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あなたへ #5

森沢明夫さんによる『あなたへ』は夫婦の深い愛情と絆を綴った、心温まる感涙小説です。刑務所の作業技官の倉島は、亡くなった妻から手紙を受け取る。妻の故郷にもう一通手紙があることを知った倉島は、妻の想いを探る旅に出る。

◇  ◇  ◇

冷たく、鋭利な月の下、土の匂いのする夏の夜風が吹いた。

並木道の樹々たちが、さらさらと心地よい音を奏でる。

足元から立ちのぼる夏の虫たちの恋歌。

歩きながら田宮は、自分と美和との近い将来を思い描いた。きっと、あと二~三年もしたら、この並木道を家族三人で手をつないで歩いているのだろう。暖かい木漏れ日の歩道に、まだよちよち歩きの可愛い幼子を真ん中に据えて、その左右を田宮と美和が微笑みながら歩いている。子供が求めれば、両手を引き上げてブランコをしてやるのだ。

よし、今夜は子作りに励むか。

だらしなくニヤけそうになる顔をぐっと引き締めて、田宮は家路に向かう足を速めた。

並木道のゆるやかな坂を下り切ると、信号のない路地を左に折れた。そこから二十メートルほど歩けば、右側に我が家の玄関が見えてくる。

せっかくだから、庭の窓からいきなり「ただいま!」と言って、サプライズをより大きくしてやるか――。

田宮は門のなかに入ると、玄関のドアの前を素通りして、家の周りをぐるりと左回りに歩いた。そして、芝生を敷き詰めた小さな庭へと出た。レンガで区画した奥の花壇には美和の好きなハーブがいくつか植えてあり、それが夜気のなかに爽さわやかな香りを放っていた。美和はときどきその葉っぱを摘んで、香り高いハーブティーをいれてくれる。

庭に面した掃き出し窓にはレースのカーテンがかかっていて、そこから蛍光灯の明かりが滲んでいた。その明かりが、小さな濡れ縁をぼんやりと浮かび上がらせている。濡れ縁でそっと靴を脱ごうとした田宮は、しかし、ハッとして動きを止めた。

レースのカーテンのなかに人影が見えたのだ。

人影は、小柄で華奢な美和のものではなかった。美和よりも、ひとまわりも、ふたまわりも大きな、男の背中だった。

田宮は脱ぎかけた靴をもう一度履くと、静かに庭木の陰に身を潜ませた。そして、じっと家のなかの様子を窺った。

暗闇のなか、心臓が自分のものではないように荒っぽく拍動して、喉の奥でどくどくと脈打った。じっとしていると、すぐに何匹もの蚊が寄ってきたが、いまはそれどころではなかった。

レースのカーテンの向こうの男がリビングの中央へ移動すると、蛍光灯の明かりを浴びて、その姿がはっきりと浮かび上がった。まだ二十代にも見える若い男だった。黄色っぽいTシャツにジーンズを穿き、少し長めの髪の毛には、ゆるくウェーブがかかっている。見たことのない顔だが、男はすっかりくつろいだ表情をしていた。

男が右手を振り向くと、視線の先から小柄な影が現れた。キッチンから美和が出てきたのだ。美和は手にしていたガラスの食器をテーブルの上に置くと、何やら愉しそうな顔で男に話しかけていた。すると男も笑みを浮かべながら、ゆっくりと美和に近づいていき、その両手を正面から美和の腰に回した。

え……。うそ、だろ……。

田宮が、ごくり、と唾液を飲み込んだ刹那、男は上半身をかがめて、顔を美和に近づけた。

「……」

長いキスだった。

最近、田宮ですらしたことのないような、濃密で、情熱的なキスだ。

美和と一緒にホームセンターで選んだレースのカーテンの向こうで――田宮が必死に「イカめし」を売って、ぎりぎりのローンで建てたマイホームのなかで――見知らぬ男が美和を抱き寄せ、しつこく、しつこく、唇を吸っている。

怒りも、焦燥も、悲しみも感じていた。しかし、どういうわけだろう、それらの感情には、不思議と現実感がないような気もしていたのだ。もしも、このまま何喰わぬ顔で「ただいま」と言いながら掃き出し窓を開けたなら、その瞬間、男の像はふっと消えてしまいそうな、そんな気さえしていた。

しかし、いざそうしようと思っても、ガタガタと震えている膝が言うことを聞いてはくれなかった。心は現実を拒絶しても、身体はそれを受け入れて、正直に反応していたのだ。

せめて……。

せめて、美和は、抵抗してくれ――。

そう願ったのとほぼ同時に、美和の両腕がゆっくりと男の首に巻き付いていった。まるで、それが「いつものとおり」とでもいうような、とても自然な動作で。

たっぷりと互いの唇をむさぼり合ったあと、男はいったん美和から唇を離した。そして、着ていたTシャツをおもむろに脱ぎはじめた。あらわになった男の分厚い胸を、美和の両手が撫ではじめたとき、二人の映像がぐにゃりと歪んだ。

あれ……、と思ってまばたきをしたら、左右の頬に熱いしずくが伝っていた。

なんだ、俺、泣いてんのかよ。

馬鹿じゃねえの。

胸裡でつぶやいたら、ぽろぽろとしずくがこぼれだした。

ふぅ。ふぅ。ふぅ。

嗚咽おえつをこらえるために何度も短く息を吐いた。

ふと夜空を見上げると、隣家の屋根の上に三日月が浮かんでいた。微笑んだときの美和の目と口のカタチをした月は、研ぎ澄まされた刃物のように鋭利で、ギラギラと冷たく光っていた。あの鋭利な月を右手に握って、男の眉間みけんにグサリと突き立てる――そんなイメージが脳裏に浮かんだが、それも一瞬のことだった。

今日はもう、この家には帰れない。

いや、もしかしたら、明日も、明後日あさっても……。

田宮は窓のなかの二人から視線を背けたまま、震える脚でそろそろと歩きはじめた。足音を立てないように心を砕きながら、家の脇をぐるりと周り、門を出て、駅に向かってもと来た道を戻っていく。

ややもするとよろけそうになる頼りない足取りで並木道を歩いていたら、いつの間にか濡れた頬も乾いていた。夏の夜空に浮かんだ冷たい三日月は、しつこく田宮の後を付いてくる。

駅の近くまで戻ってくると、コンビニのゴミ箱が目についた。そのなかにロールケーキを箱ごと放り込んだ。

ゴミ箱の脇から立ちのぼってくる鈴虫の哀歌に耳を傾けながら、田宮はお気に入りだった並木道を眺めた。見慣れたはずのその並木道は、なんだか作り物めいて見えた。

田宮は、ぼうっとした頭で考えた。

ええと……。

ここからいちばん近いビジネスホテルって、どの駅にあるんだっけ。

◇  ◇  ◇

目まぐるしかった一日の仕事を終えて、一人暮らしの安アパートに帰り着いた南原慎一は、フィルターぎりぎりまで吸った煙草を灰皿に押し付けると、小さなため息をもらした。

ふう……。

くたびれた。

座布団を二つに折って枕を作り、ごろんと畳の上に仰向けに寝転がる。六畳一間の狭い天井を見上げると、蛍光灯のカバーのなかに小さな蛾が迷い込んでいて、慌てふためいたように右往左往していた。

そんなに焦るなよ。

入れたんだから、いつかは出られるって――。

蛾を見ながら胸裡でつぶやいたら、それが、なんだか自分自身に向けた言葉のようにも思えてきて、肩のあたりにズンと疲労感が増した気がした。

「ふう、くたびれた」

今度は、小さく声に出した。

今日は朝から休む間もなく弁当を作り、そして売りまくった。目標の二千個には届かなかったが、なんとか千八百個を売りさばくことができたから、悪くはない。口べたで無愛想で不器用なうえに、長年の日焼けでチョコレート色になった強面こわもて――そんな自分にしては、まずまずの売上げだった。この数字なら、口うるさい支社長にブツブツ嫌みを言われることもないだろう。そう思うと、ほんの少しだけホッとして、またため息がもれてしまう。

ついさっきまで右肩に食い込んでいた黒い大きな旅行鞄が、テレビの横にデンと置かれている。商売道具がぎっしり詰まった鞄だが、これがつくづく趣味の悪いデザインだった。なにしろ側面には劇画タッチのリアルなイカの絵と、それをぐるりと囲むような稲穂が描かれているのだ。しかも、臆面おくめんもなくデカデカと。

南原は寝転がったままテレビのリモコンを手にして、スイッチを入れた。家電量販店でいちばん廉価だった韓国製の液晶画面に、アイドル顔をした女性ニュースキャスターが映し出される。ちょうど民放でニュースがはじまったところだった。

どうせ、ろくなニュースはないだろう――。

そう思ってチャンネルを変えようとした刹那、ニュースキャスターが番組の冒頭の挨あい拶さつとともに、今日の日付を告げた。

《八月二十五日、今日の主なニュースはこちらです》


◇  ◇  ◇

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