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【惜しい風景】デントー的ケーカンを問う

惜しい風景」とは、「万人に素晴らしいとされる風景の中に、人間生活に必要な構造物が立っており、その構造物を風景の観賞者が取り除きたいと思ってしまう風景」と定義する。「また、それら構造物はアンテナや住居のように、平時は我々の暮らしを支えるものであって、観賞者の勝手都合のいい思惑と日常におけるそれらの恩恵の度合いとの隔たりが大きいほど、当該風景に分類される。したがって企業や商店の看板のような、設置による受益者が限定的なものは、当該風景の構造物にあたらない。

(初回note「【惜しい風景】 シリーズ化決定! 」より)




雪の三条を求めて行ったが…

2020年12月中旬のこと、京都市内でも雪が降り積った。この時期の雪は久々だ。おかげで名残の紅葉と白い雪の、鮮やかな組合せを拝めた。この滅多とない日に撮った風景写真の一枚にも、「惜しい風景」が見つかった。


5時にセットした目覚ましが仕事をするより先に、自分のワクワク感がその日は勝って、4時50分には身支度まで済ませていた。窓から外の様子をチラチラ伺う。真夜中の雪は日の明けぬうちにやんだ。自転車に乗れそうなくらいの空模様だった。自転車を漕ぎ漕ぎ、川端三条の家屋群が望める場所へ向かった。

鴨川と並行して市内の南北に延びる川端通りの歩道から、川の対岸にゴテゴテと立ち並ぶ家々の屋根屋根に白白と雪が積もっていた。空の青は赤紫の散乱光と時々刻々と移ろい続け、混ざり合い、川面にシャープに色を落とす。

この瞬間を切り取り、持って帰りたい。手早くカメラをセットし、構図を作った…………が、









あああああ!

家家は綿帽子を被って、あさぼらけの夢幻の光に染まる紅葉が彩りを添えるこの風景に! どうして後ろの雑居ビルがあるのだろう!
川面をご覧なさい! 手前の家家が水鏡に映るのではなく、木屋町通の雑居ビル群が映ってしまう!

アングルに工夫を凝らし、それらを隠してみる。ところが、いくらカメラを高く掲げてもビルは映ってしまう。逆にローアングルに変えれば、映るビルはぐんぐん伸びあがる。余計、全体像が映ってしまう。紅葉もちょうどいい位置に持っていきたいと欲張ると、構図内にどこか綻びが出てくる。

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「惜しい」まま放ったらかしなのか

京都と景観は、「切っても切り離せない」という表現では物足りないくらいの関係だ。その京都にあって、なんの景観規制もなされていないのか、とさえ思えてしまった。

あまりに腑に落ちないので調べてみると、「京都府鴨川条例」なるものを見つけた(「京都府ウェブサイト」より)。

引用したサイト中の、「鴨川環境保全区域内審査基準」を参照すると、川に面する工作物は厳しく対処されるらしいが、面さないものは考慮されないらしい。

そして驚くことに、2007年の新景観政策の導入によって、木屋町通の建物の高さ制限はむしろ引き下げられている。大澤氏の整理した情報によれば、木屋町の建物は以前の31mから、12あるいは15mまでしか積めなくなった(*1:p200,表Ⅴ−3)。おまけに「鴨川東岸からの眺めとの調和」を図ったというのだから、呆れたものだ。

新たに建てられるもの以外でも問題がある。たとえば、新景観政策以前に建てられた建物が新基準に見合わなくなってしまう、「既存不適格建築物」のケースだ。近藤氏が2013年に報告した現状調査では、川沿いに塔屋の飛び出た建物が多かったらしい(*2)。各所の利害関係もあってか、処理はなかなか行われていない様子でいる。

川面に映る景観まで考慮は及ばず、ましてや突起物が映っている程度なら、ということだろうか。多種多様な“見られ方”を予想した景観設計に、現状は程遠い。写真家的に、とても「惜しい風景」である…………。



「惜しい」と思うのは身勝手か


そう。

写真家的には確かに「惜しい風景」だが、これは写真家のエゴでしかなく、こうした考えが風景警察の一方的な取り締まりの横暴にもなりかねない。「電線電柱は害悪だ!」一辺倒の意見と変わりない。その高い建物のおかげで、京都の経済活動に恩恵があるかもしれないではないか。実は、その飛び出た数メートルの中に、テナントオフィスがあるかもしれないではないか。

見る側のエゴであれが汚い、これが汚いと好き放題言うのも、どうかと思う。経済活動のために、統制のある風景の雰囲気をいくら引っ掻き回してもいいわけではない。けれども、見るためだけに、街並みが存在しているわけでもない。「惜しい風景」という言葉にも、各所の都合が絡んでいる。


町屋群の背後に雑居ビルが伸び上がる光景に、どこかサイバーパンクのファンタジーに通じた魅力を感じることだって出来る。先にあげた写真を撮る前に、次のような写真も撮っておいた。

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異なる性格の建物が並存する、都市のダイナミズム。混沌と多様なビルディングがあるのではなく、雛壇のように並び立っている。襲ってくるようだ。


江戸時代あたりの、低い木造建築が立ち並ぶ様子をイメージして京都の街並みを見るから、「ゴチャゴチャ」したマイナス部分が目についてしまうのだ。近現代にかたち作られた、高度経済成長期的サイバーパンクの美があると思って見れば、案外面白い風景だ。

街は時代に応じて変わっていくはずで、三者三様の「伝統的景観」というものに縛られ続けて風景警察をして回るのも、いかがなものかと思う。



伝統的景観という考え方に疑問


ただ、伝統的景観には、ある特徴が共通しているように思う。昔ながらの農業風景を見ていて感じたことだが、いずれも手仕事の様子が具体的に見て取れ、傍目に何をしているかがわかりやすいのだ。

刈取・脱穀が一度に出来る、大きな魔法の箱のようなコンバインが農地を行ったり来たりするよりも、人間が鎌を手に収穫している様子のほうが、原始的かつ直感的な理解に容易い。時間と労力はかかるが、そうした風景に魅力を抱く人は多いだろう。

建物でも同じで、人の手仕事が想像しづらい茫漠としたコンクリートの巨大な直方体のビルよりも、大工仕事で建てられ、職人が屋根を葺いた建造物のほうが、直感的に認識できる。あまりにも人間の手仕事が抽象化された外観・造形だと、その建物を認識するというより、巨大な街のワンブロックとしてしか捉えられない。

伝統的景観の保存を考える際に、どの時代を基準とするかというのは論点になるが、保存団体の恣意的な見解を、世間に押し付けることにも繋がりかねない。どの時代にも普遍的な「良き景観」づくりには、その景観から人の営みが想像しやすいか否かを基準としていく必要があると思う。


まとめ

「惜しい風景」も、ある人に限っては「惜しい」わけで、他はそうではないかもしれない。かえって時代的統一感を問うよりも、誰がどのように暮らしているかという、人間の息づかいが感じづらい街並みが溢れたほうが、精神衛生上の豊かさが欠乏しそうだ。また、統一性はときに非人間性さえも生みかねない。農作業の例のように、面倒臭さがデメリットにある一方、人間的風景を保存することが大事で、利便性との折り合いをどうつけるかを話し合うべきだろう。


*1)大澤昭彦. (2010). 京都市における高度地区を用いた絶対高さ制限の変遷‐1970 年当初決定から 2007 年新景観政策による高さ規制の再構築まで. 土地総合研究, 18(3), p181-210. http://www.lij.jp/html/jli/jli_2010/2010summer_p181.pdf
*2)近藤暁夫. (2013). 新景観政策導入後の京都市における既存不適格建築物―都心の高さ制限強化地区を中心に―. 人文地理, 65(5), 418-433. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg/65/5/65_418/_pdf




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