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【読書日記】宇佐美久美子『アフリカ史の意味』

宇佐美久美子(1996):『アフリカ史の意味』山川出版社,82p.,729円.
 
先日もイスラーム史の入門書を紹介したが,イスラームに関しては,たまたまアブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前』を読んだから多少の知識を得たが,私は元来一般常識を有しない人間。アフリカに関してはまさに本書の対象読者と同様に,ほとんど何も知らない。長年田沼武能氏の研究をしてきたが,田沼氏が黒柳徹子氏のユニセフ親善大使としてのアフリカ訪問に同行しているのに,アフリカの理解はできていない。本書は山川出版社の「世界史リブレット」シリーズの14巻で,たまたま古書店で見つけたもの。まさに,今の自分に必要なものだと思い手に取り,読むことにした。
もはや遠くないアフリカ
アフリカのとらえかた
アフリカ史の課題
アフリカについての歴史記述の歩み
黒人王国,帝国
スワヒリ文明の起源
アフリカ史の学びかた
著者は1956年生まれで,本書執筆時に40歳。「現在,相模女子大学講師」とある。40歳で講師って,やはりそれだけアフリカ史を専攻していることと女性であることが就職にも関係しているようにも思う。女性に焦点を合わせた著作などもあり,またイスラーム関連の共訳書もある。本書にも日本に限らず世界的にもアフリカ史というものが学問の,そして社会の終焉に置かれてきた状況が語られ,また同時に嘆かれている。
冒頭では,日本が1994年にルワンダ内戦のPKOに自衛隊を派遣したことを例に挙げ,アフリカが日本にとって遠い存在ではないこと,というより遠い存在とするべきではないことを強調している。まずは,私たちが有する「アフリカのイメージ」を突き崩すことから始めなければならない。私たちはとかく「アフリカ」と一枚岩的に語りがちだが,本書によれば,アフリカ大陸全体で800以上の言語,「人種的にも黒人であるネグロイドのほかに,われわれと同じ黄色人種であるコイサン(ブッシュマンやホッテントット)や,外来のアラブ系,インド系,中国系の人びと,そして白人も居住している。」(p.8)
アフリカの一枚岩的なステレオタイプとその歴史の神話化は,アフリカについて常に語る主体がヨーロッパであり,当事者の声が反映されていないことが大きい。最近私も大航海時代以降の奴隷貿易に関する書物などを読むにつれ,ヨーロッパ人の黒人に対する態度が長らく続いた植民地時代に培われたものだということを理解するようになった。初期に植民地化されたアメリカ大陸ではまずはヨーロッパ人が先住民に対してひどい態度をとったのだが,先住民の数が減り,労働力不足を補うために利用されたアフリカ黒人奴隷に対しては先住民以上にひどい扱いだったことを知る。こうして長い歴史の中で培われた態度は,植民地支配が終り,人権が主張されるようになってからもなくならず,21世紀になっても米国でブラック・ライブズ・マターと叫ばなくてはならない状況があるというのがその証左である。もちろん,当事者としての黒人が沈黙を強いられ続けたわけではない。本書でもさまざまな人物が登場する。まず,「ガーナ独立の父エンクルマ」(p.13)には『自由のための自由』と『アフリカは統一する』(野間寛治郎訳,理論社)という訳書があるようだ。
アフリカに存在していた(る?)王国についても多くの記載がある。ブガンダ王国は東アフリカのビクトリア湖北西岸に存在したもので,1894年にイギリスの保護領下に入る。ブニョロ王国はウガンダ北西部に存在した。1922年にはウガンダにマケレレ大学が設立され,ユニバーシティ・カレッジに昇格した1948年の翌年に歴史学講座が開設されたが,その講義内容はヨーロッパ史だったという。翌年にインガムという常勤講師が「熱帯アフリカ史」という講義を行ったが,それでもアフリカ社会側の視点ではなく,支配側からの視点だったという。1885年に創設されたコンゴ自由国はベルギー国王の私有財産としての植民地だったという。現代のアフリカにおける民族紛争の代表例ともなっている,ツチ人とフツ人(報道では「族」が使われることが多いが,本書では「人」となっている)との関係についても説明がある。「現在のブルンジ,ルワンダには先住民として狩猟採集民トワ人が暮らしていた。そこへ7~10世紀に西から移動してきた農耕民フツ人が定住し,さらに15,6世紀にその地を「アフリカの角」地域出身の遊牧民ツチ人が征服して,ブルンジ,ルワンダ両王国を築いた。」(p.20)20世紀に入ってドイツがルワンダを植民地化することで介入した結果,現代の民族対立を生み出していった過程が説明されている。端的にいえばフィクショナルな両民族のイメージを植え付けたことが原因である。
続いて,史料の問題としてアフリカの文字の問題を解説する。アフリカで用いられていた文字として,アムハラ文字はエチオピアで用いられているもので,19世紀に文字が創案された音節文字。バイ文字はリベリアに住むバイ人の文字で1833年頃に考案されたという。バムン文字はカメルーンのバムン人の固有の文字。20世紀初頭にスルタンが考案した。イスラーム圏では,ナイジェリア北西部からニジェール南部の人びとの母語であるハウサ語や,東アフリカ海岸地域でアラブ人やペルシア商人がバントゥー系の人びととの交流から生まれたスワヒリ語など,イスラーム圏の影響にある言葉がある。こうした書き言葉が自らの歴史を記録し,後世に伝えることになるのは当然だが,書き言葉として残されないまでも口伝いによる口承伝承も重要である。もちろん,物質として歴史を伝える考古学の仕事,また言語間の系譜関係を調査する言語学についても記載がある。
そうはいっても本書では,自らの言葉でなくてもアフリカの歴史について知ることができる資料について整理している。古代の代表的なものはプトレマイオスの『地理書』であるが,その後のアラビア語の記録の方が重要だ。10世紀に活躍したマスウーディーの『黄金の牧場と宝石の鉱山』が東アフリカの交易や海運の様子を伝え,11世紀のバクリーは西アフリカについて『諸道と諸国』をしるしたという。12世紀のイドリーシーは地理学者と紹介され,『ルッジェロの書』は「西アフリカについての記述に限れば十分に信頼できる」(p.34)としている。14世紀のイブン・ハルドゥーンは,これまでの地理書とは異なり,『歴史序説』と『イバルの書』によって「近代的な意味での歴史家であった」(p.34)と評されている。14世紀にはウマリー『諸都市のある諸国を見る道』,イブン・バットゥータの『都市の不思議と旅の驚異をみる者への贈り物』が挙げられる。17世紀にはアラビア語による『スーダン年代記』などが口承伝承に分析と史料批判を加えて記述したものがあるという。口承伝承をアラビア語で写しとっただけの『カノ年代記』や『キルワ年代記』なるものもある。18世紀には『ゴンジャ年代記』が書かれたが,この王国は現在のガーナ中部に16世紀末に形成されたもの。19世紀末以降は,アフリカ人自身が西洋諸語を用いて自らの歴史を叙述したものが現われる。ジョンソンの『ヨルバ人の歴史』(1897年),エガーレブバ『ベニン小史』(1934年)などが挙げられている。
ここまでは積極的な意味で活用できる史料だが,奴隷貿易時代には,ヨーロッパにとって都合の良いものが多数出ていたようだ。それらについてはここで具体例を示す必要はないが,要はアフリカ人は奴隷にふさわしいということを(似非)科学的に証明しようとするものだ。そこにはヘーゲルやリンネの名前も挙げられている。それ以降のアフリカ探検家たちの記録も似たようなものだが,ブルース『ナイル川の水源発見の旅』(1790年),バルツ『北・中央アフリカの旅行と発見』(1857-58年),ギアン『東アフリカの歴史・地理・通商にかんする文書集』(1856年)などについては「貴重な史料を残した例」(p.42)としている。植民地期のアフリカ研究についても,スティガンド『ジンジュの国』(1913年)とフィッシャー『黒いガンダ人の物語』(1912年)などは「比較的先入観にとらわれずに著された歴史書」(p.43)としている。1940年代後半以降にはイギリス,フランス,ベルギーがそれぞれの植民地に大学を開講し,アフリカ史講座が設置され,スタッフも徐々にアフリカ人が担当するようになった。そのなかで「アフリカ側からみたアフリカ史の再構築の試みがK・O・ディケやJ・D・フェイジを中心に着手された。」(p.44)そして,独立後については各国で「自民族の歴史を取り戻し,新しい世界史をアフリカからの目でとらえなおそうという試みがなされた」(p.46)のは当然だ。ここで重要なものとして挙げられているのが『ユネスコ版アフリカの歴史』で,これは1970年に発足した「アフリカの歴史」起草のための国際学術委員会によるプロジェクトの成果だという。この流れの象徴的存在として本書では,1868年に発見された大ジンバブエ遺跡の調査について説明されている。この発見にはドイツ人地理学者マウフが参加していたという。
続いて,そうした調査研究によって明らかにされた黒人の王国や帝国について記載されている。注釈のあるものを列記すれば,11~19世紀に現在のジンバブエに存在したモノモタバ王国,ただ注意しなければならないのは,一概に「王国」や「帝国」と表現するが,その内実はアフリカ以外のものと一様ではなく(アフリカ以外でもその用法には注意しなければならないとは思うが),どのような支配体制だったかは個別に吟味する必要がある。「アフリカにおける王国とは,もともといくつかのクラン(氏族:引用者)が集まってできあがったものであった。クランのメンバーは共通の祖先を信じ,一人の選ばれた首長のもとで暮らしていた。(中略)王は政治的な支配者であるばかりでなく,クランの長として先祖と現世の社会をつなぐ宗教上の神聖な役割をはたしていた。」(p.53)現在のザイールからアンゴラ北部にかけて14~19世紀にかけて支配したコンゴ王国がある。16世紀にポルトガルから統治制度を学ぶ前は中央集計的な国家機構は存在しなかったという。西アフリカにあったダホメー王国は西欧の絶対王政に近い統治機構を備えていたという。17~19世紀末まで大西洋奴隷貿易に関与することで繁栄し,白人奴隷商から入手した火器による軍事力で独裁的な中央集権国家となった。スーダンのニジェール川流域にあったマリ王国は1235年にさまざまな種族を吸収して帝国になったという。商人による広域な活動により,さまざまな財を集中させ,軍事的・経済的に他のグループに優越していたという。ニジェール川中流域にはソンガイ帝国があり,11世紀にはイスラームに改宗し,1468年にマリ帝国の一部を征服し,マリ帝国の支配体制にならって中央集権的な帝国を築いた。
本書の最後にスワヒリ文明について詳細に記載されている。スワヒリ語については先にも少し触れたが,現在のソマリア南部からモザンビーク北部にいたる海岸地帯であり,古くからインド洋の海上貿易によって諸地域との関係を結びイスラームの影響が強い。「スワヒリ地域のイスラーム化は,北部では7,8世紀,南部では11世紀と考えられている。」(p.64)16世紀初頭にはポルトガル人が多く訪れその繁栄ぶりを驚きを持って記録しているという。スワヒリ語はそんななか,10世紀当たりのアラブ史料のなかに散見され,現在のような形になったのは13世紀以降と考えられている。文献としては17世紀になってからだという。スワヒリ文明については,論者によってアフリカ以外の地域に起源を求めるものが多いようだが,本書の著者は近年現れた現地起源説を重視している。
著者が求めるアフリカ史の転換はやはり人権の問題と関係していて根本的な価値観に関わるものだと思う。黒人が人種として劣っているとか,黒人社会が人間社会として未熟な組織体だとかという考え方は,根本的には人種差別主義に基づく理解である。そもそもが,人間を能力の優劣の尺度に当てはめたり,文化や文明を校庭の尺度で判定したりということをやめる必要がある。人間の違い,社会の違いは優劣や高低によって計るものではなく,横並びの差異であるという価値観の転換が必要である。

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