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多様性の社会で育つ子供が直面するアイデンティティの悩み

最近、息子の友達の親御さんたちと話す中で、似たような話を立て続けに聞いた。それは、子供のアイデンティティに関する悩みである。

息子はいま小学1年生。通っている学校のクラスは、白人が半数ほどを占めているが、移民の国たるがゆえんで、みんな世界のあちこちにルーツを持っている。白人といっても、遡ればヨーロッパのどこかにルーツがあるし、ほかにもアジア、中東、アフリカなど、出自は様々である。英語以外にもう一言語話せる子どもも多い。教室で子どもたちの面々をぐるりと見渡してみると、まるで国連のようだ。

日本生まれ日本育ちで、学校ではみな黄色肌で黒髪が当たり前だった私の子供時代と比べると、人種のるつぼってこういうことか、と感心する。

今のところ、我が家が経験している「多様性」は、みんな違ってみんないい、という和気あいあいとしたものだが、学年が上がっていくと様相が多少変わってくるらしい。

子どもたちの自我意識が強まるにつれ、自分のアイデンティティについて悩む子たちが出てくる。自分はどこに(どの国に、どの文化に、あるいはどの人種に)属しているのかという帰属意識について考え始めるのである。

私が耳にした例を2つ挙げてみる。

1 フィリピン系と白人の混血ヨハンの例

ヨハンはフィリピン系クウォーターの小学4年生。フィリピン系のお母さんの要素を濃く受け継いでいて、アジア系の血が入っていることが見てわかる。でも、生まれも育ちもアメリカの彼の内面は、アメリカ人としての意識に大きく偏っている。

ある日、クラスメートで、両親ともにコリアン系の女の子がヨハンにこういった。

あなたは、アジア人でも白人でもないから、どこのグループにも属していないわね。だから、誰からも信頼してもらえないね。」

この発言の前後に、二人の間でどんな会話があったのか知らない。だが、ヨハンは思いがけない友達の言葉に大きな衝撃を受けた。女の子の発言を真正面から受け止めてしまい、「僕ってどこにも属していないの?誰にも信頼してもらえないの?」と泣きながら母親に問いただしたという。

2 韓国系の女の子の例

もう一つの例。これは別のママ友から聞いた話だ。彼女には小学5年生の女の子がいる。これぐらいの歳になってくると、自分とバックグラウンドが似通っている子ども同士で自然とグループが形成されていくことが多いという。その子がいま仲良くしているのは、中国系が中心のグループで、韓国系と日本系も1人ずついるらしい。

ある日、韓国系の女の子が、深刻な顔つきをして母親にこう言ったという。
わたしも中国人に生まれたかった。

子どもたちは切実に居場所を探している

私の子どもたち(小1と年長)も、あと数年したら同じような悩みを持つようになるのだろうか。そう考えると、未来への想像にちょっと緊張感が走る。

アメリカは、それぞれの違いを受け入れ、多様性を認め合おうとする意識が強い社会である。でも、そうであろうがなかろうが、学校の中では結局どこでも同じようなことが起こっていることに気づく。つまり、類似性でまとまろうとする動きだ。

大人だってそうするように、子どもも自分の世界における心地よい居場所を探している

ヨハンの例でいうと、どこにも属していないのではないか、という突然現れた疑いに、とてつもなく不安になった。実は、自分には居場所がないのではないか、という恐怖に似た感覚に陥ったのだろう。

もっというと、ヨハンに例の言葉を投げかけたコリアン系の女の子も、自分の居場所探しに苦しんでいたのではないかな。彼女はこの多様なコミュニティの中で、自分と同じアジア系のグループの中に居場所を見つけた。その経験から、ヨハンのような混血の子どもは、どのグループにも属していないように見えたのかもしれない。勝手な想像だけれど。

二つめの韓国系の女の子の例でいうと、グループの中でマイノリティである韓国系ではなく、マジョリティである中国系に属したいという願望をもっているように見える。マジョリティの方が居心地が良いと思うに至ったなんらかの経験があったのだろうと想像する。

大人になれば、学校のように一所にとどまらず、異なる場所やグループの中で自分の居場所を作ることができるけれど、子どもの世界では学校がほとんどすべてだ。だからこそ、自分がどこに属しているのかという問題は、切実で深刻なことなんだろうと思う。

自分の子どもがアイデンティティに悩み始めたとき、私は親として何ができて、どんな言葉がかけられるのだろうか。と、最近折に触れて考えている。

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