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「勧酒」を聞いて早ウン年 あれからどうしてますか


この杯を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

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高校最後の古典の授業

 そう称して、卒業式にハナムケの言葉を送られた、我が担任の古典教師。井伏鱒二が口語で解した、唐の于武陵の「勧酒」。まだ飲めない我々に、この言葉を送られたのは、再び会えるのを祈られてのことだと、思えてやまない。

 十年ひと昔というならば、もう半昔以上は経ってしまった。小まめには、当時の同級生と連絡をとっていない。気になる人はいっぱいいる。けれども、訊ねるきっかけもない。突然こちらが連絡したら、むこうは驚くよりも訝しがるだろうね。

 何故ならあのころの自分は、学校でほとんど、「自分」を出さなかった。周りの空気に合わせている、というよりも「空気になる」ことに徹していた。ただ出席して、授業を受けて、それとなく周りと雰囲気を合わせ、放課後になればまっ先に帰る。
 そんなヤツが便りをよこしてくるんだから、「高い壺か儲け話」を売り込まれるに違いない。だって何も「自分の言葉」で喋らないし、何を考えてるかわからないから。そう思われても仕方ないね。

 個人的なことを言うとね、ただ、大勢の人間がいる中で交流するのが、好きじゃなかっただけ。どういう振る舞いをしていいかわかんなかったから。同級の大勢いる中の何人かに自分の素を出すよりも、少数人でじっくり考えを話すほうが好きだった。ところが、気になる同級生がいても、他の誰かとつるんでいるところに入る、勇気も気力もあまり無かった。

 はたから見れば、自分は何を考えていたか分からない、掴み所のなさそうな人に映っただろうけど、人間社会の仕組みとか政治とか、高校生なりに行き帰りの電車で考えていたんだ。ひとりで。


 身近な組織や集団のなかでしか、人は生きられないと思っていたあのころ。と同時に、それなら「自分」を話そうよ、と言い聞かせて、積極的に出ていくことも出来なかった。どうやって生きていくつもりかなんて、考えてやいなかったし。
 あれよあれよと言う間に、集団内にいなくても、遠くの人の考えを窺い知ることの出来る社会になった。「おひとりさま」でも、まあ生きていけるようになった。けれども、そんな人間でも思うところ、考えるところは募るばかり。やっぱり今こそ話したい。


 呑めるこの歳だからこそ、改めてほんとうの自分を知ってほしい。酒はどういうわけか、“しっとり”と話せる時間を作ってくれる。人がごちゃごちゃ入り交じる場所じゃなくって、お互いの考えがちゃんと分かる落ち着いた場所で。

「ジブン、あの高校のとき、どんなこと考えてたん?」って、こっちも訊きたいからさ。


かつてはさよなら した友の
互いのつゆも 知らぬこと
酒を頼りに もう一度
膝突き合わせ 話そうぞ
零れんばかり 溢れんばかりの
記憶と想いを 酒がよぶ
また会う楽しみ これも人生


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