三塁ベースと主体性
全体的に競技スポーツが下手くそである。遊びでする分には楽しいが、決して得意とは言えない。他人との勝負を楽しむ、というレベルまで行けたものはほとんどないと言ってもよい。
そんな僕は中学から野球を始めた。小学校6年生の頃に野球のおもしろさを知ってから、頻繁に弟2人を連れ、公園で野球をしていた。小学校の野球チームは既に卒業のシーズンを迎えていたため入部は断念したが、中学生になったら自分もプレーをしてみたい、と珍しく意思を持って当時の僕は新たな世界に飛び込んだ。
結果、中学の野球部は散々だった。小学生時代から練習を重ね、先輩後輩のつながりも既にできている部員の中で、素人かつ運動も上手くない僕は、少なくとも能力において完全に浮いていた。やんちゃな中学男子野球部、鬼のように怖い監督、ついていけない練習、厳しすぎるスケジュール。何より最も問題だったのは、それら状況をなんの疑いもなく、全て鵜呑みにする自分である。メンバーから馬鹿にされ、監督から怒鳴られ、わけも分からず一向に上手くならない練習をしていたにも関わらず、馬鹿正直に3年間皆勤までして引退した、自我のかけらもない能無しが諸悪の根源である。そんなんだからゆくゆく大変なことになるのだが、それはまた別のお話。
僕はとにかく野球が下手だ。当然、試合で使われることなどない。ただでさえ同級生は、地方では名の知れたメンバーが集うそれなりの強豪チームだった。それも、僕を除いて15人もいた。僕は試合が始まると、監督の怒号が聞こえないように、いつもベンチとは反対方向のコーチャーズボックスに立つ。一塁ベンチの時は三塁へ、三塁ベンチの時は一塁へ。醜態を晒す可能性の高いダイヤモンドへうっかり招集なんてされないように、小柄だった体を更に縮め、できるだけヘルメットを深く被っていた。
勝利至上主義なチームだったとはいえ、学生野球である。練習試合であれば僕が途中出場する機会も稀にあった。
打撃は苦手である。つまり代打で呼ばれることはない。自分が打とうとしているポイントが、そもそもだいぶ後ろであることに初めて気づいたのは、高校でテニスを習った時だった。中学の野球部では、早くもないスイングで体の中心から直角の位置に来たボールを叩こうとしていたためいつも振り遅れていた。打撃の快感は野球の醍醐味、なんて言うが、僕は3年間で一度もこれが分からなかった。
守備は苦手である。つまり守備固めで呼ばれることはない。当時の守備練習は、今も頻繁に夢を見る。それも相当な悪夢だ。打撃に関してもだが、基礎ができていないのに周りに合わせて細かい修正ばかり詰めこんでいて良いプレーができるわけがない。そもそも「打つ」も「捕る」も、感覚から僕は分かっていなかった。その状態で始まったノックは、ひたすらユニホームと自尊心を擦り減らしていく作業だった。打撃と違って、取れて当たり前の守備は、僕に莫大な数の失敗経験を与えた。向かってくるボール、焦りと緊張、動かない足、飛び交う怒号、呆れる先輩、笑う同級生。1年生ではショート、2年生からはセンターを守ったが、試合どころかノックでさえ、僕はほとんどエラーをしていた。
ここまでいろいろと格好悪すぎるので追記しておくと、僕の守備は絶望的に酷いわけではない。部活以外の、例えば遊びや知り合いの大人とのノックではむしろ褒められることも多かった。大学で野球をしていた時は、高校野球経験者に「守備めっちゃ上手いね」と言われて、にやにやしてしまったこともある。中学野球部という強力なデバフがかかる空間で僕の守備スキルは7割くらい下がっていた、と言い訳しておく。
打撃に守備も駄目となると残るは走塁しかない。これも決して得意とは言えない分野であったが、それでも他の2つに比べるとまだマシな方ではあった。僕は試合途中にランナーと代わって起用される「代走」としてグラウンドに立つ機会が多かった。毎日毎日、馬鹿正直に盗塁練習をしたおかげで少しコツは掴んでいたし、脚力も徐々につくようになっていた。
代走のお仕事は少ない。打球を判断して進塁する、監督のサインを見て盗塁をする、の2パターンしかない。キャッチャーの肩が怪物じみているプロとは違い、中学レベルの試合であれば盗塁の難易度はそこまで高くはない。つまり、盗塁のサインはかなり頻繁に出る。一塁から二塁に進塁する「二盗」は、高確率で決められるようにしなければならない。監督が行けと言われれば行くし、行くなと言われれば行かない。自分の力が及ばない他人の打席で、アウトが3つ続けば黙ってベンチに帰る。朝早くからバスに乗り、遠征先のグラウンドで僕がすることなんて、本当にその数分程度のことだった。
さて、そんな「代走要員」こと僕の、過去最高のファインプレーがある。これは今でも鮮明に覚えている。
3年生の4月、地元から50kmほど離れた中学校での練習試合だ。いつものように終盤、僕は代走としてグラウンドに呼ばれ、ヘルメットを被った。今回は二塁ランナーの代走であるため二盗はできない。監督のサインを確認してもノーサイン。右バッターボックスにはうちの4番打者が構えているため、当然ここは小細工なしの打者勝負だ。初球はストレートでストライク。一度塁に戻って再度監督のサインを確認するが、やはりノーサイン。僕はリードを取り、ピッチャーは2球目を投じるべく、セットポジションに入った。
出来心だったのかな。キャッチャーが少し外に構えた。ランナーコーチとしてこれまで戦況を見ていたが、これは次、外に逃げるカーブが…。そう思った時には、僕は既に三塁ベース目がけて走り出していた。
一塁から二塁への盗塁よりも、二塁から三塁への盗塁の方が難しい。理由は簡単で、キャッチャーの送球距離が三塁の方が短いからである。盗むための制限時間が、三塁へ向かう三盗の方が短く、難易度が高い。よって通常はまず行わなれないし守る方も警戒が薄れる、つまり奇襲なのだ。
ピッチャーもキャッチャーも反応が遅れた。ストレートと違ってややボールがミットに収まるのが遅い変化球。三塁送球動作に移りづらいコース。壁となる右バッター。条件は揃っていた。かくして、僕の三盗は成功した。結構ギリギリだったけど。
たかだか中学生の練習試合である。成功しようが失敗しようが、チームとしても個人としても何も変わらない。「あれアウトだったら監督、絶対ブチギレてたよ」と、背筋の凍る一言をベンチに帰って聞いた。中学生の僕にとってハイリスクローリターンな賭けだっただろう。それでもこのプレーは、未だに振り返ってしまうくらい、思い出の一幕だ。野球をしたい気持ちから始まり、心を無にして淡々と身にならないキツい練習をこなす空っぽなプレイヤーだった僕が、3年間でした最初で最後の「主体性」を持った選択と行動。野球部は散々だった。けど確かに自分はそこにいたと、胸を張ってもいいのかもしれないと思えた。
ここからは余談。
中学を卒業した僕は、高校に入り不登校という形で、その「空っぽな生き方」のツケを存分に払うことになる。それらの経験を重ね、23歳になった僕が今していること。それは『十七盗』である。二塁を陥れる『二盗』より、三塁を陥れる『三盗』の方がよっぽど難易度が高いのと同様に、その何倍何十倍も難しいのが『十七盗』だと言えるだろう。当然、十七塁はキャッチャーの送球距離が二塁や三塁よりも、もっともーっと近い。勇気や技術、そして何より確かな主体性が必要である。
今僕は十六塁から十七塁に走り出す勢いだけで呼吸をしている。監督からのサインは出ていない。どころか見てすらいない。そんなものはどうでもいい。進みたいから走るのだ。コーチャーズボックスで伏目がちにダイヤモンドを見つめる僕はもういない。十六塁から十七塁、そしていつかは本塁まで辿り着けるよう、がむしゃらにグラウンドを駆け回るのが、中学11年生になった僕の使命である。
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