【読書日記】コーカー『戦争はなくせるか』
クリストファー・コーカー著,奥山真司訳(2022):『戦争はなくせるか?』勁草書房,142p.,2,000円.
新刊で読んで,地理学に関係する書物は,なるべく地理学学会の学術誌に書評を投稿しようと思っていて,本書も検討している一冊。そういう場合には,基本的にこちらのブログで先に公表したものを投稿しないようにはしているが,本書に関してはどうしようか迷いつつ,とりあえず書いています。
読んでいる間は,学ぶことも多く,議論としては地理学との関連性は薄いけど,地政学に関する章があるということで,投稿は不可能ではないかと。しかし,こうして目次を打ち込んでいても,なかなか内容を詳細に思い出せないので,書評を投稿するには読み直さないとダメかな(普通は学術雑誌に書評を書くという場合は何度か読み直すのだろうけど),という感じで,今のところはブログにしておく(ボイコフ『オリンピック反対する側の論理』もそんなことをいって投稿しなかったな)。
さて,なぜ本書を読もうと思ったかというと,ここ最近日本政府が防衛費の増額を言いだしたから。ロシアによるウクライナ侵攻に乗じて,ここのところの米中対立が台湾をめぐって戦争になるという可能性をちらつかせながら,日本国民をあおっているこの事態にどう対処したらよいのかを考えています。本当は早くクラウゼヴィッツの『戦争論』を読みたいのだけど,比較的手軽な本書を見つけたので,読んでおこうと思った次第。なお,訳者の奥山真司さんの文章はあまり読んでいないのですが,最近日本でも地政学ブームが続いていますが,その火付け役といってもいい人物だと思っている。本人がどうかはよく分かりませんが,日本で「地政学研究者」を名乗れるのは彼ぐらいかなと密かに思っている。そして,ジェラルド・トールの「批判地政学」,コーリン・フリント『現代地政学』の訳を一部担当し,丸善出版の『現代地政学事典』も数項目執筆している私は,基本的に「批判地政学」に依拠している。日本の地政学本のほとんどは批判地政学への言及もありませんが,奥山真司さんは批判地政学の存在をよく知りながら,一方でそれを批判し,古典地政学を擁護する(?)という立場。そういう意味では,批判地政学の立場から彼の仕事をきちんと批判しなくてはいけないのですが,読むところもまだできていない状態。
端的にいうと,奥山さんの仕事を無視し続けてきたのですが,本書は第4章に「新たな地政学的思考」という節があり,批判地政学が登場します。しかも,批判的にではないので,読んでみる価値があるかなと思った次第。しかも,戦争論ということで。
プロローグ
第1章 進化論
遍在性/多様性/複雑性
第2章 文化
戦争は観念ではない/文化的な強化剤/平等になるために死を選ぶ
第3章 テクノロジー
専門化/「近視眼的な低俗さ」/代数学による戦争/戦争は小さくなるのか?
第4章 地政学
国家,市場,国際秩序/新たな地政学的思考/空間の多様性/大国同士の戦争は?
第5章 平和
カントの断言/議論される概念としての「平和」
第6章 人道
おどけた怪物たち/人類の苦境/自由意思の進化
私はいまだにこの世界で戦争をしていることの意味が分からない。日本は地震の多い国だが,地震に限らず,自然災害全般は人の命を奪い,人間が築き上げてきたものを壊していく。災害にあった土地を復興させるということは非常に時間がかかることであり,お金と労力がかかる。もちろん,災害においてもそれに伴う人災もつきまとってしまうのは世の常であるが,自然災害自体は誰の責任にもできないものである。戦争は同じことを100%人災として行うのだ。災害に場合に人々は仕方がなく,打ちひしがれている心と体に鞭打って復興に尽力するわけだが,そんな本来しなくてもいい苦労を人々に強いるのが戦争だ。戦争についてきちんと考えてみたいと思いつつも,確かに,戦争が絶え間なくあることによって巨大な軍事産業が儲かるというのはよく分かる。家電製品なんてものは毎日毎日多くの人が使ってくれるために,作れば基本的には絶え間なく売れ続けるわけだが,軍事兵器はもちろんメンテナンスという意味で絶え間ない訓練が行われているが,やはり実践がないとその新兵器の実力も確認できない。でも,なんだかんだいっても根本的には無用の長物。人類に戦争がなかった時代はないなんていうけど,衣食住とは違って必要不可欠なものではない。そういうものに,頭脳の労力と有限な時間を割くのはもったいないとここまできた次第。
第1章の「進化論」という表現は,例えば若林芳樹『地図の進化論』のような,特定の事象の歴史的発達に対して用いられる比喩表現ではない。ある意味で戦争のような同じ種で殺し合うようなことをするのは人類だけであるという意味において,動物の進化の結果として獲得した戦争という意味が一つある。それ以降はある意味での比喩表現だが,人間社会が現代に向かって変化するにしたがって,戦争のあり方も変わってきているという意味での進化である。そして,生物学的な意味において人類の戦争の意義を解釈についても論じている。エドワード・O・ウィルソンの説を紹介し,戦争の進化は自然触媒反応であり,いってしまえば人類から戦争をなくすことはできないという。「ホッブスが,戦争な人間の条件の中心的な存在であり,その原因である競争心,自信喪失(恐怖),栄光(名誉)こそが人間を人間たらしめている,と言ったのは全く正しい。」(p.12)という。そして,戦争の進化は,言語と同様に多様な形でなされ,世界中で戦争には多様性があるという。それが故に,地球上のさまざまな事象がそうであるように,戦争も複雑性を有している。
第2章の冒頭は,節のタイトル通り「戦争は観念ではない」といい,一例としてジョン・ミューラーという作家の戦争の観念論を批判している。上述した,なぜ人類にとって無駄の何物でもない戦争がなくならないのか,という議論はまさに戦争の観念論なのだろうか。いずれにせよ,第2章をパラパラめくっても,簡単には論旨を思い出せない。おそらく,そこそこ難解な章だったと思う。ただ,分かりやすい点でいうと,戦争というのは文学や映画,ゲームといった文化と馴染みがよいということは誰もが認めることではないだろうか。なお,カントとヘーゲルについても議論もある。
第3章は,非常に即物的な戦争の議論で理解がしやすい。まさに,現在進行中のウクライナでは無人のドローンが活躍しているようだし,日本が防衛費を増額して整備しようとしているのは,中国が世界に先んじて開発しているミサイル技術に対抗するためのミサイル基地であるという。本章ではそんなに古いところからは辿っていないが,マキシム機関銃について記している。1発1発狙いを定めて殺傷する銃が,無差別に大勢を殺傷できる能力を手に入れたということか。近年の動向としては「サイバー」について論じられ,最終的にはロボット兵士の登場についてどう考えるかを提起している。戦争は人殺しを必ず伴うものだが,基本的には領土拡張が主目的であり,殺人が目的ではない。よって,その目的を達成するために,兵士の犠牲を最小限にするためにはロボット兵士を使うというのは間違いなく起こる。しかも,以前のロボットと異なり,現時点でかなり発達してきたAIを搭載するロボットだ。そうなると,単に人間の命令に従うということではなくなるということを真剣に議論しなくてはいけない。まさに,かつてのSF作品が核兵器による破滅を描いていたものが,近年はAIの暴走へと変わってきたように,かなり現実味を帯びてきた恐怖だともいえる。
第4章の冒頭はグローバル化の議論から始まる。グローバル化の一側面として「軍事的グローバル化」を含んでいる。しかし,議論は次に「グローバル化によって戦争の魅力が低下している」というものに移る。確かに,グローバル化の兆候が論じられた頃は,経済のグローバル化によって国境の意味が薄れるといわれていた。国境の意味がなくなれば領土争いを主目的とする戦争は意味がなくなるはずだ。しかし,「われわれは,社会主義や持続可能な福祉支出に対する幻想の高まりと,富を生み出し続ける市場資本主義の力に対する深い不信感との間の,それほど長くは続かないのであろうイデオロギーの空白の中に生きていることに気づいている。」(p.69)こんな感じで,冷静に世界情勢を分析し,戦争がなくならない現代的な条件を一つ一つ挙げていく点は,日本の地政学本とは明らかに異なる。日本の地政学本は,巻頭の「地政学とは何か」的な説明で大抵マッキンダーとかハウスホーファーとか,ランドパワー,シーパワーなどの有体な地政学論者やその概念を分かったように説明するが,本書では続いて「新たな地政学的思考」と題し,「批判的地政学(Critical Geopolitics)」の説明がある。とはいえ,その説明は詳細なものではなく,「そのアジェンダは基本的に急進的・左翼的なものであり,」(p.74)というようなものだが,ランドパワーとシーパワーの単純な話を批判している。批判地政学のものとして多くの文献をあげてはおらず,翻訳もあるロバート・カプラン『地政学の逆襲』とドミニク・モイジ『感情の地政学』とが登場し,「批判地政学は感情や欲望を地図化することも奨励している。」(p.75)と述べ,批判地政学によって新しく地政学の対象になった非物質的なものを議論に取り込んでいる。グローバル化した世界では,感情という非物質的なものが戦争の大きな動機になる,「このような観点で世界を見れば,われわれが今後も紛争を回避できるとは思えない。」(p.76)そして,「空間の多様性」と題して,マルク・オジェの『非-場所』に依拠し,「政治活動の不在」として世界中の貧困地域の存在を指摘する。さらにはサイバー空間があり,世界はさまざまな次元で多様化しているという観点は興味深い。
第5章では冒頭にカントの『永遠平和のために』(1795年)を現代の文脈で議論する。現代の西洋起源の人権概念とイスラム世界でのそれの違いの問題。スーザン・ソンタグは2001年の講演で,「平和とは何を意味するのだろうか?」という話をしたらしい。どのように平和が実現するのか,人々にとってどのような状態が平和だと感じるのか。平和とはその対概念である,例えば戦争との相対的な関係によって感じるものでもある。例えば,日本でも「平和ボケ」という言葉があるが,一時期でも世界から戦争がなくなる状態が続けば,人々は平和の貴重さを感じる機会がなくなり,平和状態に物足りなさを感じるのかもしれない。
第6章はこの平和の議論に続いて,それでも戦争の悪を根本的に確認するために,人道に関する議論を展開する。ここでは,アインシュタインとフロイトによる1932年の交換書簡がとりあげられる。アインシュタインがフロイトに「人類が戦争の脅威から解放されることはありうるのか」を問う手紙を書いたのだという。ここでのフロイトの議論は難解だが興味深い。幼児虐待の事例から「トラウマをかかえた社会全体」(p.105)へと議論は展開し,個人にとってのトラウマ=記憶は社会にとっては歴史であり,それは場合によっては想像したものに置き換えられる。本書は「人類世界は,狩猟採取民から牧畜民となったわずか1万1000年前から始まったに過ぎない」(p.112)という前提に立ち,暴力性を有する類人猿からその暴力性を抑制するべき進化はまだまだ時間がかかるというような含みがある。しかし,こうして戦争回避の議論を続け,平和を希求する思索は絶え間なく続けられており,そこに希望も見出されるだろう。
という具合に本書は決して字数の多い本ではないが,戦争と平和に関する様々な論点を提示し,過去の英知の重要なものを数多く参照しており,ここから戦争論,平和論へと進んでいく指針となろう。
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