1+1=2と答えるべからず
1+1=2
である。これには即答できる。
しかしながら、
”1+1=2と答えるべきなのだろうか?”
という問いに答えるためには、少し時間をかけたいと思う。
世界には法則というものがある。論理的整合性と呼び替えても良いかもしれない。
これを、こうすれば、こうなりますよね。
だから、こうすれば良いんです。
それを実行できる人が「すごい人」なんです。
こういった不文律が、私たちの生活には溢れている気がする。
しかし、この前提はどこから来たのだろうか?
すなわち、論理的整合性が、「善」であるかのような思い込みはどこから来たのだろうか?
それは、学校で百ます計算などをし、ただ機械的に、数学的法則に則って正解を出すという作業を繰り返す日常が作り出したものなのだろうか。
それとも、科学万能主義と資本主義とが融合する際に生じた衝撃波にさらされ続けたことが原因だろうか。
その真理を定かにする能力は筆者には無い。しかしながら、現実問題、私達は、1+1=?と聞かれたときに、「2」と答えることに必死になっている気がする。
そして、自分よりも先に「2」と答えた人がいると、その人を崇め、付き従い、慌てて自分の解答欄にも「2」と書き込むのである。
自分だけは間違えないようにするのである。
しかし、ここには問題があるように思う。
すなわち、回答しようとするのではなく、間違えないようにしようとして生きることには、危険性があるように感じる。
1+1=2。
確かに、こう答えれば、間違いなく○がもらえる。
社会の中で波風を立てること無く暮らすことができる。
しかしながら、波風を立てることがないということは、何も生み出さないということの裏返しである。
北風がバイキングを作ったように、波風の立つところにこそ、新たなものは生まれるものである。
そしてそのように新たなものが絶えず生まれ続け、多様性が確保されていることが、人間を含めた全ての生物が今日まで生きながらえられた要因である。
そして、これは生物全体というレベルにおいてだけではなく、一人一人の人間についても同じことが言えるのではないだろうか。
私という個人の中に、多様な考え方や解法、それらから導かれる様々な答えがあればこそ、絶えず変化し予測不能である人生を、不安無く、幸せを減じること無く乗り切ることができるのではないだろうか。
このように考える筆者は、生活の中で実践していることがある。
それは、
1+1=?
という問いに対して、わざと「2」以外で答えてみるということである。(意図的に逆説を用いる、と言い換えても良い。)
1+1=2
と分かっているからこそ、”あえて”
1+1=1、1+1=2.5、1+1=100000、1+1=猫、...
などと答えてみるのである。
これは一見狂人の発想のようだが、人に見せなければ何の問題もない。
あくまでも心のなかで一度考えてみるのである。
そして、そのように考えると、今度は脳が勝手にその理由を探し始める。(なぜなら、人間の脳が最も得意なことは、自己正当化だからである。これは、矛盾と妥協に満ち満ちているにも関わらず、なんだかんだ幸せな日常を送る人間が多いことからも分かるだろう。)
なぜ自分は「1+1=猫」と答えたのだろうか?
そこにはどんな正当な理由があるのだろうか?と自動的に考え始める機能が我々の脳には備わっているのだ。
そして、このようにして思考の水面に立った波風の中にこそ、思想上のバイキングが誕生する余地は発生する。
換言するならば、「1+1=猫」と答えた瞬間、脳内には「違和感」という名の突風が吹き抜ける。この風は、「試行錯誤」という名の帆を膨らませ、帆船「自分丸」に推進力を与える。
動力を得たこの船は「一般解」という名の入り江から脱出し、無限の可能性の広がる大海原へと旅立つことができるのである。
そして、その大海原こそが、本来この帆船が航行することを想定された場所であり、その潜在能力を余すこと無く発揮することができる場所なのだ。
(これは、太古の人間の暮らしぶりを鑑みれば、納得できるのではないだろうか。文字すら発明されていなかったその当時、遠くの賢者に回答を求めるすべなど持たない我々の祖先は、自らの手で自然の中で生き抜く方法を模索していたのだから。)
そして、この大海原には多様性がある。
その潮騒の下には入り江には見られなかった様々な生き物(今までに知らなかった概念やアイデア)がおり、そこに浮かぶ島々にはそれら多様な生物を利用して生きるための様々な生活様式(考え方)がある。
ここで私が使っている多様性という言葉は「自由」という言葉と同義である。
そして、ここでいう「自由」とは、今私達が生きている社会や時代からの自由であり、そこに流れる思想や価値観からの自由である。
なぜなら、思想上の多様な選択肢は、特定の時代と地域に生まれ育ったことによって、私達が意図せずに束縛されることになってしまった様々な前提条件から逃れることを可能にするからである。
この大海原に進出することによって、私達はただ与えられた回答をなぞることを止め、様々な前提条件から解放された状態で、私達自身として、人生を歩むことができるようになる。
そうすれば、人口に膾炙した言説に不安を煽られることもなくなれば、本来は不必要な権威を求めて高額な商品を買わされるというようなこともなくなる。
そしてこの、あらゆる問いに対する「回答の多様性」と、そこから生まれる「思想の選択の自由」こそが、現代社会に生きる我々の幸せの本質なのではないだろうか。
そして同時に、これからも千変万化していくであろう社会の中で幸せでありつづけるために必要不可欠な要素なのではないだろうか。
つまり、私という個人にとっての、「1+1=?」の答えを作り出そうとする努力が、そっくりそのまま、幸せを作り出そうとする努力になりはしないだろうかと考えるのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!