義を感じながらも「私と中曽根さんとは政治的信条を異にしている。憲法改正に私は反対。この日文研では政治が文化に奉仕している」と誇った。「美しい国」を掲げた安倍晋三首相に対しては「確かに日本は美しい。しかし美しい日本人とは? 東条英機ですか? 小泉純一郎? そうではない。菅原道真であり、世阿弥であり、千利休だ。彼らはみな権力に抹殺された」。2004年には「九条の会」設立呼びかけ人の一人にも名を連ねた。
梅原猛さん死去 イデオロギーを嫌い、学問を愛した人生 - 毎日新聞 2019年1月14日 07時14分(最終更新 1月14日 14時23分)
https://mainichi.jp/articles/20190114/k00/00m/040/029000c
 東日本大震災発生後は、政府の復興構想会議の特別顧問に就任。「私は仙台市の生まれで漁民の血を引いている。この老骨の命を国にささげる」。2011年4月の初会合で、東北復興への決意を示していた。
 東京電力福島第1原発事故を議題から外す方針を示した政府説明に、机を拳でたたいて抗議。「原発を議論しない会議は意味がない」と声を荒らげた。
 脱原発社会の実現を主張し、「技術が進歩すれば自然は奴隷のごとく利用できるという近代哲学が問われている」「和の文明、利他の文明に変わらなければならない」と訴えた。
<梅原猛さん死去>「震災は文明災」持論 東北への思い深く | 河北新報オンラインニュース 2019年01月15日火曜日 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201901/20190115_13052.html

東日本大震災復興構想会議の議事録についてはあえて引用しません。
リンクを記載しますので各人で確認していただけたらと思います。

東日本大震災復興構想会議 内閣官房
https://www.cas.go.jp/jp/fukkou/
東日本大震災復興構想会議(第1回)議事録
https://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/gijiroku/kousou01.pdf


権力と対峙しながらも対話は怠らず、この国のあり方を考え続けていた梅原の姿勢が見て取れます。

梅原猛の『共生と循環の哲学』にこんな一節があります。

愚人の知恵に学べ 地球環境保全と日本の役割
自然を父として母として
 もともと日本の神道は自然崇拝の宗教でした。おそらくアジアやヨーロッパの旧石器時代の宗教と同じように、自然を崇拝し精霊を崇拝する宗教だったのです。それは自然現象の崇拝であったり、木の崇拝であったり、あるいは動物の崇拝でした。このような自然崇拝の神道を、明治以後、国家の神道に変えてしまったために、神道の内容がすっかり変わってしまったことにわれわれはあまり気づいてはいません。本来、神道はけっして排外的な超国家主義の宗教ではなく、また日本独特の宗教でもないと思います。農業や牧畜を発明する以前の人類が、ながい間信仰してきた自然崇拝の一形態にすぎないと思うのです。
 そして仏教は、六世紀の半ばごろに日本に伝わってきて、聖徳太子や行基という高僧によって日本に定着しました。日本仏教は「山川草木悉皆成仏」という原理をもっています。この原理は、釈迦の仏教からみれば、いささか逸脱した考え方です。釈迦仏教は人間の救済を中心にした宗教ですが、日本の仏教は人間と自然を一体とし、人間ばかりか、自然の救済をも説く宗教です。日本の仏教には、さきほど述べた共生と循環の原理が色濃く働いているのです。日本の芸術にも、このような共生と循環の原理が働いています。たとえば俳句、能、作庭といった芸術には、共生と循環の原理が見事に表現されています。
 ですから日本は、自己の文化と伝統のなかに、地球環境保全という現在および将来の人類のもっとも緊急な課題に対して貢献できる原理をもっているのではないかと思われます。しかも日本は、高度経済成長時代の結果起こった環境破壊に対して、かなり有効な手を打ち、しかもそれによって生産性を低下させない技術を開発しているのです。
 このような伝統と実績を考えるとき、どうして日本は地球環境保全運動の先頭に立たないのか、経済的価値以外のものは追求しない国だという世界の悪評を一掃しようとしないのか、不思議に思えるのです。また、人類がおかれているもっとも困難な問題に対する解決の原理を、日本は自己の文明のなかにもっているにもかかわらず、その問題解決のためになぜ経済力を有効に活用しないのか、私のような愚人には理解しかねるのです。
愚人の悲観か賢人の楽観か
 この会議が、人類文明再生のための第一歩になることを心から願うとともに、日本が、自己のもつ文明の伝統的原理を働かせ、地球環境保全という課題に説教的な貢献をすることを強く希望します。
(一九九二年四月一六日・東京 地球環境資金賢人会議)
梅原猛. 1996年. 『共生と循環の哲学』. 小学館. 62ページ.

前半は梅原日本学と「森の思想」です。必ずしも妥当な内容ではないかもしれません。
ですが後半は考えさせられる内容です。

経済力と伝統を人類が抱える問題の解決のために活かせ

これは安田が1980年の著作中で言っていたことでもあります。
梅原日本学と「森の思想」は単なる礼賛ではなく、日本という国のあり方を批判的に問う思想でもあったのです。

先に紹介した『講座文明と環境 第11巻 環境危機と現代文明』の中でも同様のことを言っています。
先程は省略した前後の文を見てみましょう。

11. 破壊はいかにして起こり、今何をなすべきか 梅原猛
第二次環境破壊
 このような環境破壊の現状について、多くの自然科学者たちが各々専門の領域において正確なデータに基づいて警告していることであるので、ここで哲学者の私が改めて語る必要はあるまい。
いかにして環境破壊をくいとめることができるか
 この問題の解決のためには、哲学と科学の総合、少なくとも哲学と自然科学者の緊密な協力が必要である。
環境破壊の問題についての日本の貢献
 日本の国土の67%にはまだ森が残されている。しかもその森のうちの40%は天然林であるといわれる。国土の3分の2が森であり、しかも天然林が国土の3割を占めるというような先進国は他に存在しない。このことを日本人はもっとも誇りにすべきであると思うものであるが、なぜこのように大量の森が残されているであろうか。
(中略)
森の残存とともに、日本文化には人間と他の生物を本来同じものと考え、人間と他の生物の共生を図ろうという思想がその文化の根源に存在している。
 共生と並んで狩猟採集文化に強く内在し、稲作農業文化において多分に残存している原理が循環の原理である。それは、日や月をはじめ、一切の生きとし生けるものは永遠の循環を続けるという思想である。
(中略)
 しかしながら日本は明治以来、西洋から科学技術文明をとり入れ、それによって国を富ませ、国を強くすることを国家の至上の課題として発展してきた。それは見事に成功し、に保安は今現在見る如き、科学技術文明の栄える豊かな国になった。それはもちろん祝福スべきことであるが、今やこの科学技術文明そのものが大きなジレンマに直面しているのである。そしてそのジレンマを解決すべき原理として、稲作農業文化、あるいはさらにもっとも初源的な人類の文化である狩猟採集文化に内在している共生と循環の原理が有効であるとすれば、その伝統文化の原理にもとづいて新しい文明を築く可能性が日本に残されていないであろうか。
 環境問題において、日本はまだ西欧の国に立ち後れている。それは自国の文化の伝統に照らしても恥ずべきことである。急いでこの問題に正面から立ち向かう組織を創造し、この問題において日本はリーダーシップをとるべきであると思う。
梅原猛・伊東俊太郎・安田喜憲. 1996年. 『講座文明と環境 第11巻 環境危機と現代文明』. 朝倉書店. 167-179ページ

環境問題において、日本はまだ西欧の国に立ち後れている。それは自国の文化の伝統に照らしても恥ずべきことである。急いでこの問題に正面から立ち向かう組織を創造し、この問題において日本はリーダーシップをとるべきであると思う。

こう述べています。
そして実際にこの組織は実現しました。
その組織は日本文化研究における日文研のような立場で日本の環境政策研究を行っており、設立には梅原や安田が関わっています。
次はその組織について見ていきます。


地球環境戦略研究機関(IGES)とSATOYAMAイニシアティブ

1992年の環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)と生物多様性条約、気候変動枠組条約は、折からの環境問題への意識の高まりもあり、日本にも大きな影響を与えます。
日本は1993年に両条約に批准し、同年11月には環境基本法が成立します。
1994年には環境基本法に基づく第一次の環境基本計画が、1995年には第一次の生物多様性国家戦略が策定されます。

(おそらくこの時点でプロジェクト「文明と環境」の影響を環境基本計画と生物多様性国家戦略は受けています。もっと言うとこういった主張の萌芽は自然環境保全法に基づき1973年に策定された自然環境保全基本方針にも見られます。さらなる検証が必要です。)

これと前後して、地球環境問題に対し戦略的に研究する日本独自の機関の設立が計画されます。
1992年に「地球環境賢人会議」が多くの指導者や梅原ら学者の参加のもとで開催され、1994年の 「地球環境東京会議」では「東京宣言1994」が採択され、持続可能な開発を目指すための国際的学術研究、教育、訓練を実施する機関を日本に設置することが提言されます。
これを受けて総理大臣の諮問機関として「21世紀地球環境懇話会」設置され、機関の設置が具体的に検討されます。
環境庁は「総合的な環境研究・教育の推進体制に関する懇談会」を設置しさらに具体的な方針を定めます。
21世紀懇と体制懇、その後の設置場所選定委員会と設立準備機構の主要なメンバーは重複しています。

21世紀懇:梅原猛、近藤次郎(環境庁中央環境審議会会長)
体制懇:梅原猛・近藤次郎・森嶌昭夫(のちの中環審会長)・鈴木基之(のちの中環審会長)・安田喜憲

そして1998年に「地球環境戦略研究機関(IGES)」が設立されます。
初代の理事長は公害問題に精通する環境法学者森嶌昭夫が務めました。これは梅原の推薦によるものです。

IGES(アイジェス)の設立憲章を見てみましょう。

地球環境戦略研究機関設立憲章 1997年12月7日
 日本の京都市で開催された地球環境戦略研究機関設立会議への各機関からの参加者は、地球環境の恵みによって支えられている人類社会の根源的な課題は、地球環境の危機をもたらしている現在の物質文明の価値観や価値体系を根本的に問い直し、新たな人類の営みのあり方や新たな文明のパラダイムを創造し、これに即して経済社会の仕組みを再構築し、地球環境時代を切り拓くことであることを強く認識し、
(中略)
 地球環境戦略研究の国際的なネットワークの構築が新たな国際的な政策形成に不可欠であることに鑑み、地球環境戦略研究機関の設立に関する日本の提案と、設立準備についての日本のイニシャティブを歓迎し、
 次の規定に従って運営される地球環境戦略研究機関が、日本の民法に基づき、神奈川県湘南国際村に設置されることに合意し、その運営にできる限り協力していくことで意見の一致を見た。
(目的)
第 4 条 本機関は、新たな地球文明のパラダイムの構築を目指して、持続可能な開発のための革新的な政策手法の開発及び環境対策の戦略づくりのための政策的・実践的研究(以下、「戦略研究」という。)を行い、その成果を様々な主体の政策決定に具現化し、地球規模、特にアジア・太平洋地域の持続可能な開発の実現を図ることを目的とする。
IGES20周年記念「IGES20年の歩み」 | IGES
https://iges.or.jp/en/pub/iges-20th-anniversary-j/ja
https://iges.or.jp/jp/publication_documents/pub/books/jp/6531/20th+anniversary.pdf

見ての通り、日文研のプロジェクト「地球環境の変動と文明の盛衰ー新たな文明のパラダイムを求めてー」の影響を非常に強く受けています。
地球環境戦略研究機関(IGES)はいわば、理系版の国際日本文化研究センターであり、両者を梅原猛が繋いでいたわけです。

歴代のIGES理事長は環境省(環境庁)の中央環境審議会会長や、東京大学サスティナビリティ学連携研究機構(IR3S)、国連大学副学長ポストを兼ねていることが多く、それぞれの組織は相互に連携しながら環境政策を立案、実行しています。

特に現在の中央環境審議会会長武内和彦は、この4つのポストを全てに就いています。
武内はランドスケープ・エコロジーやサスティナビリティ学を専門とする環境学者で、前述の『日本の環境政策』の著者です。
1990年代の後半から環境庁や建設省(国土交通省)の委員を務め、21世紀環境立国戦略の策定や生物多様性基本法の制定、生物多様性条約第10回締約国会議などで保全生態学者鷲谷いづみらとともに中心的な役割を果たしてきました。
2001年の鷲谷や恒川篤史との共著『里山の環境学』(東京大学出版会)は現在の里地里山政策のベースになっています。

日文研とIGES

図:和辻哲郎「風土」、梅棹忠夫「文明の生態史観」、梅原猛・安田嘉憲「森の思想」が里山政策に反映されるまで

梅原が訴えた日本の伝統的自然観「森の思想」に基づく国際貢献は、国際日本文化研究センターの影響を強く受けた地球環境戦略研究機関と環境省(中央環境審議会)により「SATOYAMAイニシアティブ」という形として結実したと言えます。
しかし、それは現在皮肉にも、梅原が批判した「美しい国」のための政策「伝統的な自然観を現代に活かした美しい国づくり」として実行されています。

はじめに
 日本は、農業大国ではありませんが、農業文化国です。工業先進国でありながら、各地に「里地里山」という伝統的な農業のシステムが多く残されています。それは、誇るべき農文化といってもよいでしょう。いまある日本人の人生観や文化の一部は、このような農業をつうじて、先人たちがつくり出してきたものでもあるのです。農業は、ただ食料を生産するだけの行為ではありません。
武内和彦. 2013年. 『世界農業遺産 ― 注目される日本の里地里山』. 祥伝社新書. 3ページ.
はじめに
 この複合生態系を、この本では平仮名の「さとやま」であらわします。さとやまのシステムは、人々の伝統的な土地利用によってつくられています。この場合の土地利用、あるいっは人間の活動というのは、植物を栽培したり家畜を飼ったりという営み、いわゆる「農業」だけではなく、野生の植物や動物を採集・狩猟するような行為まで広く含むのが特徴です。そうした営みは、自然を根こそぎ破壊することなく、末永くその恵みを受けられるような工夫と節度をもっておこなわれてきました。
鷲谷いづみ. 2011年. 『さとやま』. 岩波ジュニア親書. ivページ.

本文中では慎重な表現を用いていますが、里山政策に深く関わる科学者である武内や鷲谷は自著の序文でこのように語っています。

武内は中央環境審議会の現在の会長であり、21世紀環境立国戦略特別部会の委員でした。
鷲谷は21世紀環境立国戦略の前の諮問会議、21世紀「環」の国づくり会議の委員で、そのときの議事録中には「山川草木悉皆成仏」の語が見られます。森嶌も同会議の委員でした。
「21世紀COEプログラム J04生物多様性・生態系再生研究拠点(東京大学)」に鷲谷は拠点リーダーとして、武内はグループリーダーとして参加し、その成果は『里山の環境学』(2001年、東京大学出版会)として出版されています。
また、安田と鷲谷は福井里海里山研究所(進士五十八所長)でともに研究アドバイザーを務めており、安田の責任編集『生物多様性の日本 : 森林環境 2009』に鷲谷が参加しています。

第2回 21世紀『環の国』づくり会議 議事要旨
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/wanokuni/dai2/2gijiyousi.html

東京大学[21世紀COE]生物多様性・生態系再生研究拠点
https://www.u-tokyo.ac.jp/coe/21coe/list12_j.html


「SATOYAMAイニシアティブ」の内容と功罪についてはあとに続く記事で扱います。今回は環境省による説明を引用するにとどめておきます。
これは21世紀環境立国戦略中の「① 自然との共生を図る智慧と伝統を現代に活かした美しい国づくり」に対応した政策です。

(2) 「環境立国・日本」に向けた施策の展開方向
① 自然との共生を図る智慧と伝統を現代に活かした美しい国づくり
古来より私たち日本人は、生きとし生けるものが一体となった自然観を有しており、自然を尊重し、共生することを常としてきた。我が国には、例えば里地里山に代表されるように、自然を単に利用するだけではなく、協働して守り育てていく智慧と伝統がある。
こうした伝統的な自然観は現代においては薄れつつあるが、自然に対する謙虚な気持ちを持って、協働して自然を守り育てていくという智慧と伝統は、持続可能な社会を目指す上で、我が国のみならずアジアを始めとする世界に発信できる積極的な意義を持つ。我が国の環境・エネルギー技術などの強みに加えて、自然との共生を図る智慧と伝統を現代に再び活かすことにより、自然の恵み豊かな美しい国づくりを目指す。
21世紀環境立国戦略 平成19年6月1日
https://www.env.go.jp/guide/info/21c_ens/21c_strategy_070601.pdf
https://www.env.go.jp/guide/info/21c_ens/index.html


SATOYAMAイニシアティブとは
 わが国の里地里山のように農林水産業などの人間の営みにより長い年月にわたって維持されてきた二次的自然地域は世界中に見られますが、現在はその多くの地域で持続可能な利用形態が失われ、地域の生物多様性に悪影響が生じています。世界で急速に進む生物多様性の損失を止めるためには、保護地域などによって原生的な自然を保護するだけでなく、このような世界各地の二次的自然地域において、自然資源の持続可能な利用を実現することが必要です。
 わが国で確立した手法に加えて、世界各地に存在する持続可能な自然資源の利用形態や社会システムを収集・分析し、地域の環境が持つポテンシャルに応じた自然資源の持続可能な管理・利用のための共通理念を構築し、世界各地の自然共生社会の実現に活かしていく取組を「SATOYAMAイニシアティブ」として、さまざまな国際的な場において推進していきます。
 国際機関や各国とも連携しながら、COP10(生物多様性条約第10回締約国会議)を契機として「SATOYAMAイニシアティブ」を効果的に推進するための国際的な枠組みを設立し、その枠組みへの参加を広く呼びかけていきます。
環境省 自然環境局 里地里山の保全・活用
http://www.env.go.jp/nature/satoyama/initiative.html

International Partnership for the Satoyama Initiative
https://satoyama-initiative.org/

SATOYAMAイニシアティブ推進ネットワーク
http://www.pref.ishikawa.jp/satoyama/j-net/index.html

コンテンツ - MISIA × 生物多様性 -
http://satoyamabasket.net/contents/cmenu-04.html

SATOYAMAイニシアティブを通じた持続可能な地域づくり 武内和彦
公益財団法人 地球環境戦略研究機関(IGES)理事長
東京大学サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)機構長・特任教授
国連大学サステイナビリティ高等研究所(UNU-IAS)上級客員教授
https://isap.iges.or.jp/2018/pdf/tt9/TT-9_1_Takeuchi.pdf

(2019年12月31日追記:IGESは地球サミット以降の地球環境問題に対応するために設立された研究機関です。当初は主に気候変動についての研究が行われていました。のちに里山に関する政策研究を行うようになり、その中心人物が環境省中環境審議会会長、IGES理事長、東京大学旧IR3S、国連大学副学長等々を務めた武内和彦氏です。)


環境基本計画と生物多様性国家戦略の記述は見直しが必要

「SATOYAMAイニシアティブ」は21世紀環境立国戦略を介して政策化された梅原猛と安田喜憲の「森の思想」と言うことができます。
しかし、その「森の思想」の前提である「日本人の自然共生的な資源利用」は近年の里山研究によって否定されています。
里山研究に否定された説が、里山政策の根拠になっています。
そして、この日本人観は現在も広く信じられ、ノスタルジーの域を超えナショナリズムと呼ぶべき領域に達しています。さらに、この梅原日本学と「森の思想」の影響を受けた里山政策は、梅原が批判した「美しい国」実現のための政策の一翼として実行されています。

この自然観とそれに基づく政策は何重にもねじれています。

環境基本計画と生物多様性国家戦略における日本人の自然観に関する現在の記述は修正が必要だと考えています。
過剰に礼賛すべきではありません。また必定以上に貶める必要もありません。
実像を正視し、現在の知見に沿った妥当なものにするだけでよいのです。

環境省は、2021年の9月の次期生物多様性国家戦略が閣議決定を予定しています。
2020年に北京で開かれる生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)で、愛知目標の最終評価と、向こう10年の新たな国際目標が示されます。これに基づいて国家戦略の改訂が行われます。

生物多様性国家戦略は中央環境審議会の部会で諮られ、自然保護団体や経済界の意見も取り入れながら決定されます。
その過程にはパブリックコメントもあり、一市民にも意見表明の機会が与えられています。
この機会を活かさない手はありません。本稿の内容以外でももちろんかまいません。
ぜひ参加しましょう。


まとめと課題

今回は、21世紀環境立国戦略策定の時の資料から「自然と共生してきた日本人」という考え方「里山ナショナリズム」がどこから現れたのかについて検証しました。
この資料に引用された面々の多くは国際日本文化研究センターの同一のプロジェクトに参加しており、そこでの研究成果を基に梅原猛や安田喜憲は「森の思想」を展開しました。その背景には和辻哲郎の「風土論」、梅棹忠夫の「文明の生態史観」がありました。
これが、世間一般には里山ブームに乗る形で浸透し、梅原と親交のあった政治家や、梅原が設立に関わった研究機関「地球環境戦略研究機関(IGES)」や中央環境審議会(会長経験者の多くはIGES関係者)を通じて環境省の法定計画に取り入れられたのではないかと考察しました。
図示すると以下のようになります。

和辻哲郎「風土論」 → 寺田寅彦 → 福島要一

梅棹忠夫「文明の生態史観」

梅原猛・安田喜憲「森の思想」 = 国際日本文化研究センター → 中西進

地球環境戦略研究機関(IGES) & 環境省+中央環境審議会

21世紀環境立国戦略
  自然との共生を図る智慧と伝統を現代に活かした美しい国づくり

生物多様性国家戦略 ・ SATOYAMAイニシアティブ

日文研とIGES

梅原や安田らの説には個人の思想・哲学の範囲を出ない根拠の薄いものもあります。
最近の研究では必ずしも「日本人は自然と共生してきた」とは言い難いこともわかってきています。
梅原や安田らの説を踏襲した環境基本計画や生物多様性国家戦略等の法定計画内の礼賛的な記述は実態に基づいた適切な内容へ修正する必要があります。

梅原は晩年に「人類哲学」を提唱しています。
西洋の近代合理主義批判から縄文文化への考察、「草木国土悉皆成仏」、「森の思想」を経て至った「日本文化の中に存在する人類文化を持続的に発展せしめる原理」についての哲学です。
続編が書かれることはありませんでしたが、これはいわば、東日本大震災を「文明災」と断じた梅原による日本文明への「遺言」です。
「環境政策で日本がリーダーシップをとるべき」という主張は謹聴に値します。

過去の日本人の環境利用の歴史や現在の決して望ましくない国内の状況を直視し、国内の環境政策を充実させ、国際貢献をはかること。これを目指すべきでしょう。

季刊「都市化」2019 vol.1 「梅原猛の人類哲学」 公益財団法人 都市化研究公室理事長 光多長温 2019 年 4 月 公益財団法人 都市化研究公室
http://www.riu.or.jp/
http://www.riu.or.jp/document/toshika201901.pdf

「森の思想」に影響を与えた可能性がある人物、新京都学派と呼ばれる桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、上山春平、埴原和郎、鶴見俊輔などや、その周辺で研究を行っていた中尾佐助、四手井綱英、河合雅雄などの影響については検討が不足しています。
造園学系の識者、白幡洋三郎(日文研)や進士五十八、涌井史郎(雅之)も「森の思想」と親和性の高い主張を展開し、中央環境審議会等の委員として政策に関わっており検証の必要があります。
21世紀環境立国戦略以前の環境基本計画や生物多様性国家戦略、さらに以前の自然環境保全基本方針などについては資料が少なく、このような思想がいつから国の法定計画に影響を与えるようになったのかについては未解明です。
これらは今後の課題とします。

ここまで読んでくださりありがとうございました。


年表

1931年 和辻哲郎 『風土』
1935年 寺田寅彦 『日本人の自然観』
1967年 梅棹忠夫 「文明の生態史観」 公害対策基本法
1971年 環境庁設置
1972年 国際連合人間環境会議(ストックホルム)
1975年 福島要一 『自然の保護』
1980年 安田喜憲 『環境考古学事始』
1987年 国際日本文化研究センター設立
1988年 守山弘 『自然を守るということはどういうことか』
               宮崎駿 『となりのトトロ』
1990年 日文研「地球環境の変動と文明の盛衰ー新たな文明のパラダイムを
                求めてー」(〜1994年)
1991年 安田喜憲 『大地母神の時代』
               梅原猛 『「森の思想」が人類を救う 二十一世紀における日本文明の
                役割』
1992年 第123回国会 外交・総合安全保障に関する調査会 第2号(梅原)
               地球環境賢人会議 「東京宣言」 (梅原)
               安田喜憲 『日本文化の風土』
               環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット、リオデジャネイロ)
1993年 環境基本法 中央環境審議会会長に近藤次郎
                梅原猛・伊東俊太郎・安田喜憲他 『森の文明・循環の思想 人類を救う
                道を探る』
1994年 地球環境東京会議 「東京宣言1994」
                環境基本計画(第一次)
1995年 21世紀地球環境懇話会提言 「新しい文明の創造に向けて」 (梅原
               ・近藤)
               梅原猛 『森の思想が人類を救う』
               生物多様性国家戦略(第一次)
1996年 総合的な環境研究・教育の推進体制に関する懇談会(梅原・近藤・
                森嶌・ 鈴木・安田)
               地球環境戦略研究 東京国際ワークショップ
               梅原猛 『共生と循環の哲学』
               安田喜憲 『森のこころと文明』
               地球環境戦略研究機関設置場所選定委員会 (近藤・梅原・森嶌)
1997年 地球環境戦略研究機関設立準備機構設立 (森嶌・梅原・近藤・安田)
                アジア・太平洋地域における平和と共生特別会議報告
                気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3) 「京都議定書」
1998年 地球環境戦略研究機関(IGES)設立
2001年 環境省設置 中央環境審議会会長に森嶌昭夫
2002年 21世紀「環」の国づくり会議(森嶌・鷲谷)
               新・生物多様性国家戦略
2005年 中央環境審議会会長に鈴木基之
               地球研「日本列島における人間-自然相互関係の歴史的・文化的検討」                 (〜2011年)
2006年 中西進 『国家を築いたしなやかな日本知 Japan Wisdom』
2007年 中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会(森嶌・鷲谷)
                21世紀環境立国戦略(SATOYAMAイニシアティブ)
                第三次生物多様性国家戦略
2008年 生物多様性基本法
2010年 生物多様性国家戦略2010
                生物多様性条約第10回締約国会議(COP10、名古屋市) 「愛知目標」
                「SATOYAMAイニシアティブ」
2012年 生物多様性国家戦略2012-2020
2013年 中央環境審議会会長に武内和彦
2015年 中央環境審議会会長に浅野直人
2017年 中央環境審議会会長に武内和彦再任
2018年 安田喜憲 『文明の精神 「森の民」と「家畜の民」』
2020年 生物多様性条約第15回締約国会議(COP15、中国)(予定)
2021年 生物多様性国家戦略(第6次)(予定)

中央環境審議会21世紀環境立国戦略特別部会
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/yoshi32.html

中央環境審議会 21世紀環境立国戦略特別部会 委員名簿
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/meibo32.html
部会長  鈴木基之  国際連合大学特別学術顧問/中央環境審議会会長
委員   武内和彦  東京大学大学院農学生命科学研究科教授
     田中 勝  岡山大学大学院環境学研究科教授
     花井圭子  日本労働組合総連合会社会政策局長
臨時委員 石井一夫  読売新聞論説委員
     上路雅子  独立行政法人農業環境技術研究所理事
     植田和弘  京都大学大学院経済学研究科教授
     枝廣淳子  有限会社イーズ代表取締役
     大久保規子 大阪大学大学院法学研究科教授
     太田猛彦  東京農業大学地域環境科学部教授
     嘉田由紀子 滋賀県知事
     茅 陽一  財団法人地球環境産業技術研究機構副理事長・研究所長
     小池勲夫  東京大学海洋研究所教授
     小澤紀美子 東京学芸大学教育学部教授
     小宮山 宏 東京大学総長
     杉山雅洋  早稲田大学商学学術院教授
     須藤隆一  東北工業大学環境情報工学科客員教授
     関澤秀哲  新日本製鐵(株)副社長/(社)日本鉄鋼連盟環境・エネルギー政策委員長
     中村 勉  建築家/ものつくり大学教授
     萩原なつ子 立教大学社会学部社会学科助教授
     平野信行  三菱東京UFJ銀行常務取締役
     廣野良吉  成蹊大学名誉教授
     村上千里  「持続可能な開発のための教育の10年」推進会議事務局長
     森地 茂  政策研究大学院大学教授/(財)運輸政策研究機構 運輸政策研究所所長
     森本幸裕  京都大学大学院地球環境学堂教授
     養老孟司  東京大学名誉教授


余録

本文中に入れなかったもので気になる点をまとめておきます。
考察が不十分なものが多いですが一応置いておきます。

類似の資料と懇談会
COP10と東日本大震災のあと、生物多様性国家戦略の改定のための懇談会が設けられ、そこで配布された資料も21世紀環境立国戦略特別部会の資料とよく似ている。

画像5

資料3-3 日本人の自然観
https://www.biodic.go.jp/biodiversity/activity/policy/kyosei/23-1/files/3-3.pdf
人と自然との共生懇談会 | 生物多様性 -Biodiversity-
https://www.biodic.go.jp/biodiversity/activity/policy/kyosei/index.html

第1回の発言概要には「西洋的自然観を否定することで、東洋的自然観の優位性を示すのではなく、近代文明への反省という視点に立った、世界共通の課題として自然観の議論をすべき。」「現在の私たちは自然と共生しているのではなく、不自然(な状態)と共生している。最初から日本人の自然観が役に立つという前提に立って物事を考えるのではなく、安易な考えを疑ってかかることが重要。」という慎重な意見も見られた。
問題意識を持っている委員もいたと見られる。
里山のあり方やSATOYAMAイニシアティブについても慎重な意見と積極的な意見の両論が見られ、「里山」のような資源利用の形態が日本に固有のものではないことを指摘する意見もあった。

画像6

人と自然との共生懇談会 第1回議事概要(暫定版)
https://www.biodic.go.jp/biodiversity/activity/policy/kyosei/23-1/files/abstract-110711.pdf

懇談会の委員は以下の通り。

岩槻邦男  兵庫県立人と自然の博物館館長(植物生態学)
大久保尚武 経団連自然保護協議会会長(経済)
小野寺浩  鹿児島大学学長補佐(環境行政と地域政策)
栢原英郎  日本港湾協会名誉会長(土木工学)
桑子敏雄   東京工業大学大学院社会理工学研究科教授(哲学)
小長谷有紀  国立民族学博物館民族社会研究部教授(文化人類学)
武内和彦   東京大学大学院農学生命科学研究科教授 (中央環境審議会 自然環境・野生生物合同部会長)
山極壽一 京都大学大学院理学研究科教授(動物生態学)
https://www.biodic.go.jp/biodiversity/activity/policy/kyosei/23-1/files/0-3list.pdf


「共生」という語

アジア・太平洋地域における平和と共生特別委員会
21世紀環境立国戦略中の資料に引用されているが、本文中では扱わなかった。
「共生」ブームを総括したものだと思われるが、経緯や内容について不明な点が多く今回は割愛した。

2 「共生」とは何か?
 「共生」という言葉は、80年代に入ってからわが国で大流行を見るにいたって言葉の一つである。(1997年1月現在で国会図書館が所蔵する単行本の中で、タイトルに「共生」の語を含むものは、130冊を越えている。資料2参照)もちろん同じような意味を持った言葉は、今日わが国にとどまらずさまざまな国々に登場しているが、わが国ほどさまざまな領域で用いられ、広範に流布している国はない。ただ、わが国の場合には、広範に使用されているにしてはその意味が自覚的に検討されているとは言い難い。そこで、この言葉の意味を、わが国での使用例に照らして慎重に吟味した上で、この言葉が現在の世界史的転換期の状況の中でどのような積極的意義を有しているかを検討することが必要である。431ページ
3 地球時代の価値観と教育課題 ― 平和・人権・共生の文化を
(2)地球教育(グローバル・エデュケーション)とそのコア
④共生の思想を深めよう
 (a)地球時代と「共生」の思想
 地球時代は、「万物の共生」、「万人の共生」を求める時代でもある。
 このタームは、はじめは、生物学のタームとして使われ、人間発達論のなかでは、母子の有機的「共生」から心理的「共生」への筋道として語られ(H・ワロン)、やがて環境問題が鋭く自覚されるなかで、エコロジストによって好んで用いられたという経緯がある。他方で、米ソ対立のなかで平和的共存が説かれ、「南北の共生」が説かれるといった情況がある。「男女の共生」がいわれるとき、それが男女平等の主張に水を差す機能を果たす場合もある。古い共同体論と結びついた「共生」論は、個人の尊厳や個性の尊重と対立する場合もある。
 それだけに、私たちが、いま「共生」にこだわるのはなぜか、その思想内容を教育と人間の思想の中心となるものとするためには、何が必要なのか考える必要がある。
 それでは「共生」とは何か、われわれは、このことばがもっとも平明に意味するものとして、それは「ともに生きる」ことだ、英語ではいえばまず live together (あるいは coliving)として表現されるものだと考えたい。従ってまた、その含意は、第一に「万物の共生であり、エコロジカルな視点を含んでの「自然との共生」(ここには人間も自然の一つとして含まれる)である。ここではアニミズム的発想や仏教的思想も、その積極的な意味がとらえ直されよう。自然に対立する人間中心主義ではなく、自然主義=人間主義(マルクス)こそが求められねばならない。437ページ
アジア・太平洋地域における平和と共生
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/16youshi/16_69h.html
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/16pdf/1669.pdf

「循環型・低炭素・自然共生社会」「地域循環共生圏」など現在環境省の政策名となっている「循環」「共生」という語も梅原が端緒となっている可能性があるが検討不足のため割愛。


成功体験

しかも日本は、高度経済成長時代の結果起こった環境破壊に対して、かなり有効な手を打ち、しかもそれによって生産性を低下させない技術を開発しているのです。
(一九九二年四月一六日・東京 地球環境資金賢人会議)
梅原猛. 1996年. 『共生と循環の哲学』. 小学館. 62ページ.
(橋本行政改革担当兼沖縄及び北方対策担当大臣)
 環境庁が生まれて20年経った時点で、過去の公害は何だったのか、生産に結びつかない資金を公害対策に投入したがそれは有効だったのか、当時の環境庁の諸君が分析した成果が、住民サイドの批判を含めて一冊の本にまとめられている。これを、この会の参考資料として提出してほしい。生産性に結び付かない投資であったはずなのに、それは経済発展のマイナスにならず、新たな技術を生み出す土壌になったという結論がでている。翌年の「環境白書」では、今日御出席いただいている企業の方にもデータをご提供いただき、企業はどういう姿勢で問題に取り組んだか、実験室段階で成功したものを市場に提供する商品に変えていくのにどういうインセンティブが働いたのか、等がまとめられ、非常に面白い中身となっている。
 しかし、そのような成功例ばかりでなく、例えばある市において地域社会で循環型社会を形成しようとして失敗した記録、あるいは中水道をつくろうとして失敗をした記録、など、我々は随分たくさんの失敗を重ねている。杉花粉の問題や水道の老朽管から膨大な量の水が漏れていることも、その例かもしれない。こうした失敗のデータをできるだけ集めて提供することはできないのか。そうしたものがあると、非常に地に付いた議論がしやすくなると思う。
第1回 21世紀『環の国』づくり会議 議事要旨
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/wanokuni/dai1/1gijiyousi.html

過去の公害対策を成功体験として捉えている。
グレタ・トゥーンベリの訴えに対し、環境問題に対する過去の施策の成功例を持ち出し、「きっとうまくやっているはず。過去もそうだった。」と言うものがいる。
実際は生物多様性条約に基づく目標も気候変動枠組条約に基づく目標も進捗は芳しくない。
この成功体験が「自然と共生してきた日本人像」と結び付き、こうした根拠のない言説を招く一因になっているのではないか。
21世紀環境立国戦略特別部会資料にも「深刻な公害克服の経験とノウハウ」という項目がある。
http://www.env.go.jp/council/32tokubetsu21c/y320-05/ref01-4.pdf


21世紀「環」の国づくり会議と鷲谷いづみ

(鷲谷委員)
 「金の卵を産む鶏【健全な生態系】を蘇らせるために」と題したが、金の卵とは生態系が生み出す「自然の恵み」である。さまざまな財とかサービスを生態系が生み出すことによって、私たちの生活や生産が成り立っている。
 自然の恵みの持続性を維持することは難しいことで、失敗例が古代文明以来たくさんある。持続可能性をいかにして確保するか、いろいろな模索が今始まっている。生態系の健全性のバロメーターあるいは自然の恵みの源である「生物多様性」とか、長期的な持続性を視野に入れた管理の在り方である「生態系管理」などが、新しいキーワードである。
 生態系は非常に複雑で不確実性が大きいため、不確実性を前提とした社会的なシステム管理の手法である「順応的管理」が提案されている。北アメリカでは、こういう考え方に基づく生態系の管理や復元のプロジェクトが始まっている。生態系が健全性を取り戻すことによって大きな経済的なメリットが得られるという議論もある。
 日本では、かつて模範的な生態系管理が行われていた。「奥山」「里山・里」「町」の営みが区別されていて、特に「里山・里」では、資源を持続的に利用しながらも生物多様性の高い空間が維持されていた。また、ものをつくるときに植物資源を活用しており、再生が可能で、土に返すこともできた。植物資源の持続性を確保するため、いろいろな地域でその場所に合った「入会の掟」が存在していた。東北地方には「草木供養塔」がたくさんあるが、これは草や木の恵みに対する感謝の心である。
 山川草木悉皆成仏という言葉は、アジア的な伝統で仏教と関わりがあると思うが、自然とか生き物はともに生きるものという考え方であって、その利用もそういう心を持って行われていた。西欧では、自然とは「第一創造物」の人が利用するために神様がおつくりになったもの、自然は利用するものという感覚である。西欧の科学技術は、自然を征服の対象として見、非循環型な技術をつくり出してしまった。日本も西欧の科学技術に頼ったため、人と自然との関係性が大きく損われてしまった。
 生物を利用の対象する見方が引き起こしたもう一つの環境問題として、外来生物が日本列島全体にはびこっている。かつては普通に見られた動植物が絶滅危惧種になって、世界中のどこに行っても見られるような生物に置き換わっている。自然と人との関係が稀薄になり、若者は生き物と言ってもペットと園芸植物しか思い浮ばないという、憂うべき状況になっている。
 そこで提案だが、人と自然の関係を修復できる「自然再生型公共事業」が必要である。具体的には、生物多様性と健全な生態系を取り戻すための事業、持続可能な社会を念頭に置いた事業、失いかけている風土と文化を取り戻すための事業が必要である。循環という観点では、材料を流域内から調達するとか、再生可能な材料をたくさん利用することも必要である。実施にあたっては環境省がイニチアティブを取り、リーダーシップを発揮することが大切である。
 そのような事業として、国土交通省の河川局が最近始めた霞ケ浦の自然湖岸を復元する事業がある。霞ヶ浦はコンクリートの直立護岸で100 %囲まれてしまったが、自然の湖岸を取り戻すための試みが始まった。この事業を支えているのが、市民がリーダーシップを取り、行政・企業・学校も加わっている「霞ケ浦のアサザプロジェクト」である。この事業は、環境教育としても機能するよう考慮されている。
 「【環の国】自然再生事業」と言うべき事業が必要と思う。生態系は官庁が引いた線の中に収まるものではないため、流域や生態系といった単位で行われる総合的な自然再生公共事業であるべきである。多様な主体が参加できること、伝統的な技と知恵をよみがえらせる「風土の科学」と「生態系の科学」を重視すること、順応的な管理手法を取り入れることを提案したい。
第2回 21世紀『環の国』づくり会議 議事要旨
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/wanokuni/dai2/2gijiyousi.html

21世紀「環」の国づくり会議は、森首相(途中から小泉首相)の諮問による設置された環境政策の方針を定めるための会議。
自然環境政策としては、二次的自然を保全するための政策として官民協働型の自然再生事業が提唱され、自然再生推進法の成立につながった。
このとき委員として招かれいた生態学者鷲谷いづみの発言は興味深い。
「山川草木悉皆成仏」など梅原日本学、「森の思想」の影響が見て取れる。
委員には当時の中央環境審議会会長森嶌昭夫も。


『環境史とは何か』について
『シリーズ 日本列島の三万五千年』は、梅原猛や安田喜憲らの日本人観に対し批判的な検証を行っている。
『第1巻 環境史とはなにか』「第4章 人類五万年の環境利用史と自然共生社会への教訓」の冒頭で矢原徹一は、「21世紀環境立国戦略」について「持続可能な社会に向けての私たちの課題をわかりやすく整理している」と評している。
そこからジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・徹』と『文明崩壊』の考え方を用いて進化生物学的観点からヒトの移動や資源利用などの環境史について論じ、西欧的自然観と日本的自然観の問題を検討している。
その過程で「日本的自然観は環境破壊を防ぐうえで無力だったと言ってよい」と断じ、梅原猛や安田喜憲の主張を「ひとつの主張であって、日本人の自然観を必ずしも客観的に表現していない」と評している。
しかし、その「21世紀環境立国戦略」が、梅原や安田らの説の影響を受けている。

(※プロジェクトリーダーの湯本貴和も明言はしていないものの、『環境史とはなにか』の中でこういった思想に対して批判的な姿勢を示しており、プロジェクト全体として梅原・安田らの「森の思想」の打破をひとつの目的にしていたことが伺える。)

【2020年1月1日追記】
12月30日の公開時点で上記のように書いていましたが、総合地球環境学研究所のプロジェクト「日本列島における人間ー自然相互関係の歴史的・文化的検討」(2005~2011年)についてこのような意図はなかったと矢原徹一さんはおっしゃっています。また以下のように「打破」のような発想が持つ危うさについて述べておられます。是非ご一読ください。
認識を改めるとともにこのような内容はなかったことを訂正し、お詫びいたします。

 思想は価値的命題であり、思想の違いは「打破する」ことでは解決できず、合意形成(あるいは妥協)による解決しかない、というのが3人の共通認識だったと思います。これは、安田講堂事件や浅間山荘事件などを中学・高校時代にテレビで見て育ち、紛争後の大学に進学した私たちの世代に共有された、思想的対立回避のための教訓です。湯本プロジェクトの狙いは、過去の日本における自然利用には成功例も失敗例もあることを事実として示し、どのようなときに成功し、どのようなときに失敗したかを比較し、「合意形成に資する客観的な情報提供」を行うことにありました。
「里山ナショナリズムの源流を追う」へのコメント - 空飛ぶ教授のエコロジー日記  (Y日記)(研究業務用)
https://yahara.hatenadiary.org/entry/2020/01/01/164425


プロジェクト開始の2005年から成果物の出版しプロジェクト終了となった2011年までの期間は、2007年の21世紀環境立国戦略策定とSATOYAMAイニシアティブ提唱から、第三次生物多様性国家戦略、生物多様性国家戦略2010、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の期間と重なる。

プロジェクトと同時に進行していた、プロジェクトの方向性とは逆の政策について、どのように捉えていたのだろうか。
国立民族学博物館の池谷和信のように「文明と環境」と「日本列島における人間」の両方に参加している人物もいる。

ややナショナリズムのにおいも感じさせる、美化された国内仕様の里山像を超えて「里山里海サブグローバルアセスメント」で共同議長を務め、「国際里山イニシアティブ」でも中心的な役割を果たしている武内和彦は、「国際里山イニシアティブ」のアプローチを、①多様な生態系サービスの安定的な享受のための知恵の結集、②伝統的な知識と近代科学の融合、③新たなコモンズ(共同管理のしくみ)の構築、の三点にまとめているが、これは本巻のメッセージと完全に合致している。
湯本貴和. 2011年. 『シリーズ日本歴史の三万五千年 人と自然の環境史 第1巻 環境史とは何か』. 文一総合出版. 19ページ.

この書き方は「国際里山イニシアティブは良いが、国内仕様の里山像にはナショナリズムの要素があり、この本のメッセージとは合致しない」と言っているようにも読み取れるが、穿ちすぎだろうか。

(※いずれにしても、「SATOYAMAイニシアティブ」は21世紀環境立国に基づいており、それは湯本らが打破しようとした、梅原や安田らの説が下敷きになっている。)

【2020年1月1日追記】
この表現につきましてもお詫びして訂正いたします。
「湯本らが『環境史とは何か」の中で問題点を指摘していた梅原や安田らの説』
と書き換えさせていただきます。
打ち消し線を使って訂正したいのですが、noteは仕様上打ち消し線が使えないためこういう形にしています。

「SATOYAMAイニシアティブ」にはナショナリズムの要素以外にも問題点がある。
ひとつには玉虫色の用語だという点である。
国内向けには「日本が誇る伝統的な資源管理の知恵」として世界に発信されたことになっている「SATOYAMAイニシアティブ」であるが、実際には同様の資源管理、農業景観は世界中にあり、それを「社会生態学的生産ランドスケープ」と定義している。
日本独自のように装いながら、実は世界中に存在するのが「SATOYAMAイニシアティブ = 社会生態学的生産ランドスケープ」なのである。
国内向けに発信されている内容と実際の姿には乖離がある。
さらに、環境省の「SATOYAMAイニシアティブ推進事業」のように、重要里地里山選定などの国内向けの政策を「SATOYAMAイニシアティブ」と呼ぶこともある。
一体何を指しているのか一瞥では判断できないのが「SATOYAMAイニシアティブ」なのである。
この用語を目にしたときは、どの意味で用いられているか注意が必要である。


環境決定論、環境可能論
敗戦を経験し、ブラーシュの『人文地理学原理』に触れた和辻は戦後、「風土論」から脱している。
「風土論」を放棄した和辻に対し安田は、『人文地理学原理』が環境可能論的である点、梅原が見出した「自然生命的存在論」が欠けている点を指摘し、和辻の限界だったとしている。
単純に考えると環境可能論を批判する梅原・安田の「森の思想」は環境決定論ということになる。
一方で、矢原は環境決定論と評されることの多いダイアモンドの著作を基に梅原・安田の主張を批判している。
ダイアモンドの説は「環境決定論」的であることから地理学の分野の研究者から批判を受けている。
近年の著作の内容からも安田がダイアモンドのような「新しい環境決定論」に触れた様子は伺えない。
梅原・安田の「森の思想」は環境決定論なのだろうか。また、現代において「環境決定論」か「環境可能論」なのかを議論する意味はあるのだろうか。そもそもそれは二分可能な性質のものなのだろうか。


その他の参考資料

地球を救う人類哲学の黎明 ─梅原猛の「森の思想」と加瀬英明の「発信する会」─ 山内友三郎 大阪教育大学附属図書館
https://www.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=1328&direct_target=catdbl&direct_key=%2554%2544%2530%2530%2530%2533%2531%2530%2535%2530&lang=english#catdbl-TD00031050


参議院会議録情報 第123回国会 外交・総合安全保障に関する調査会 第2号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/123/1480/12302041480002c.html

地球環境賢人会議と東京宣言 1992.4 | 笹川平和財団 (梅原)
https://www.spf.org/publication/detail_25125.html

東京宣言1997 (仮訳) 地球環境パートナーシップ会議
https://www.env.go.jp/earth/cop3/kanren/gea/dec1997j.html

環境省_地球環境戦略研究機関設置場所選定委員会の結果について 平成9年1月31日
http://www.env.go.jp/press/242.html

環境省_(財)地球環境戦略研究機関設立準備機構の設立について 平成9年4月21日
http://www.env.go.jp/press/775.html
地球環境戦略研究機関設立準備機構役員等名簿
http://www.env.go.jp/press/files/jp/2078.html
地球環境戦略研究機関の設立について 平成9年4月 環境庁
http://www.env.go.jp/press/files/jp/449.html


地球環境戦略研究機関設立準備機構役員等名簿 (理事 安田喜憲、顧問 梅原猛)
http://www.env.go.jp/press/files/jp/2078.html

IGES年報 1998年度
https://iges.or.jp/jp/publication_documents/pub/annual/jp/270/iges-99-005.pdf

IGES20周年記念「IGES20年の歩み」 | IGES
https://iges.or.jp/en/pub/iges20%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%80%8Ciges20%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF%E3%80%8D
https://iges.or.jp/jp/publication_documents/pub/books/jp/6531/20th+anniversary.pdf

公益財団法人地球環境戦略研究機関評議員・理事・監事・顧問・参与リスト (梅原)
https://iges.or.jp/files/about/PDF/List_IGES_Board_201810_j.pdf

21世紀COEプログラム 平成15年度採択拠点事業結果報告書
https://www.jsps.go.jp/j-21coe/08_jigo/data/jigo_kekka/J04.pdf

1.2 保全生態学から見た里地自然 鷲谷いづみ
(3)モンスーン気候帯の火山列島が生む自然の豊かさ
 新石器時代以来、列島での人間の営みは生態系にさまざまな影響を与えてきた。しかしそれは、「生物多様性」や人間基盤としての「生態系の健全性」を根底から損なうようなものではなかった。その証拠が、暮らしの場に数十年前から確かに存在していた豊かな「ふるさとの自然」である。ふるさとの自然は、四季折々その姿を変えて人々の心を慰め、有形・無形の恵みをふんだんに与えてくれるものであった。そのなかには、木の実、きのこ、野草、茅など、旧石器時代以来人々が利用し続けてきた恵みも含まれている。
(中略)
(4)再生可能な資源採取のための持続可能なシステム
 里山に代表されるふるさとの自然、すなわち生活域の自然は、人々に有形無形の恵みを与えてくれる。適切に利用しさえすれば「自然の恵み」が尽きることなく、それに依存した人々の生産や暮らしが維持される。その意味で里山は、模範的な持続可能なシステムであったということもできる。
武内和彦・鷲谷いづみ・恒川篤史. 2001年. 『里山の環境学』. 東京大学出版会. 13-14ページ
1.1 二次的自然としての里地・里山 武内和彦
(2)里地と里山
 守山(1997)は、関東平野の平地農村では、二次林(ヤマ)、農地(ノラ)、集落(ムラ)と続く典型的な土地利用の配列が見られるという。ここでのヤマは、地形的な山ではなく、二次林の意味で使われている。したがってヤマは、里山とほぼ同じであると見なせる。問題は、里山、農地、集落を含めた全体をどう呼ぶかである。本書では、それを「里地」と称することにしたい。
武内和彦・鷲谷いづみ・恒川篤史. 2001年. 『里山の環境学』. 東京大学出版会. 3ページ


国際日本文化研究センターと生物多様性政策という点では、生物多様性条約COP10支援実行委員会アドバイザーを務めてた香坂玲が日文研に所属していたことがある。


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