【マイ・ミニマリズム〜第6断】三島由紀夫「天人五衰」とミニマリズムの発芽
三島由紀夫最後の小説「天人五衰」のラストシーン
4部作『豊饒の海』の最終巻『天人五衰』のラストシーンは、三島由紀夫の美学と思想が結晶した虚無と幻影の幕引きである。
本多繁邦が辿り着いたその瞬間、長きにわたって追い続けた輪廻転生の真実は、あたかも蜃気楼のように虚空に消え去ってしまう。
本多の目の前に立ちはだかるのは、ただの空白、無限に続く無意味な反復であり、存在そのものが儚い幻影に過ぎないことを突きつけられる。
彼が信じた真理は、幾重にも折り重なった夢の泡のように触れた途端に弾け、形も残さず消え去ってゆく。
そこで本多は悟るのだ——人生とは、ひたすら虚無を抱きしめる旅であり、我々が足跡を残したと思う砂浜もまた次の波に洗われて消え去る、無常の海の浜辺に過ぎないことを。……
こうして、本多が辿り着いた結末は、彼が一生をかけて追求してきたものがただの夢幻であり、壮大な戯れに過ぎなかったという冷厳なる真実である。
この結末は三島が「豊饒の海」四部作で描きたかったのかどうか真実は不明だ。(構想ノートでは真逆の展開になっている)
とはいえ、読者に深い虚無感とともに人生の真実とは何かという問いを突きつけるのである。
この虚無の感覚は、やがて私をニヒリズム、そしてミニマリズムへと導く契機となった。
虚構の崩壊の末に待ち受けていたニヒリズム
すべてが消え去り、無に帰するのであれば、執着すること、物を持つことそのものが不毛であり、人の心を縛る重荷ではないか、と私はしばしば考えるようになり、それは東洋思想や仏教哲学を学ぶに従って私の中で大きく膨れ上がっていった。
ミニマリズムは単なる物質的な削減ではなく、存在そのものを精査し過剰なものを一切廃して本質を求めるための道であった。
「本来無一物」とは、執着を断ち切り、無の中に己の真の姿を見出す試みそのものではないか。
この無への帰依こそが混沌とした現代における救いの道と感じられた。
だが、この無を抱きしめる覚悟と共に、思い浮かんだのは三島由紀夫の自決の瞬間である。
彼は、自らが築き上げた美学の究極の帰結として、肉体を断ち切ることで「無」に達しようとした。
武士道精神と一体化した行動であり、時代に逆行するとも思える彼の死には、虚無を生き抜くことの限界を超えた壮絶な意志があったように思える。
三島はこの世の虚構を見抜き、それを美学として昇華するだけでは満足できなかったのだろう。
彼にとって最後に辿り着くべき「無」は、文字通りの肉体の消滅によってのみ到達できるものであった。
この一連の悟りと行動を前にすると、私のミニマリズムもまた自らが生き残るための妥協であることを痛感する。
三島が命をもって貫いた信念に比して、私の「持たざる生き方」は穏健であり、ある意味では理性的な脱却でしかない。
しかし、それでもなお私にとってこのミニマリズムとは、三島が捧げたものとは異なるかもしれないが、彼の示した虚無の先に何か豊かな空白を感じさせるものである。
ニヒリズムを克服するためのミニマリズム
つまり、ニヒリズムを克服するためのミニマリズムとは、人生の虚無を見つめ、その無意味の深淵を凝視したうえでなお生きるための「最小限」を選び抜く生き様である。
ありふれた事物に価値を見出せず、世俗の基準がもはや輝きを失ったとき、人はしばしば「意味」を求めて何かを追い求め、物質や名声の無限の追走に身を投じようとする。
しかし、それらは本質から離れた仮初めに過ぎず、充実を求めて増やしたものは結局さらなる空虚を増幅するにすぎない。
そこで、ミニマリズムは一切の贅を捨て、「ただ生きる」ことの根源に立ち返る術となる。
それは、余分をそぎ落とし、自己が生きる基盤として選び抜かれたもののみを手元に残し、無音の中に潜むささやかな生命の震えを感じ取ることである。
禅の「本来無一物」を思わせるこの道は、あらゆる執着を捨て去り、見えざる豊かさを抱きしめることを意味する。
このミニマリズムの静謐な潔さにおいて、私たちは虚無の底に佇むことを恐れることなく、むしろその「無」を生活の美とする。
真の生きる充足とは、持たざること、減じることの中にこそ潜んでいる。
ニヒリズムを超え、日常の些事にすら潜む一瞬のきらめきを見出すこと、これこそが無意味に抗する静かな反抗の姿勢なのである。