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書くことが好きだった記憶が、これから書く私をきっと助けてくれる

思い起こせば、私は、子供の頃から書くことが好きだった

きっかけは、小学1年か2年のとき。日記を書くという宿題が定期的にあった。週に2、3回くらいだっただろうか。毎回、冒頭は「先生、あのね。」で始めることになっていて、日記帳は「あのねノート」と呼ばれていた。

毎回の文字数はわずかなもの。一字ずつが大きなマスになっている作文ノートに、3行から5行くらいだっただろうか。何が楽しかったのかはよく覚えていない。でも、子供ながらに性に合うと感じていたのだと思う。それに、先生が漢字で書けたところに花丸を付けてくれたり、書いたことへの感想を書いてくれるのが楽しみだったことは覚えている。

誰かからのフィードバックが、書く楽しみにつながるという原体験はここにあった。

飼っていた文鳥が死んでしまったことを書いたこともあった。前日に元気をなくした小鳥が、翌朝には横たわって死んでいたときの悲しみ。心配しながら眠った夜に、小鳥の夢を見たこと。これは当時の私には大作で、クラスの代表作文に選ばれて、校内放送で朗読した。いま思えば、作文に力の入った学校だった。

実は、小鳥の夢を見た部分は創作で、本当は見ていない。悲しかった気持ちの描写に嘘はないのだけれど、大人たちが私が書いたもののどこが本当でどこが本当ではないのかに気付いていないことが不思議だった。

書くことは、創ることでもあるということを、このとき初めて体験した。当時は言葉として認識していなかったけれど。

その後、学年が上がり、「あのね」ではなくなったが、日記を書く宿題は続いた。

小学3年のときだったか、「春を見つけた」という題で日記を書く宿題が出た。友達と一緒に通学路沿いにある公園に寄り道をしたら、青い小さな野花がそこかしこに咲いているのを見つけた。私は、それをいくつか摘んで家に持って帰り、その花が「オオイヌノフグリ」という名前であることを調べ、その花のことを日記に書いた。

テーマを心に留めておいて、それについて書く材料を探しに行くということを、こんな昔にもう練習していたんだ。

小学5年になると、宿題が出なくても好きなだけ書いて、定期的に先生に提出するというシステムに変わった。私は俄然はりきって、毎日書いた。仲が良かった友達も書くのが好きで、私と彼女は競うように文章を量産した。最後まで書き切ったノートは、黒板の上に積まれていくルールになっていて、私と彼女の分の冊数は、常にクラスで1位、2位を争った。

その競争に拍車をかけたのが、先生が定期的に発行するクラス新聞だった。先生が読んだ日記の中から、よく書けているものを選んで新聞に載せるのである。そして、文章にスピード感があるとか、簡潔で説得力があるとか、具体的に講評してくれるのだ。

単純で、頑張り屋さんだった私は、そのクラス新聞に載せてもらいたくて、毎日毎日書いた。実際、何度か載せてもらったのだけど、その中の一つで覚えているものがある。

文章がうまくなりたいという思いについて書いた。いま私がやっていることと変わらなくて笑えるが。当時、11歳だか12歳の私が、うまく書けるようになるためにやろうと決めたこと。

1 毎日書く
2 たくさん書く

3つ目があったような気がするが、思い出せない。あっぱれと思うのは、文章の上達には近道がないことにちゃんと気が付いていたこと(コツはあると思うけど)。当時は、インターネットもない時代。どこかで見て拝借した目標ではなく、少ないながらに自分の経験をもとにして、私の中から出てきた本物の思いだったことは確か。

書くことへの熱意は、中学に上がり、勉強や部活で生活が忙しくなるにつれて薄くなっていったように思うが、毎日でなくても書く習慣は、大学まで続いた。だが、社会人になってからは、ごくたまにしか書かなくなってしまった。いま思えば惜しいことをしたものだ。

この記事を書きながら、長い間忘れていた、書くことについての私のささやかな歴史にかかわる記憶が、一つ、一つと繋がって、確かな解像度をもって蘇ってきた。いまの私に繋がる、大切な足場だなと思う。長いブランクを経たけれど、今また書くことに辿り着いたことが嬉しい。

この先、どういう形で書き続けるにせよ、ときどきこのnoteを読みにここに戻ってこようと思う。これから書く私を、きっと助けてくれるような気がするから。

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