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「ご自愛」の終焉と「根性」への回帰

2019年に「ご自愛するという戦い方」(https://note.com/getsumen/n/ndae83ec26be4)というnoteを書いて結構バズって、Twitterトレンドに入ったり芸能人にRTされたりして大きく広がった。それ以降いろんなところで「ご自愛」ってワードが言われるようになったと思う。


「ご自愛◯◯」にいろんなビジネスが乗っかり、さまざまなものが売られるようになった。コロナ禍もあいまって? 一大ご自愛ブームはこの数年間続いてきた。

私自身はそのムーブメントに乗っかりきれなくて、もうちょっと上手くやればいろんな仕事になったかもな〜と後悔したりもした。
実際「ご自愛◯◯」でいろんなビジネスを展開している人を見て、うらやましくも思ったりしていた。「私が言い出しっぺなんだけどな」などと思っても、べつに商標取ってるわけじゃないし私が商売下手だっただけである。


けど正直に言うと、noteを書いて一週間くらいで「ご自愛」に飽きてしまっていたのも本当だった。

だって「ご自愛」ばっかりしてても全然人生が発展しないんだもん。

世の中的にはコロナ禍とか情勢不安とか全然上がらない賃金とかに疲れ切ってしまった人たちをターゲットとして、「ご自愛◯◯」と銘打ったものを売るには好都合な時代だと思う。

実際疲れ切っている人たちは大っぴらに「ご自愛していいんだよ、がんばらなくていいんだよ」と声をかけられたことで喜んでそういったものを買い、消費の口実にした。「がんばってるんだからたまにはご自愛しないとね」。

だけど、ご自愛コスメやご自愛デザートを買ってちょっと一息入れて、そのあとどうする?

また社会のなかで疲れ切って、ご自愛消費でお茶を濁すことを繰り返す?

もちろん、自分の心身を守るために定期的にケアをしたり、自分を甘やかすこともすごくすごく大事なこと。

だけど、「自分の心身を大切にする」って、「ご自愛◯◯」でパッケージングされたものを消費して「ご自愛した気になる」だけで本当に達成できるもの?

私はずっと、この一大「ご自愛消費」ムーブメントに違和感があった。

自分を愛して大切にするためには、企業のマーケティング戦略の産物に金を払うだけではなく、自分の心身と向き合わなければいけないのでは?

そして少し休んで元気になった後、自分の思う方向に自分の足で歩いてみて、「ちょっと痛みは伴ったけど、前より少し思うような生き方ができた」と思えたとき、はじめて自分のことを信じられるようになるんじゃないか。

家でご自愛と称してアイス食べながらNetflix見てるだけじゃ現在地から動くことはできないのである。

もちろん「成長」なんてしなくていいし現状維持でいいし、できることなら家でずっと寝てたいという人もいると思うし、本当に疲れ切ってしまってまずは休養が必要という人だってたくさんいるのはわかる。

私も2回休職したし、「全然がんばれないつらさ」もすごくよくわかる。あの社会からはみ出た、いらない要員だと思われてるみたいな情けない気持ち。

できることなら1日中寝っ転がってても「私は存在するだけで素晴らしい、愛されうる人間」だと思える頑丈な自己肯定が欲しい。売ってるなら高くても買う。50万までは出す。

でも結局のところそんなでっかい自己肯定感の基盤を持ってる人って、実際ほとんどいないんじゃない?

そんな人がいたらめちゃくちゃ羨ましいし、素晴らしい環境で育ったんだね!と拍手したい。

でもほとんどの人はそうじゃないから、後天的に自分で自分を愛して信じられる力を身につけないと人生がずっとじんわり辛いのだ。

ずっとじんわり辛いループから抜け出すには、逆説的だけど多少辛くて険しい道のりとか、チャレンジングなこととかを自分の力で乗り越えて自信をつけるしかないんだと思う。結局。

べつに大それたことじゃなくていい。ちょっと丁寧に仕事をしてちょっと褒められるとか、話してみたい人に思い切って話しかけてみるとか、ずっとやってみたかった習いごとをはじめてみるとか。

そういうちょっとした「私やればできるじゃん!」を積み重ねていくと、どんどん自分が信じられるようになって、自分の頑張りを尊重できるようになって、失敗したときも「私ならまたやればできる」って思わせてくれるようになるんじゃないかしら。

私は受動的なご自愛消費よりも、そういう「自分の精神の足腰を鍛える少しの根性」が本当の意味で自分を守ってくれると最近つくづく思う。

もちろん大変なときに無理するのが必要とは全く思わないけど、「自分を大切にする」って自分を休ませて大事に箱に入れて何もさせずに美味しい餌だけ与えることだけじゃない。

実際、みんなが憧れてキラキラ輝いて、いろんな人から必要とされてたくさんのものを持っているように見える人たちは、少しの根性と努力を積み重ねて自信を得て、さらに遠くまで行って傷ついては強くなって…を繰り返している。

そういう人を見て「あの人は恵まれてる、私なんか…」と言いたくなるのもわかるし私もめちゃくちゃ言ってたけど、そう言ってるだけじゃどこへも行けないんだよな。

「私なんか…」が出てきたときは自分の心身を観察するチャンスだと思う。本当はなにがしたくて、なにがうらやましくて、どうなりたいのか? 

私は最近ようやく「私なんか…」の内訳を直視できるようになった。自分のドロドロした気持ちを観察するのは本当に勇気が要ったけど、同時に少し楽にもなった。なにが欲しいのかわかればあとは頑張ってやってみるだけだから。道が決まる。道を歩いてみるとそれなりに痛いけど、「ずっとじんわり辛い」より全然いい。

これからはもう少し自分の精神の足腰の筋トレを頑張って、本当の意味で自分を愛せるようになりたい。全然楽なことじゃないと思うけど、まだまだ人生長いし。真のご自愛は一日にして成らず。根性見せて、歯ァ食いしばって、ダサいかもだけど頑張ってみてる自分のことは、やっぱり少し前より好きなのだ。














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