見出し画像

運命を好転させる隠された教え チベット仏教入門 #4

◆ 五体投地・全身を伸ばして行う礼拝 ────◆

帰依を示す行動として「礼拝らいはい」があります。礼拝には、言葉で行う讃嘆さんたんは「言葉の礼拝」、五体投地ごたいとうち*8を行う等の「身体での礼拝」などがあります。シャンティデーヴァの説く身体での礼拝を見てみましょう。

三世の一切如来にょらい、法と資糧の最勝さいしょう僧伽そうぎゃ)に対し、全ての福田ふくでん微塵みじんの数だけ、〔無数の〕身体を〔化作けさし〕恭敬して私は礼拝致します。

(『入菩薩行論』第二章 24段)

福田ふくでんとは福徳ふくとくを積む対象のことです。過去・現在・未来の全ての仏と、その教えである法、そして僧伽に対して、その数に見合う自分自身の身体をあらん限り想像して礼拝することです。

実際の礼拝では、額・両手・両膝を着く略式の礼拝と、全身を伸ばして行う五体投地があります。ロサン・ガンワン師の口伝として、「いずれの場合も、両掌の指は伸ばしたまま、指と指の間を開かないで行うように」と教えていただきました。

仏身に備わる三十二相八十種好*9という特徴の一つ、仏の掌には衆生を余すことなく救うために水きがあるとされますが、このように各々の指の間を開かないで礼拝するのは、その獲得の縁起かつぎだということでした。

所依の力のところで述べたように、仏菩薩はその姿を写しただけでも、功徳があります。それは申すまでもなく、写す側の力ではなく、写される対象である仏菩薩の側の力です。

また、菩薩に敵愾心てきがいしんを抱けば、計り知れない悪業を積みますが、きれいな心で接すれば、敵愾心で積むマイナスのベクトルより遥かに大きな力で善業を積むといわれています。これも敵愾心を持つ側やきれいな心で接する側の力ではなく、仏菩薩の側の力、即ち所依の力です。

またここでいう“きれいな心”を、ギャルツァプ・ジェは「信仰心」とし、ダライ・ラマ法王も「信仰心を持ち、菩薩道を自分も望む心」という解釈をしています。

例えば、初詣に神社に行く習慣があり、“行かなければ気持ちが悪い”という感覚があったとしても、それは「信仰心」ではありますが、「帰依」とまではいえません。帰依は自分の全てを委ねる、信仰心の究極のものなのです。

因果応報は仏教の説く大原則で、悪業の果は必ず受けなくてはなりません。その悪業の果を浄化し得るのは、後で説明する「二度としない誓い」「行」など悪業を浄化する側の努力が必要なことはいうまでもありませんが、仏菩薩の側の力、強力な所依の力を借りることなしには悪業を浄化できません。悪業浄化のため、この所依の力を余すことなく引き出すものが帰依なのです。


◆ 憎いはずの相手が変わっていく ────◆

(3)二度としない誓い

導師がた。私の罪と間違いを受け入れて下さい。これは善い行為でないゆえに、二度と私は犯すまい。

(『入菩薩行論』第二章 65段)

ダライ・ラマ法王は、仏菩薩の前で、先になした悪業を強い後悔の心で赤裸々に包み隠さず告白しなければならないとしています。仏は一切智者いっさいちしゃなので、我々が懺悔しようがしまいが、それに関係なくご存じのはずです。従って、これは懺悔する側の深い後悔の度合、本当に悪かったという素直な後悔が必要です。

さて、「二度としない」と誓ったにもかかわらず、もしもしてしまった場合は、どうなるのでしょうか。実は、ギャルツァプ・ジェもダライ・ラマ法王もこれについては何も述べていません。これはあくまでも私見ですが、二度としないに越したことはありませんが、その誓いの実効性よりも、二度としないと決意すること自体が大切なことなのだ、と私は解釈しています。

(4)行力ぎょうりき

行力とは、例えば般若心経を唱えたり、写経するなど、仏教の実践のことをいいます。

また仏教では、「我々には存在が実体を持って存在している」という潜在的な思い込みがあるといい、この思い込みのことを「諦執たいしゅう」といいます。この諦執こそが悪業の原因となります。

例えば、自分の気に入らない対象に対して、実際は様々な関係性によってそう感じているにもかかわらず、実体あるものととらえ、悪なる対象として益々憎悪を膨らませること。また、好ましい対象も同様で、様々な関係性によってそう感じているにもかかわらず、実体あるものととらえ、善なる対象として益々執着したりすること。

また、実体がないゆえに、自分が感じていたことや印象が変わると、騙されたと思って執着が憎悪に変わるなど……。日常生活でありそうなことです。

しかし、このような認識により悪業を積むことになるわけですが、実際は、全て分別によって仮設けせつしただけなのです。仮設とは、自分の方で分別して、対象を「そうだ」と仮に想定してしまっただけで、対象の側から成立しているものではありません。

例えば、ひどく憎い相手だと日頃思っている人物のことを、他の誰かから「彼があなたのことを『とても敵わない。本当に凄い人だ』と言っていた」と聞くと、憎いはずの相手の印象がちょっと変わってしまうことがあるのではないでしょうか。これは、対象が実体を持って存在していない証拠で、実体があるが如く見えていますが、全ては仮設しただけというものです。

このように実体ありという認識、すなわち「諦執」による認識は正しくないと理解することが「空性くうしょう」を理解することになります。従って、空性を理解することは高邁こうまいな仏教理論で我々凡夫とは関係ないととらえがちですが、実際は我々の誤った認識、物のとらえ方を正すものなのです。確かに難解ですが、空性の理解は悪業を解消していくために重要な意味を持ちます。

次に我々が悪業を積むもう一つの大きな要因は「自己愛」「我執がしゅう」です。我執により殺生や悪口など他者に危害を加えたり、蔑視べっししたりします。その対治たいじになるものが究極の利他の心、即ち「菩提心」です。従って、ここで行力の最も適切なものは「菩提心の観想」、そして「空性の観想」となります。

*8─五体投地……全身を地面に伏して礼拝する方法。

*9─三十二相八十種好……掌の法輪や水搔きなどの仏の身体に備わる特徴の総称。

◇  ◇  ◇

👇続きはこちらで👇
運命を好転させる隠された教え チベット仏教入門

紙書籍はこちらから

電子書籍はこちらから


でんぽんフェス2024 WINTER開催中!