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「産んだほうがいいのかな」の波が押し寄せるとき

「子どもを産んだほうがいいのかもしれない」という気持ちはときどき波のようにやってきて、そうなるともうそれしか考えられない、考えるべきじゃないみたいな勢いなので自分でもどうしていいか困ってしまう。浜辺に立って海を見ていたと思ったら、ざざ〜〜っと潮が満ちて気づいたら膝まで浸かってた、みたいな緊迫感と、え、どうしようやばい急いでなんとかしないと、という焦りが静かに素早く押し寄せる。

それはなんでもないときにやってきたりもするし、全然別の友達たちから立て続けに子どもを産むことにした・産んだという選択の報告をもらったときにやってきたりもする。

ここ最近は「この人も"なしの方向"で行くのかな」となんとなく、至極勝手に思い込んでいた人たちが何人も続けて「"ありの方向"へ移行する」という知らせを聞いて、シンプルにすごい、かっこいい、どうか無事で元気で、と涙が出るような思いと同時に、自分がなにかものすごく重要なことを取りこぼしているんじゃないかという気持ちの波が押し寄せてきたのだった。


いつもの私だったら、「子どもがいてもいなくても幸せにも不幸にもなりうるし、今がすごく楽しい毎日だし、別になにも足したり引いたりしなくたって全然いいでしょ」と冷静に思えるし、そこに強がりだとか卑屈さとかは一切ないわけで、平熱としてそんな感じなんだけど、そういう波が押し寄せてきているときはほとんどパニックみたいな心持ちになってしまう。

私は子どもを産まない理由だったら30個は挙げられる。こないだ書き出してみたら35個あった。たぶんまだ出る。
それは私の内面的な部分もだし、いろんな他のやりたいことだったりもあるし、世の中的にハードすぎるだろ冷静に、みたいなのもある。

だけどそういう、言葉にして並べられないような、圧倒的な何かがやっぱりあるのだよなあ。並べた35個を全部蹴っ飛ばしてバチボコに壊してどかして、その上にめちゃくちゃに輝いているたった一つを、大事に大事に置いてみたくもなるのもたしかなんだよなあ。


こうやって概念で考えているうちはなにもかもをすごく神聖視して崇め奉ってしまうんだけど、実際やってみたらきっとひたすらに現実で、現実というのは吐瀉物だったり排泄物だったり、あとは金の心配とか睡眠不足とかだったりするんだろう。それでもそっちの方を選びたくなってしまう引力がどうしても働いて、ときどき圧倒されてしまう。

こういう切迫感は夫に話しても、100を理解してもらうのは難しいんだと思う。しかも「私はやっぱり子どもが欲しい」という訴えならまだしも、「私はどうしたらいいのかな」みたいな調子なので、夫だってどうしたらいいかわからなくもなるだろう。

だけど、こういう悩みはいつまでもどこまでいってもどうしても産む側のものであって、どうしたって産まない側にはわからないことなんだと思う。わかって欲しいのに、絶対わかりっこないという確信がある。

「ふたりで話し合って決めること」だと言われているしその側面もたしかにあるんだけど、実際ほんとのところどうするか?身体を行使するか?というのはやっぱり産む側が決めることなんだよね。決めるべきだし。それは産まない側は決めないでほしい。

だから私が決めないことには始まらないし、私が決めたことを尊重してほしいし、私が決めるプロセスに余計なお世話をはさまないでほしいのに、なんで私がひとりで悩んで決めないといけないんだろう、どうしてこのプロセスに関わってくれないんだろうとも同時に思う。裏面と表面を行ったり来たりして、3秒前に思ったことと矛盾することを繰り返して、ずっと同じところを回っている。


回り疲れて考えるのをやめて、しばらくすると潮は引いていて、また平熱の私が戻ってくる。


このままたまにやってくる波に巻き込まれてはぐるぐる回って疲れるまで考えることを繰り返して、そうこうしているそのうちに波の方からこちらに来なくなる日がたぶん訪れる。たぶんじゃなくて確実に。

そうなったら楽なんだろうけど、きっと少し寂しいんだろうね。

早くそうなってほしい気もするし、もう少しぐるぐる回って悩みたい気もする。悩めるだけ恵まれてんだよという人もいるんだろうし、できるなら決める前に戻りたいという人だって、あんまり言わないだけでいるんだろう。言っちゃいけないことになってるから言えないだけ。


後悔しない人生ってもしかしたら味気ないのかもしれないし、そんなものはそもそもないかもしれないし、なにを選んだってみんな少しずつ寂しいのだとしたら、そういう意味で私たちはなにを選んでも仲間と呼んでもいいのかもしれないね。

そんなふうに考えたら、とりあえず少しだけは大丈夫なように思えたのだった。次に波が来るまでの間はたぶん。






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