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高速道路 120 km/h、30 km/hでときに走りたい


高校時代、自分はとんでもない強迫観念で潰されかかっていた。毎日決まった時間に登校時間がやってきて、学校で日中を過ごし、放課後家へ帰って団欒のひとときを送るその間に、また来る翌日の登校時間に怯える日々だった。決まった曜日に決まった教科の授業を受け、ルーティン化したタスクに向き合っていく。

とりわけ、高3時分にはセンター試験対策の模擬試験が日々立て続けにあるような学校だったから、そのルーティン性は余計に強かった。各設問ごとにシステマチックに配点がなされ、一つ一つのミスが合否の判断に響いてくる。いかに効率的にタスクをこなせるかが、心理的にも求められる生活の毎日だった。


ある時、「学校から帰っても、また12時間足らず経てば、登校しないといけない」という気分に陥りはじめる。そのうち、翌日の登校時間をタイムリミットにし、放課後以降の時間を刻むようなマインドになってしまった。

「翌朝自宅を出発するまで、あと10時間」。テレビを観ていてくつろいでいるはずでも、「あと8時間」。まるで、人類滅亡までのタイムリミットをカウントしているみたいじゃないか。


気持ちに余裕が無かった。そのぶん、会社帰りに居酒屋で一杯し、明日への活力へと出来るおじさんを、凄いなと思えた。あんな束の間の休息でいとも簡単に(心奥はそうじゃ無いのかもしれないけれど)務めに復帰できる人のマインドセットとは、自分は程遠かった。しんどい(ハズの)ウィークデーの中にたびたび訪れる、束の間の休息を楽しむ彼らは、その数時間後に訪れる再びのお務めをどう捉えていたのだろう。

そんな先のことを考えているから、合間合間の休息を楽しめないんだと、突っ込まれそうだ。けれどもそう思えてくるのだ。仕方ない。数時間先の未来が見え隠れするから、どうしても悲壮な気持ちになる。オンとオフが下手くそなんだと言われれば、この議論は身も蓋もない。働き方改革などと言われるご時世だ。人それぞれのマインドセットが多様でいられる在り方を、話させてほしい。


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つくづく自分は、直近の未来のタスクをちらつかされて生活するのが、嫌なんだろう。高校時代、いや、小学生時代だったか。その頃から、会社へ決まった時間に行き、決まった時間に帰宅するサイクルの生き方に、漠然とした恐ろしさを感じていた。この生き方が合う人は世の中に一定数いるのだろう。けれど、延々と続くコンスタントなものへの恐怖が、自分にはある。

喩えるなら理想は、高速道路をときに120 km/hで走ったかと思えば、30 km/hで走るような、そういう生き方だ。大学生活など、自由の利きやすい生活を送る中で辿り着いた、自己分析だ。

もちろん高速道路を、そんなにムラだらけのペース配分で走ったら、警察が追いかけてくる。高速自動車国道(当記事ではこれを高速道路)は指定がない場合、上は100 km/h、底でも50 km/hは出さなければならない。なお、平均旅行速度は約79 km/h(*1)だそうで、みな80 km/hくらいで順序よく流れていっているのだ。そこを30で走ったり、120で走ったりするクルマがあっては迷惑だ。

高速道路は、皆が80 km/hで走っていれば、自分も80 km/hで走らなければならない。が、人生のスピードはどっちの走り方でも良いのではないか。80 km/hで無理なく走り続けられる人はそれでいいが、自分のようなターボモード搭載型人間の存在も許容されて欲しい。たとえば、名古屋から東名高速に乗ったところを想像する。特に心惹かれない山あいのポイントを120で駆け抜け、富士山が見えるポイントに差し掛かれば、30くらいで走る。それと同じように生きる方が、向いている人もいるだろうに。


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ずっと80 km/hで、富士山の前も、よく知らない藪の茂る横も駆け抜けていく人生。自分はぞわぞわっとした恐怖感を感じる。この先も80キロ。このまた先も80キロ。止めてはならぬ。止まれば死だ。お前だけじゃない。周りも殺しかねない。なに⁉︎ 3、40キロに緩めたい? バカ言え‼︎ 目的地に向かって、恐ろしくても引き返したくても80キロで走れ! 80キロの無限ラリーだ‼︎


ここで現実の話を少し挟むと、自分は実際に、高速での運転が苦手でたまらない。というか、教習で乗って以来ご無沙汰だ。たかだか6kmの道程だったが、とちゅう何度、急ブレーキを踏んで止まりたいと思ったことか。一定かつ高速で走っていると、なんというか胸の奥からゾワッと、いつまでこの感じをキープしていなければならないんだとの感情と共に、恐ろしさが込み上げてくる。初心者だから、ではない。生来、自動かつ高速で動き、さらに自分のコントロールに命が懸かる類のものが、好きではない。ブランコも苦手だし、スキーで隊列を組んで滑るのも、一回だけでいいやとなった。


話を戻す。いずれにせよ、人生のゴールという名の東京に着けるなら、80 km/hでなくてもいいじゃないか。120で突っ走ったかと思えば、30で鈍足になるような走りでもいいじゃないか。ところが、80で生きられる人からすれば、30で走っている人は遅いし、そいつが同僚・同朋なら迷惑に思う。だから、こちらの流儀として、80軍団に介することなく生きるよう努める(とはいえ120 km/hはもちろん、犯罪。さしづめ、犯罪級にぶっ壊れそうなくらいシャニムニ働くといったところか)。

多分、理解し難い人にはほんとうに難しいのだろうが、30で走っている生き方の人を見ても、「何をボヤボヤしてるの!」などと難詰するのはやめてほしい。第一、東名高速から国道1号線のクルマに文句をつけているようなものだから。

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昨今、年功序列制の牙城も、大手企業でさえ少しずつ崩壊を見せつつある。コロナ禍のもと期せずして、社会は労働スタイルの柔軟な発想をどんどん育みつつある。40年、80 km/hで走り続けるのが不自然な人間もいるということを、いまこそ告白するべきだろう。

もっとも、こんな調子の良いことばかりも言っていられない。仮に、今が30 km/hでゆっくり走っている時期だとして、いきなり120 km/hにスピードアップ出来るかというと、そうではない。また、この話をなまじっか正直に受け止めて30 km/hでしか走り続けず、「明日からやるよ」を口癖にする人も考えものだ。午後9時東京着を予定していて、自分の限界が、100 km/h出せばガタガタいいはじめる軽自動車だったことに、7時の浜松にて気付くなんてこともある。

とはいえ、日本では経歴にブランクがあると世間の見る目が厳しいと言われ、“80キロ人間”以外は許容されにくい節がある。30 km/hは停止なのか。いや、120で東京まで走りきるために、富士山を心からゆっくり楽しんでいるのさ、という言い分もあるはずではないか。意味のある30 km/hならば、それもアリじゃないか。0 km/hじゃないのだから。


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高速道路でそうしたメチャクチャな走りをしていたいと思うなら、国会議員へ訴えて道交法を書き変えるように運び、ロビー活動の根回しもしないといけない。実に途轍もない。同様に、即座に80キロ人間に、ターボ人間の気持ちがわかってもらえるよう、社会の構造を法的制度的なところから変えることも、難しい。

けれども、こうして記事にしたためないと、80キロ人間には一向に伝わらないし、潜在的にモヤモヤしながら生きているターボ人間の苦しみも、延々と続く。万人が発信できる便利な時代ならではの道具を使って、どうしても書いておきたい気分になった。

ちょうど、高速道路のいい喩えが思いついたというのもあるけれど……。


出典(*1) 高速道路の利用状況 国土交通省


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