風に吹かれても人は消えない
ときどき、『このままふっと風に吹かれるようにしてこの世界からいなくなることが出来たらいいのに』と思うことがある。
生きていたくない≠死にたい
僕が今特に生きていたいとは思っていないし、何なら過去を通してそんな風に感じたことがほとんどない、というのはこのnoteで何度か繰り返し書いてきたことではあるけれど、ただし、『別に生きていたくない』は『死にたい』とのイコールを意味しない。
それどころか、この二つの間には実際のところかなり距離がある。それこそ、『仕事が面倒』と『仕事を辞めたい』くらいの差だ。
朝起きて、『仕事に行くのが面倒だ』と感じる人は必ずしも出来るだけ早くの退職の準備を進めている、というわけではないだろう。それと同じことかもしれない。
僕の個人的な経験の範疇、そしてこれまでに書いたnoteに寄せられたコメントからして、意外とこういう『死にたいと生きていたくないの狭間』とでも呼ぶべきところで、それでも毎日を送っている人はこの世界に多いように思われる。
もちろんそこにはその人なりのストーリーがあって、背景も千差万別、ひとりひとり異なる理由があるのだろう。
ただ、僕の個人の内側の心の動きとして、別に生きていたくない、という気持ちがあるのは純然たる事実であるに関わらず、何故かもう人生30年目に突入してしまった、というのは冷静になってみると少し奇妙というか可笑しく感じられてしまったので、その理由を少し考えてみた。
自殺は色々と面倒
僕は10代後半~22,3歳くらいにかけて、かなりの鬱状態で、もう自分の人生に将来などない、絶対に自殺するのだ、という確信めいた想いを抱いていた。
確か、『23は素数だから、これを逃すと次は29まで待たないといけないから』という我ながら意味不明な理由で23歳までには死のう、と考えていた気がする。
しかし、23歳になっても僕は死ななかったどころか、もうこの間の1月で30歳になってしまった。
かつ、以前の自分の心の中の大部分を占めていた、噴出するような『僕は絶対に死ぬのだ』というような強い思いは遥か昔に消えてしまっている。昔すぎて、いつ頃から自殺を具体的な選択肢として考えなくなったかも、もう思い出せないくらいだ。
別に『やっぱり僕は生きるのだ!』『人生には価値がある!!死んではダメだ!!』と電撃の様に閃いたエウレカ的な瞬間が20代前半のどこかで存在したわけではない。
ただ、実際に死ぬにあたっての方法の選定や、遺体の処理、その後に残された家族の後の手続きの面倒さ、既に入っている予定や約束をどうするか、死ぬのでいけません、などと一言かけるべきなのか?などに気後れしてなんとなく気が乗らないまま延期を続けていたところ、ふと気づけば『もうわざわざ別に死ぬこともないのではないか?』という心理状態にまでなっていた、というだけのことだ。
余談だが、僕はイギリスに留学していた経験があるが、いわゆる"英語耳"というものにしても、似たような感じだった。半年などが経ってある日『英語が聞き取れる!!!』という瞬間が存在したわけではなく、単に日々を送っているうちに『あれ?そういえば昔は高速道路など音がうるさい場所では会話が聞こえなかったけど、最近は聞き取れるな?』ということに気づいたのだった。
父の死
ただ、その気持ちの変化の要因の一つとなった可能性がある出来事として、何年か前に父親が亡くなった時に自分の心をよぎった感情に関してはかなり良く覚えている。
この時父はまだ50を過ぎたばかりという年齢だったので、人生何が起こるかわからないとはいえ、日本人の平均的な寿命と照らし合わせれば死ぬにしては比較的まだ若い、という部類に入るだろう。
別に『亡くなった父の分まで生きなくては・・・!』と強い決意を固めた、とかそういったわけではないし、『神様がもしいるのだとしたら、まだ生きていたい人間の命を奪って、別に生きていたいと思っていない人を惰性で生かしておくなんて、ちょっとこの世界の運営をミスしているのではないのかなあ』と父の死に関してはぼんやりと思ったくらい(ただ、父が死んだ際に僕は泣いた。自分が生きていたくないのに、人が死ぬと泣きたくなるというのは一体どういうことだろう?とすごく不思議に思ったのを覚えている)だ。
だが、それよりも気になってしまったのは母親についてだった。
またしても、別に『一人になってしまった母親を自分は何とか支えていってあげなくては・・・!』と強い決意を固めた、というわけではなく、なんとなく『50で夫をなくして、加えて20代の息子も自殺したとなったら、一般的な人生の尺度に照らし合わせて考えると、母の人生は、これはかなりアンラッキーというか悲劇的なものになってしまうなあ』と感じたのだ。
母親とは別に普通に仲は良いし、一般的なレベルで家族として愛していると思うのだけれど、個人的な関係性というよりもむしろ、一般論的な意味で、僕の行為の結果として、この世界に一人のかなり標準よりもかなり不幸な人を生み出してしまうのはなんか違う気がするなあ、これはちょっと自ら死を選ぶわけにはいかないなあ、と思ったわけだ。
もちろんこれは物凄く強い感情というわけではないし、あくまで現時点では、という話なので、今後自分の気が変わる可能性は大いにある。
ただ、人がこういった生と死の間を(精神的な意味で)振り子のように彷徨いながら、結果として人生を通して生の側に留まり続ける、というのは意外とよくあるケースなのかもしれないな、というか、全力で前に進み続ける人や、後悔なく生きることを楽しめる人ばかりではなくて、割と多くの人にとって人生なんて結局それくらいのものなのかもしれないな、とは思った。
もちろん、生の側に留まり続けなかった人から話を聞く機会はほとんどないので、これがその逆を選んだ人からの意見も考慮した公平な見方だということはできないが。
生まれてこなかったことにしたいか?
自殺は色々と面倒で煩雑だし、あとに残された人たちのこともあるので、一旦選択肢から外そう、となった場合に、もう一つ僕が自分で自分に問いかけてみたいのが、では、もし生まれてこなかったことに出来るとしたら、そうしたいか?という問いだ。
これに関しては以前にもnoteで書いた。
まあ、当然ながら現実にはそんなボタンは存在しないので、仮に結論がそうしたい、だったとしても特にどうすることも出来ないのだが。
この記事の結末は、今の所はこのボタンを押したいとは言い切れない、みたいなふわっとした感じだったかと思うのだけれど、その姿勢としては基本的に今も変わっていない。
生きることに付随する色々な面倒で気が重くなるような事柄から解放され、かつ自殺が他人や世界に与える影響などを心配しなくても良い、という選択肢は非常に魅力的に映る。少なくとも僕の目には。
今後人生がもたらしてくれるかもしれない喜びやポジティブな点のようなものを手放すことに対しても抵抗はない。
ただし、過去に自分が行ったことを全て無に帰してしまうというのは若干の抵抗がある。
それは、自分が得てきた楽しみや幸福な思い出など、そういったもののせいではない。その辺りは喜んで手放す用意があるのだが、むしろ自分という人間がこれまで人生において他人や世界に与えてきた影響、そちらの方が気になってしまうのだ。
大体の場合、人間は生きていることで何かしら互いに影響を与え合って生きている。もちろんネガティブなかかわりもあるが、ポジティブなものだってあるだろう。
日々の仕事、あるいは特に何気ない人との会話の中で(もちろん、ほんの微細なものかもしれないし、簡単に代役は見つかるものかもしれないが)何らかの貢献はあるだろうし、人の気分を左右したり、何らかの発見を与えたりもしているに違いない。
(毎日人と会話なんてしない、という人もいるかもしれないが、人生において誰とも会話のやり取りをしたことがない、という人は流石に居ないだろう。)
少々傲慢かもしれないが、それは僕の人生においても例外ではないように思う。
もちろんプラスの影響もマイナスの影響もあるはずなので、人に与えた影響や貢献の総計がプラスになるのか?と聞かれれば自信をもってYESと答えることは出来ないが、少なくともプラスの要素がまったくのゼロということはないはずだ。
もちろんこれは別に僕に限った話ではなく、誰にだって言える。僕は子供が好きで、町で子供を見かけると少し嬉しい気分になるのだが、彼/彼女は街を歩いているだけでもう誰かにプラスの影響を与えていることになる。
さらに言えば、不謹慎かもしれないが、僕は人が生きている意味などないのではないか、死んでも良いかもしれない、のように話しているのを聞くと、ほんの少しだけ嬉しくなる。
別に人の不幸を喜んでいるわけではなくて、単に、そういう人に出会うと、おや、ここに仲間がいるぞ、と思えるからだ(僕が最初に死にたいという気持ちについて書いたnoteがあそこまで読まれるとは思っていなかったので、この世界には仲間が僕が思っていたよりもかなりたくさんいるようだな、と実際に思った)。
したがって、そういう意味では、これを読んでいるあなたがもし同じような気持ちを抱いているとしたら、それだけであなたは僕の感情に若干のポジティブな影響を恐らく与えている。
別に意図してはいないが、何かの風の吹き回しで人の人生にほんの少しかもしれないがポジティブな影響を与えている、というような似たような事象は子供や人生の意味を感じられない人に限らず、誰の人生にでも起きているのではないかと思う。
もし事あるごとに気取った言い回しで賢しげなコメントを挟むのが好きな人であれば(まるで僕みたいなやつだ)、『人生で他人に与えるネガティブな影響なんて避けられない、それは山菜のアクや苦みのようなものさ。それも含めて旨味みたいなものだから、そんなものは気にしなくていいんだよ』と一見深遠な意味を孕んでいるように見えるが何が言いたいのやらよくわからないコメントの一つや二つしてみるところだろう。
つまり、何が言いたいのかというと、もし僕の今までの人生の中で他人に与えた影響で、ほんのひとかけらでもポジティブなものがあったとしたら、それを自分が生きるのにあまり前向きでない、という僕の一存で無に帰してしまっていいものか、少々ためらってしまう、ということだ。
恐らく目の前に生まれてこなかったことに出来るボタンがあったとしたら、僕は恐らく何日間か悩みこんでしまうに違いない。
もしかすると、悩んだ末に結局推すことになる可能性もあるが、7年前の僕ならこのボタンを脊髄反射で押していたに違いないので、そのころと比べると大きな違いだ(そして僕はいまだにこれが歓迎すべき変化なのか、確信が持てずにいる)。
エッシャーのだまし絵のように生きる?
ただ、ここまで書いてきて一つ興味深いと思ったのが、僕は自身の幸福とか、そういったものではなく、どうやら自分の人生を世界や他人へ与えた影響という尺度で測っているようだが、もし他の人も同じように感じていたとしたらどうだろうか?という点だ。
もちろん、生きていて楽しい、人生には価値がある、と実感しながら生きている人も多いとは思うのだが、もしそうではなく、人ひとりひとりが誰かほかの人のために生きている、という状態だとしたら、それはお互いの存在理由をお互いに頼りあっているということになり、まるでエッシャーのだまし絵かの如く、絶対的な拠り所は存在せず、単に互いに円環的に生きる意味として依存しているということになる。
そういった意味で、結婚や家庭を持つことなど含めて、人と深くかかわるということは、例えばAさんに『Bさんが生きるのには私が必要だ、Bさんのためにも生きなくてはならない』という理由を与える一方でBさんは『私はAさんのために生きる必要がある』という風に思い合っている、という状況を生み出すことが出来る、という意味で非常によくできた談合というか、八百長というか、暗黙の合意とでもいうのか、人生の意味の創出システムだな、と皮肉ではなく、本当に思えてしまったりもする。
これについてはもう少し深く考えてみて、また違う場で掘り下げて書いてみたいと思うのだが、恐らく、今の所僕はこの円環に飛び込んでいきたい、という決断を下せていない。というか、飛び込んでいったところでこれを乱してしまい、結局不完全な歯車となって周りの人々の円環運動を乱してしまうのではないかと恐れている。
だからこそ、時々体にそよ風を受けながら、このままふっと風に吹かれて、何もなかったかのように消えてしまえたらいいのにな、などと夢想してしまったりするのだと思う。
ただし、当然ながら人は風に吹かれて消えたりなどしない。きっと、生きるべきか、生きざるべきか、という問いは風で吹き飛ばしてしまうには少し重たすぎるのだろう。