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つかれている人がいる

疲れる。身体的に。精神的に。
そんなことで?そんなことを。

身近な人に意外なところで疲れている人がいる。
全く当てはまらない人にとっては思いがけない話で、例えば男性にとっての女性の生理痛だ。男には一生理解できない。理解できないからこそ、相手が痛いならそのまま受け入れてあげないといけない。(これにピンと来ない男はマジで未熟なので反省を。)

と言いつつ、これが本当に難しい。
受け入れ方がわからない時はどうしていいかわからない。ある人は以下のような疲れ方をする。俺は正反対なので未だに驚きつつどう受け止めていけばいいのか手探りの状態だ。それは

【作品の登場人物へ必要以上に感情移入してしまい、もし彼(もしくは彼女)が不幸な状況に立たされたら、自分事のように精神的ダメージを受ける】

という人だ。腐女子のつづ井さんもその気があるようだけど、いるんだね。思ってもみなかった。ここでは仮に体感没入タイプとしよう。正反対に、作品をある程度客観的に見て感情移入をしすぎない人もいる。ここは監督の十八番だなとかメタが大好きなタイプ。このメタ視点タイプはテーマやクオリティに興味があるから悲しい物語でもエンドロール後はケロッとしている変態も多い。俺とか。

鑑賞後の放心と新しい作品の防衛本能

体感没入タイプに聞くと、作中自分は主人公の隣にいるらしい。もしくは自分が主人公に憑依。距離感ゼロ。弊害としてひと作品のダメージが大きいので、エンドロール後放心状態になってしまうことがある。(物語によくある)登場人物の死を受け止めるまでに時間がかかってしまうらしい。そして揺さぶられることを自覚しているので作品の摂取量が少なくなってしまう。

問題はこの2つの負のスパイラルが発生してしまう点だ。だんだんと孤独のグルメやサザエさんみたいなほのぼの系ばかりに進んじゃう。似たパターンばかりになるとその人の中の多様性が枯れていって視野が狭くなるんじゃないかと思う。それが懸念事項だ。

ここで確認だけどいま俺が言っている「作品」とは、「物語」のことだ。起承転結と喜怒哀楽と栄枯盛衰があるようなもの。

そもそも物語は必要なのか?

さっと切り替えられないというのは、いい意味で考えると鑑賞後その作品を心で読む行為を丁寧に行っているという事だ。もし心の中、内側だけで閉じちゃうからいけないのであれば、鑑賞後にそばにいる人とゆっくり語り合ったらいい。noteに感想文をだらだらと書き残したらいい。すると第三者の新たな視点が得られるんじゃないかな。

そうか、整理する時間をたっぷり設けたらいいのか。間を置かずサッと楽しい作品を摂取したらどうかと思っていたけれどこれは「切り替え」の発想だった。ゆっくり自分の中で発酵させる過程を整えたらいいんじゃなかろうか。

youtubeと映像のサブスク発生で人間は一生かけても追えない量の映像の物語をすぐ見れるようになった。浴びるように物語を楽しめる。より身近になった。だからこそ、はい次~と進めなくてもいいよね。

同じ物語でも、特に映像への親しみが増えた気がする。そして体感没入タイプは映像の物語に対してダメージを追っている。表情と、動きと、声と、音楽がある。では小説はどうなのだろう。今度聞いてみよう。


共感型なのか

SNSを冷めた目で見ると、みんなそんなに共感したいのかと思う時がある。価値判断基準が「共感」ばかり。別に友達になれなさそうでもこの人の言っていることは面白いなと知るだけで十分なのにね。もともと俺が他人に興味がないからなせるワザなのか。

体感没入タイプは、全力で共感するのだろう。
もう予想でしかないけれど、そうならそうでいい。

うーん、まだもやもやのまま。
今日はここまで!

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