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人生の半分以上好きなバンドのライブに、わたしは一生行くことができない

一生好き、と自信を持って言えるアーティストはいますか。

わたしにもいます。

では、そのアーティストの新譜の発表を待ちどおしく思ったり、ライブや生配信を何ヶ月も前から楽しみに待って、観たりした経験はありますか。

わたしにはありません。

わたしが一生好きと言えるバンド・THEE MICHELLE GUN ELEPHANTは、わたしが彼らを知った5年前に解散していたからです。

さらにそこから1年も経たずに、ギター・アベフトシの突然の訃報。
わたしがミッシェルを生で観ることは一生叶わない夢になってしまいました。

他の現在も活動しているバンドやアーティストのように、新譜や次のツアーを待ちどおしく思うことはこれまでもこれからもできないし、活動当時、特にバンドがいちばん勢いのあった90年代終わりのミッシェルを生で観ていた人たちのような熱狂は体験したこともないけれど、それでも、他のどのバンドよりも好きと自信を持って言えます。

わたしが今でも音楽を好きでいられるきっかけのバンドについて、語っていきたいと思います。

長いです。(約7000字あります)
よければ休み休み読んでください。

出会い

わたしがミッシェルと出会ったのは、2008年に放送された『ミュージックステーション』の特番でした。
確か「Mステ20年以上の歴史、これまでの名場面リクエストランキング」みたいな特集だったと思います。

当時小学生のわたしは、そのときMr.Childrenのファンでした。
テレビの音楽番組が好きで、そこで耳に残った曲を田舎の小さいTSUTAYAで、毎週土曜日、父に「3枚まで」の決まりでCDレンタルしてもらえることだけを日々の楽しみにしていました。
テレビで耳にすることのなかった、ミッシェルのような正統派のロックミュージックは聴いたこともありませんでした。

そのMステのスペシャルも、ミスチルの過去映像を目当てに観ていました。
何度かランキングでミスチルを観て、満足していたころに流れてきたのが

「t.A.T.u.のドタキャン」

Mステの歴史でも、たびたび【伝説の夜】と語られるあの場面だったのです。


幼いながらもt.A.T.u.のドタキャン騒動に覚えがあったわたしは「t.A.T.u.っていたな、懐かしいな」くらいの気持ちで観ていました。
そこで耳にしたのが、t.A.T.u. の代わりに急遽もう一曲演奏した、ミッシェルの「ミッドナイト・クラクション・ベイビー」でした。

1本だけで鳴っているとは思えない太いギターのサウンド、ラインがしっかり聴こえるほどにバッキバキのベース、乗らずにいられない力強いドラム、サウンドに負けない強烈な声のボーカル。
たったの4人だけで、これほどまでの迫力のある音が出せる。
これが「ブチ抜かれる」ということか、と思いました。
歌詞の意味もわからないし、そもそもワンコーラスしか聴いていないのに、わたしはその曲が耳から離れませんでした。

次の日の土曜日、いつものように父に連れて行ってもらったTSUTAYAで、わたしは『SABRINA NO HEAVEN』をレンタルしてもらいました。
毎週見ていたミスチルの仕切りのすぐ近くに、こんなバンドが並んでいたなんて。
ミスチルの半分くらいしかないスペースのなかに、こんな音楽があったのか。
TSUTAYAには毎週行っているのに、その日にはこれまでに感じたことのない高揚感がありました。

このとき、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTはわたしにとって、特別なバンドになったのです。


もう活動していないことを知る

CDレンタルではありますが、音源を手に入れたわたしは『SABRINA NO HEAVEN』、なかでもやっぱり「ミッドナイト・クラクション・ベイビー」を聴き込む日々が続きます。

しかし『SABRINA NO HEAVEN』はミニアルバム。6曲(うち1曲はインスト曲)しか収録されていないため、どんなにかっこよくても次第に物足りなくなってきます。

もっと新しいアルバムとかないんかな。あったら今度TSUTAYAで借りたい。

当時のわたしはそう考えて、パソコンで彼らのディスコグラフィを調べてみることにしました。そこで、初めて知るのです。

この間借りたアルバムが、ミッシェルのラストアルバムだったことに。

当時はまだ、好きなバンドが解散や活動休止をするという経験もなく、これはまったく初めての経験でした。

もう解散しているから、新譜は出ない。
Mステの出演者予告を見ても、今後彼らがまた登場する放送を観ることはできない。

味わったことのない絶望感がありました。

後を追う

それでもやっぱり、Mステのあの衝撃が忘れられなかったわたしは、新譜が出ないなら過去作をさかのぼろう、全部聴いてやろうと思い、TSUTAYAでピンと来たアルバムから全部借りていこうと考えました。

そこで選ばれたのが3rdアルバム、『Chicken Zombies』でした。

インターネットで「ゲット・アップ・ルーシー」「バードメン」が名曲と見かけたからとか、ジャケ写(当時はCDジャケしか知りませんでした)がなんだか不気味で妙に惹かれたからとか、いろいろ理由はあったと思うのですが、正直思い出せません。

MP3世代の悪癖で、ついついアルバムを借りても好みの曲だけ延々リピートしてしまうことが当時からよくあるのですが、これは1曲目の「ロシアン・ハスキー」のイントロが流れてきた瞬間からあ、めっちゃ好きとなって、ワクワクしながら、珍しく順番通りに聴き進めた記憶があります。
アルバム全体の駆け抜けるような疾走感、歯切れの良いリズムに、よく考えなくても「乗れる」感じが好きでした。

あと、なんかめっちゃギタージャカジャカしてる!とかも思っていました。(いまとなっては恥ずかしい限りですが…)
当時はロックの知識が全くなく、『SABRINA NO〜』との音楽性の大きな違いも「ギターのジャカジャカ(カッティング)」の加減くらいしか分からず、特に気にせず聴いていました。

昔のアルバムも好みだったことに嬉しくなったわたしは、次はどのアルバムを借りようかと期待に胸をふくらませていました。

アベフトシが死んだ

2009年7月22日、皆既日食の日。

中学生になって、毎週必ず父と予定が合うこともなくなり、TSUTAYAに足を運べる頻度も減りました。
いつの間にか、ミッシェルよりもチャットモンチーやJUDY AND MARYを聴くことの方が多くなっていた、そんな夏でした。

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのギター、あのカッティングの鬼、
アベフトシ死去。享年42。

ニュースをどこで見たのかは思い出せません。
ただ、ニュースを知ったときに、なんとも言えない絶望感と喪失感におそわれたのを、今でも覚えています。

解散したことはわかっていたけれど、もうあのマシンガンギターを浴びることは一生できないのか。
まだミッシェルを知ってから、聴き始めてから1年足らずのはずなのに、ずっと大切にしていたものが壊れてしまったような感覚でした。

追悼企画として、映画やDVDボックス、LP盤などがいろいろリリースされましたが、お小遣いが月額制でない田舎の普通の中学生だった当時のわたしには、オールタイムベスト盤『THEE GREATEST HITS』をレンタルするくらいしかできませんでした。小さいTSUTAYAではDVDボックスもCDの初回盤もすぐに売り切れてしまい、たびたび眺めることも、少ないお小遣いを貯めていつか買う日を夢見ることもできなかったからです。

とても悔しかった。

どうすることもできず、わたしはレンタルしたベスト盤をひたすら聴き込みました。
そこで、ようやく彼らのデビュー曲「世界の終わり」を聴いたのです。

チバさんの声が若いなとか、デビュー曲なのにこんなタイトルって、と思いながら聴いていたはずなのに、途中からなんだか涙が出てきて止まらなくなりました。

世界の終わりは そこで見てるよと
紅茶飲み干して 君は静かに待つ
パンを焼きながら 待ち焦がれている
やってくる時を 待ち焦がれている

またこのとき、この曲が、幕張でのラストライブの最後の曲だったことを知りました。
最後のライブの、最後の曲に、ここまではまってしまうデビュー曲があるでしょうか。

ちょっとゆるやかに だいぶやわらかに
かなり確実に 違ってゆくだろう
崩れてゆくのが わかってたんだろ
どこか変だなと 思ってたんだろ

時系列順にきれいに楽曲が並んだこのベスト盤を聴いて、最初はからっと疾走感のある正統派ガレージロックから、どんどん重く冷たいヘヴィなサウンドへと、音楽性が変化していたことに初めて気づきました。
(そりゃアルバム2枚しか聴いていなかったんだもの)

1曲の長さも比例するように伸びていくし、1曲を聴くのにかかる体力がどんどん増えていくような感覚。
ただ聴いているだけなのに、ちょっとしんどくなるような…

そして、この変化とバンドの結末を、はじめから悟っていたようなデビュー曲の歌詞。
『SABRINA NO HEAVEN』を聴いても、『Chicken Zombies』を聴いても、歌詞の意味なんてまったくわからなくて、ミッシェルは「よくわからないけどかっこいい」バンドだと思っていたのに。

さらに、ベスト盤がアルバム初収録となったラストシングル「エレクトリック・サーカス」にはこんなフレーズがあります。

俺達に明日がないってこと
はじめからそんなのわかってたよ
この鳥達がどこから来て
どこへ行くのかと同じさ

涙がとまりませんでした。

同時に、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTがバンドとしてすっかり完結してしまったのだ、と感じました。
ミッシェルをこれからもずっと観ることができないのは、本当に悔しいし悲しいことです。でも、そんなことよりも「こんなかっこいいバンドに出会えて心底嬉しい」という思いでいっぱいになりました。

テレビでワンコーラス聴いただけのバンドに、ここまで心が揺さぶられて、こんな形で忘れられない存在になってしまうなんて、Mステを観ていた小学生のわたしには想像もしていませんでした。

ロックってすごい。バンドってすごい。

音楽ってすごい。

この凄さをわたしにまざまざと見せつけてくれたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTは、間違いなく、人生でいちばん好きなバンドになったのです。

ミッシェルが教えてくれたこと

その後、相変わらずお金のないわたしはTSUTAYAに通い、ミッシェルのオリジナルアルバムを少しずつ借りては、ひたすら聴くのを繰り返しました。

すべて聴き終わると、今度は各メンバーのミッシェル以外(以後)の活動、次はミッシェルと同世代に活躍したバンドへと、少しづつ追っていくようになりました。

蔦をたぐるようにたどってみると、Blankey Jet City東京スカパラダイスオーケストラTHE YELLOW MONKEYなど90年代から活躍するバンドや、Dr.FeelgoodThe WhoThe Clashなどミッシェルも影響を受けたイギリスのバンド、9mm Parabellum BulletOKAMOTO'Sなどの若手バンドをはじめ、魅力的なアーティストの多いこと多いこと…
わたしは、音楽を聴くことがもっと好きになりました。

高校に進学すると軽音楽部に入部し、念願だったバンド活動ができることに。
バンドができることが喜びで、楽器には特にこだわりがなかったわたしは、エレキベースを手にすることになりました。

ミッシェルをやってくれる友人(特にボーカルとギター)は結局見つからず、ミッシェルのコピーバンドはできませんでしたが、東京事変、UNISON SQUARE GARDENなど他の好きなバンドのコピーができたり、個人的にベースだけミッシェルのコピーをしたりして、楽しく3年間の部活を終えました。
「ダニー・ゴー」のリフが弾けたときの感動といったら!

でも、どう頑張ってもアン直でウエノさんのあのバッキバキの音にはなりませんでした。自分で楽器を演奏して初めて、プロの凄さを身をもって知った瞬間でもありました。

また、ラストツアーの京都磔磔公演のパッケージ化に際して、京都で行われた写真展「TMGE KYOTO RIOT! -19962003」にも足を運びました。リアルタイムでわたしがミッシェルのイベントに参加できたのは、今のところこれが最初で最後です。
(会場の展示物はすべて撮影可でした。この記事のアイコンに使用している磔磔の看板も、そのときに撮らせていただいたものです)

周りにはそもそもミッシェルを知っている人がいなかったので、写真展でわたし以外の「ミッシェルを解散後もずっと好き」な人の存在に改めて気づき、なんだか温かい気持ちになりました。ガチャガチャもたくさんして帰りました。

大学生になると、さらに念願だったロックフェスに行くことができ、そこで初めてわたしはThe Birthdayを観ました。2015年のRADIO CRAZYです。

目の前のステージで、チバユウスケが歌っている。
その後ろで、クハラカズユキがドラムを叩いている。

The Birthdayとミッシェルは別のバンドです。
わたしももちろん、違うバンドとして楽しく聴いています。
わかっていても、それでもなんだか、夢の中にいるようでした。
ミッシェルからロックを知って、いままで聴き続けていてよかったなと思いました。

最後に歌われた「涙がこぼれそう」、バースデイでいちばん好きな曲です。
生で聴けてほんとうにうれしかった。

ちなみに、ベースを弾いていたくせにまだウエノコウジさんのライブには行けていません。お恥ずかしい!
ライブもなかなか前のようには開催できない昨今ですが、収束後は生ウエノさんを拝むことがいまの目標です。楽しみ!生きる!

社会人になってからは、ストレスで物欲が爆発したときは、ミッシェルのCDや中古レコード盤を集めたりしています。
(LP、人気すぎてなかなか見つからないし値段も高いです… とんでもない沼)
ミッシェルを好きにならなかったら、いくら最近ちょっとブームだからといっても、自分でレコードを聴こうなんて思わなかったと思います。

この前は、中学生のあのとき買えなかった、思い出のDVDボックス『THEE LIVE』をメルカリで手に入れました。無職になるのに大丈夫かな、と思いながらポチりました。
結果、買ってよかった以外の言葉がありません。譲ってくださった方、ほんとうにありがとうございました。
全12枚組、まだ全然観られていないので、ゆっくり楽しみたいと思います。

どうしようもなく不安になることもありますが、わたしは今日も、ミッシェルが教えてくれた音楽のおかげで、ぼちぼち楽しく生きられています。
これからも音楽を楽しめる人生で、世の中であってほしいと切に願います。

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番外編・生の熱狂ではないけれど

2020年8月15日。
本来なら「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2020」が開催されていたこの日に、YouTubeで特別番組がライブ配信されました。

過去の出演アーティストのパフォーマンス映像を中心に、新たにライブ配信されるトークパートやSPライブパートを含んだ、まったくの特別プログラム。
その出演ラインナップのなかに、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの文字もありました。


当時在職中で、翌日16日も仕事だったわたしは番組をフルで観ることはできませんでしたが、ミッシェルが出る午前4時からの部は、しっかり目覚ましをかけてスタンバイしていました。

そして、ついにミッシェルの順番。

「世界の終わり」のイントロ、アベさんのギターを聴いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなりました。
あのマシンガンギターがまた聴けたのですから。

同曲が抜粋された1999年は、RSRの記念すべき初回開催公演です。
ミッシェルも、彼らの代表作とも言われるアルバム『ギヤ・ブルーズ』の発売を控え(同公演では「ボイルド・オイル」などアルバム収録曲も演奏していました)、いちばんバンドとしてもノリに乗っていた時期だったように思います。

そんななかでも、まるで焼け焦げるように、生き急ぐように、
音源よりも異様に早いBPMで、突っ切るような演奏をするミッシェルの姿がとてもかっこよく美しく、どこか儚く見えました。

(アーティスト単位のアーカイブが、現在RSR公式チャンネルで公開されています!)

放送後、涙をふいて、もう少し寝ようと布団に入ってもしばらく寝付けなくて、Twitterを開きました。
すると、トレンドに「ミッシェル」「世界の終わり」の文字が。
そこにはわたしと同じように、早朝にも関わらず配信を観て、感動の余韻にひたっているだれかの姿が無数にありました。

活動当時からずっと、ミッシェルのファンを続けている人。
1999年RSRの、当時の観客のひとりだった人。
わたしと同じように、後追いでミッシェルを追いかけている人。
そして、この配信で初めてミッシェルを聴いた、わたしよりも歳下の人。

同じ時間に、同じように配信を観て、それぞれの感動をつぶやいている。
ひとりで観ているけれど、ひとりじゃない。
このことに、生のフェスとはまた違う一体感を強く感じました。

素敵な体験をありがとうライジングサン。いつか絶対行きます。

骨になってもハートは残るぜ!

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