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生まれてこなかったことに出来るボタン

突然なのだけれど、あなたは『もし自分が生まれてこなかったことに出来るボタンが目の前にあったら押してしまうかも』と思う側の人間だろうか。

この問いかけの意味が分からない、と思った方も多いのではないかと思う。

以前書いたこの記事に思ったより多くいいねが付いていて、特に問題への明確な解決策のようなものが提示できなくとも、感じている気持ちを言葉にして共感できるだけでも少しは何かの役に立てるのかな、と思ったので再び鬱とか自殺とかそういったものをテーマに再び書いているのだけれど

"憂鬱のどん底に沈むというほどではなくとも、なんとなく生きている意味なんてないなあ、別に死んでもかまわないなあ"と感じたことがある人は恐らく思った以上にたくさんいるのだろう。

そして、もしそう考えた場合に、当然ながら唯一の脱出策が自殺ということになるのだけれど、実際に、ということになると、実はこれが意外と大変、という言い方が適切なのかわからないのだけれど、現実的なハードルがなかなか数多くあるのだ。

どんな方法だろうともある程度の物理的な苦痛が伴うだろうし、何らかの設備というか用具が必要となる。

一般家庭にロープなどないし、そもそもロープをかけるところがない。

ただ、そういった物理的なハードルよりもより大きく立ちはだかるのが人との関りだ。

そこまで仲良くない人であっても、知り合いが自殺なんてしたらなかなか精神的にダメージを受けるし、家族や友人ならなおさらだ。恐らく後片付けとか、その後のいろいろな諸々も大変なのだろう。知らないけど。

仮に、誰ともかかわりがなく一人ぼっちで暮らしていても、死んだら一番近い親戚か知り合いか、誰かしらに恐らく連絡がいくはずで、山にこもって一人で暮らしでもしていない限りはある程度の面倒を誰かにかけることは間違いない。

そう言ったことを考えると、自分の薄ぼんやりとした不安や虚無感を解決するために自殺という手段に打って出るのは、なんとなく収支が釣り合わないなーと感じてしまったりする。

そんな時の僕がいつもこんなものがあったらなー、と思うのが『生まれてこなかったことに出来るボタン』だ。

死にたいと毎日のように思いながら暮らしていたころにはそれこそ、その存在を切望していた。もちろん、どんなに切望したところでそんなものは存在しないのだけど。

もしボタンを押したら自分は最初から存在しなかったことに出来るとしたら?

僕には弟がいるのだけれど、最初から山中家は弟の一人っ子、という家庭になり、僕の周りで起きた二十何年分の出来事は全て起きなかったことになる。

僕は何も成し遂げなかったが、代わりに僕が居なくなって悲しむ人もいなくなる。

もしそんなボタンが存在するとしたら?

5年前の僕がそんなボタンを手にしていたら、安堵と共にいとも簡単に押していただろう。正直、今でもすぐ手元にあったらずっと押さずにいられるかどうかわからない。

恐らく、自分の人生が全くなかったことになる、というのは多くの人にとって人生が途中で終わってしまうことよりも悲しいことだろう。

自分が世界に残した影響はすべて消え、人を愛したことも愛されたことも、楽しい思い出も、すべてなくなる。それならまだ自殺の方がましだと思う人もいるかもしれない。

だけど、これを読んでいる人の中にはそんなボタンがあったら押したいなーと思っている人もいるのではないだろうか。

当時の僕は『生まれてきたことだけは自分の選択ではない』と非常に強く思っていたのを覚えている。

自分の人生、自分の選択や行為に責任を持つのは確かに当然だ。

しかし、自分の人生の中で唯一自分の選択ではない行為があって、それが一番最初、生まれてくるということだ。

それ以降は自分が何をするかを選び取って自分の人生を生きてきたわけだけれど、僕は生まれる前に『よーし、人生というのは楽しそうだから生まれることにしよう!』と思って誕生することを選択した記憶はない。

誰も頼んでいないのに理不尽な場所に放り込まれたものだ、とずっと感じていた。

それなのに、この世界から逃げ出そうとすれば、否が応でもいろいろな人に迷惑をかけることになってしまう。

だからこそ、その自分が望んでした選択ではない誕生というものをなかったことに出来るボタンが本当に欲しいと思った。

というかここまで、こういう風に感じる人が一定数いるだろう、という前提で書いてきてしまったけれど、実際のところどうなのだろう。これは奇妙な考え方なのだろうか。

他にも多く同じように感じている人がいたら安心するような気はするけれど、ありふれた考え方だとしたらそれはそれで少しがっかりするような、複雑な気持ちだ。

ただ、それで思い出したのだけれど、以前このような話をしたら、わかる、私も明日隕石が降ってきて地球が終わったとしても全く悲しくはないな、と言っていた友人がいるのだけれど、彼女は国立大を卒業、いわゆる日系の大手企業に勤めて、今ではもう結婚もして、傍から見ると順風満帆にしか見えない人生を送っている。

僕はその子は根底では同じような虚無感のようなものを感じていたに違いないと思っているのだけれど、それと並立してなにも問題なく普通に生活している人もいれば、自分の中に抱える孤独と虚無に食い尽くされそうになってしまう人もいる。

この違いは何なのだろうか、と時々考えるし、それはある種興味深くもある。恐らく僕はその中間くらいに位置している。

まあとはいえ、どんなに願ったところで生まれてこなかったことに出来るボタンなんてものはこの世に存在しない。

そして、当分の所は自ら進んで死を選ぶような予定もないし、その気力も動機もない。

だからこれからもきっと自殺以上生まれてこなかったことに出来るボタン未満?くらいをふわふわとながれていくのだろう。


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