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松井秀喜がずっと日本でプレーしていたら、王貞治の記録を塗り替えていた? #3 プロ野球怪物伝

昨年、惜しまれつつ逝去した、日本プロ野球史に燦然と輝く名将・野村克也さん。晩年の著書『プロ野球怪物伝』は、大谷翔平、田中将大などの現役プレイヤーから、イチロー、松井秀喜など平成を彩った名選手、そして王貞治、長嶋茂雄など往年のスターまで、38人の「怪物たち」について語り尽くした一冊。まさに野村さんの「最後のメッセージ」ともいえる貴重な本書より、読みどころをご紹介します。

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「ゴジラ」に攻略法はなかった

石川・星稜高校で一年から4番を打ち、一年の夏と二年の夏に甲子園に出場した松井だが、全国区となったのは三年の春といっていい。この選抜、すなわち1992年の第64回大会は、甲子園のラッキーゾーンが撤去された大会だった。つまり、レフトとライトのグラウンドがそのぶん広くなるわけで、実際、ホームランは激減した

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しかし、松井にはまったく関係なかった。初戦の宮古高校戦で2打席連続ホームランを含む4打数4安打、7打点。2回戦でもホームランを記録したのである。

夏の大会は、2回戦で敗退したにもかかわらず、松井の怪物ぶりを全国に知らしめる大会となった。ご承知のように、相手の明徳義塾は松井を全5打席、すべて敬遠したのである。つまり、それだけ松井は警戒されていたのであり、一度もバットを振ることなく怪物ぶりを見せつけたバッターは、あとにも先にも松井ひとりだろう。

私の目から見ても、松井は別格だった。面構え、身体つきが高校生には見えない。なによりもスイングのスピードが群を抜いて速かった。プロでもすぐに使えるレベルに思えた。そして、その怪物ぶりをほどなく私は目の当たりにすることになった。

4球団が競合した末、巨人に入団した松井は、開幕こそ二軍スタートとなったが、イースタン・リーグで実力を発揮し、5月1日、「7番・レフト」で一軍デビューを果たす。その相手が、私が指揮を執るヤクルトだった。

デビュー戦の翌日だったと思う。4対1でヤクルトがリードして迎えた9回、松井がバッターボックスに入った。マウンドには高津臣吾が立っていた。たとえ打たれても大勢に影響はしない場面。松井の真価を見るいい機会だと思った私は、高津と古田敦也のバッテリーにインコースのストレート勝負を指示した

当時の高津はストレートに自信を持っていたし、プロのインコースのストレートを攻略できるかは、新人バッターの実力をはかる試金石となるからだ。

果たして松井は、高津渾身のストレートを火の出るような弾丸ライナーで東京ドームのライトスタンド上段に弾き返した。

「こいつは本物だ」

シャッポを脱いだ私は、同時に思った。

「松井とはこれから長く勝負していかなければいけないな」

いつか巨人の監督になってほしい

松井についてもうひとつ述べておきたいのは、その人間性である。とにかく、悪い噂はどこからも聞こえてこない。サインを断らないなどファンを大切にするのはもちろんのこと、メディアに対してもどんな質問でもていねいに答えるし、礼儀正しい。

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そして、自分の記録よりチームを優先する。現役時代を振り返って松井はこう語っていた。

「ひとつだけ自信をもって言えるのは、つねにチームの勝ちを優先し、それを第一に考えていたこと

だからこそ、日本だけでなくアメリカでも愛され、大いに尊敬されたのだろう。

ただ――こうした人間性も影響していたのだろうが、日本では332本のホームランを打ち、ホームラン王に3度輝いたゴジラは、アメリカでは中距離打者になってしまった

1年目からフル出場を果たし、106打点をあげた松井だが、巨人在籍最終シーズンに50本を記録したホームランは16本と激減した。本塁打率は38.94で、2018年の大谷の14.82打数に1本という数字より格段に低い。その後、もっとも多く打ったシーズンでも31本だった。

メジャーのピッチャーの球威に負けまいとしたからだろう、キャッチャーに近いところで確実にバットの芯でとらえるようになった。ヤンキースという名門に移籍したこともあり、よりチーム優先のバッティングを心がけるようになり、左方向への打球が増えた。

たとえ引っ張ることができるときでも、あえてチームバッティングに徹しているように見えた。松井ならば、もう少し長打にこだわっても充分通用したと私は思う。

アメリカに行ったのは全盛期を迎えた時期だった。これからこの怪物がどれだけ進化していくのか楽しみにしていた時期だったのである。あのまま日本にいれば、王に匹敵するほどの記録を残せたに違いない。

なにより、一流は一流を育てるという私の持論通り、松井と対戦することで、たくさんのピッチャーが育つことになったろうと思う。日本のプロ野球のために、そのことを残念に思わざるをえないのである。

だからというわけではないが、ぜひとも巨人の監督をやってほしいし、やるべきだと私は思っている。「外野手出身に名監督なし」は私の持論だが、彼なら心配ないだろう。望むなら私がヘッドコーチになる。3年、いや2年で日本一の監督にしてみせる自信はあるが、どうだろうか……。

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『プロ野球怪物伝』野村克也

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