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運命を好転させる隠された教え チベット仏教入門 #1

はじめに

◆ 生きるとは、仏教とは、何か ────◆

自分の心が変わらなければ、運命は変わりません。

しかし、仏教を正しく実践すれば、自分の心を変えることができ、さらに、自分の運命さえも変えることができるのです。

この本では、そんな仏教の本質を、八世紀インドの伝説の僧・シャンティデーヴァの典籍てんせき入菩薩行論にゅうぼさつぎょうろん』を中心に、ダライ・ラマ法王をはじめ、チベットのラマ*1方の教えをもとにつまびらからかにしていきます。

さて、『入菩薩行論』について、ここで少し詳しくお伝えしましょう。

チベットでは僧俗を問わず、千年以上にわたって最も支持されてきた著作です。特にダライ・ラマ十四世が各所で行った説法会で最も多く取り上げてきたもので、チベット人が宗派を問わず親しんでいる典籍です。

残念ながら、日本では近年まであまり知られることはありませんでした。十世紀に宋の天息災てんそくさいという僧が漢訳し、『菩提行経ぼだいぎょうきょう』という名で我が国にも伝わっていたようですが、解説者がいなかったためか、広まらなかったようです。

私がインドに留学してすぐ、まだチベット語が不自由だった私に、唯一英語で話しかけてくれた寺の執事の方から、「『入菩薩行論』を読むと、いつも自分の行動を見直そうと思う。宏一も機会があれば、ぜひ読んで欲しい。私は涙なしに読むことができない」と何度も言われたことをよく覚えています。

また、私の師匠、ロサン・ガンワン師ががん末期の治療中に、ダライ・ラマ法王から、「人生の最期には『入菩薩行論』を読んで心を整えよ」とアドバイスされているのを私はそばで伺っておりました。

『入菩薩行論』はチベット人にとって、仏教の神髄そのものといっても過言ではないでしょう。

さて、人は誰もが皆、楽を求め、苦から離れたいと思っています。

我々はどれほど大きな楽が訪れても満足することはなく、飽くなき楽を欲する者である点で等しいのです。また、我々は小さな苦しみをも望みません。例えば、他人が発した言葉で生じた些細な不快感でさえも、全く望まないという点で共通しています。

シャンティデーヴァは、仕事などの世間的なことで楽、いわゆる成功のようなものを得ようとしても、実際、楽を達成できるかどうかは不確実だが、仏の示す実践は、実践すれば必ず楽を達成できるとしています。

また、確実に仏教の教えに沿って利他の気持ちで行動すれば、釈尊(しやくそん)の教えはあざむき無きゆえに、その功徳くどくを必ず後で得られるものと説いています。

では、仏教とはいかなるものなのか。それをどう実践すればよいのか。何から始めればよいのか。順番にわかりやすくお話ししていきましょう。


◆ 心をアップデートして仏に近づく ────◆

仏教と、それ以外の宗教の一番の違いは何でしょうか。

それは創造主を想定するか否かです。例えばキリスト教やイスラム教では、神は創造主であり、人間は神の創造物です。従って、人は帰依きえ*2や善行ぜんぎょうにより神から祝福を受けますが、人が神になることは決してありません。

しかし、仏教における最終のゴールは成仏じょうぶつです。それはすなわち、釈尊と同じ境地の仏様になることを意味します。釈尊と同じ境地になるとは、なんともおこがましいように思われるかもしれませんが、仏教では、成仏した後は全ての仏は全く同じ境地に至るとされ、そこに優劣は全くないのです。従って、他の宗教と同じく、救い手に対して帰依すると同時に、自分の心をどういうふうに仏に近づけていけるか、アップデートできるか、これが仏教においてとても大切なポイントとなります。

さて、心をアップデートしていくとは、どういうことでしょうか。

具体的な例として、身内の話で恐縮ですが、こんなことがありました。

私の母方の祖母は祖父が逝去した後、認知症になりました。認知症のせいで不規則な発言をするたびに、母がきつく注意をしていました。私は母に、「認知症だから仕方がないでしょう。そんなきついことを言ってもわからないのだからだめだよ」と何度も伝えました。

しかし、母としてはしっかりしていた祖母に戻って欲しいとの思いから私の言葉が受け入れられず、注意を繰り返し、そのたびに祖母はパニックを起こしていました。そして、最終的には完全に重い認知症となってしまったのです。母はひどく後悔し、当時、我が家に逗留中であった私の師匠、ロサン・ガンワン師にこうお尋ねしました。

「母親に対して、とてもひどいことをたくさん言ってしまいました。そして、母を本当に苦しめてしまいました。この悪業あくごうを、私はどうしたら浄化できるでしょうか」

すると、ロサン・ガンワン師は、こうお答えになりました。

「悪業なし」

なぜ、悪業なしかといえば、母は自分の母親をいじめてやろうと、憎しみを持って言ったわけではありません。母親にしっかりして欲しい、という一心で、そのような行いをし、結果として母親を苦しめてしまったわけです。その結果はだめだったけれど、根底にあるのは母親を思う利他の気持ちだと。従って、その行為、その思いに、「悪業なし」とお答えになったのです。

また、ロサン・デレ師に次のような寓話を伺ったことがあります。

釈尊の時代に、ビンビサーラという王が、釈尊と弟子を招いて昼食のおもてなしをしました。その様子をある貧しい老婆が近くで見ており、王の徳の高さに感心し、王の長寿を祈りました。

そして、釈尊や高弟方の食事が終わる頃、釈尊が王に、「何か願いはありますか?」とお尋ねになったのです。

王は、「私のために祈願して欲しい」と思いましたが、王としての体面があったので次のように答えました。

「今日一番の徳積みをした者のために、祈願をお願い致します」と。

すると釈尊は、それに応えて老婆の名をあげて祈願をしたので、王は困ったという話です。

王は当然、善業ぜんごうを積みました。しかし、王には慢心がありましたが、貧しい老婆には慢心がなく、純粋に王の行為を随喜(他人の善業を心から素晴らしいと喜ぶこと)しました。そのため、王より老婆の方が積んだ徳は勝ったのです。

費用と手間を掛けて善業を積んだのは王です。老婆は随喜しただけです。しかし随喜しただけの方が、功徳が勝ったというこの寓話は、「仏教では行為以上に動機が大切」という本質をよく表しています(ちなみに随喜には、自分の善業を喜ぶことも含まれます)。

仏教は要するに「モチベーションの宗教」であり、いかなるモチベーションで行動するかが全てです。つまり、どう心がけたのかで、悪業あくごうを積んだり、善業を積んだりすると考えるのです。そしてそれが「因」となって、「楽苦の結果」を受けると考えます。つまり、「因果応報の法則」なのです。


◆ 大乗(だいじよう)仏教の道しるべ『入菩薩行論』 ────◆

仏教には、自己の解(げ)脱(だつ)を求める「上座部じょうざぶ仏教」(いわゆる「小乗しょうじょう仏教」)と、一切衆生いっさいしゅじょう(生きとし生けるもの)の救済を目指す「大乗仏教」の二つがあります。

前者はスリランカ・タイ・カンボジア・ミャンマーなどに伝わっており、後者は中国・チベット・韓国・日本・ベトナムなどに伝わったものです。日本に伝わった伝統仏教は全て大乗仏教です。

この大乗仏教には、インドより中国を経て韓国、日本に伝わった「漢訳経典を中心にする仏教」と、インドよりチベットに直接伝わった「チベット仏教」の二つがあります。

前者は中国の文化レベルが高かったため、仏教が中国化して伝わったといわれますが、後者ではインド文化とチベット文化のレベルの差があまりに大きかったため、チベット化せず、インド仏教がほぼそのまま伝わったといわれます。

実際、漢訳の大蔵経だいぞうきょう*3に比べ、チベット大蔵経は数倍の量があり、よりインド後期仏教のかたちを正確に伝えるものとされているのです。

また、チベット仏教には四大宗派*4があり、その最大のものはダライ・ラマ法王を中心とするゲルク派です。私はゲルク派の密教の総本山ギュメ寺に一九八八~八九年にかけて二年間留学しておりました。そして、後にギュメ密教学堂第九十九世管長になるロサン・ガンワン師に師事する機会を得たのです。

また留学帰国後は、当時東洋文庫に在籍されていたデプン寺ゴマン学堂元貫主のテンパ・ゲルツェン師に就いて五年間学び、ツォンカパの入中論註釈にゅうちゅうろんちゅうしゃく『中観密意解明』をすべて伝授していただきました。さらに、ガンワン師の遷化せんげ後、留学中に『入中論』などの指導を受けたギュメ密教学堂第一〇一世管長でセラ寺チェ学堂第七十五世貫主となったロサン・デレ師に就き、現在もチベット仏教を学んでいます。

近年はインターネットや動画コンテンツの発達により、ダライ・ラマ法王の過去の説法会がYouTubeでいつでも何度でも拝聴できるようになりました。日本にいながらにして法王の説法会から多くを学ぶことができるようになったのです。

ダライ・ラマ法王はパブリックトークの時とは違い、説法会では多くの碩学せきがくをはじめとしたチベット僧侶が主な対象者ですので、仏教用語などが当然わかっていることを前提として手加減なしにお話しになります。私も長い時間を経て、最近やっとついて行けるようになりましたが、それは、今までの阿闍梨あじゃり方の伝授があってこそのことと感じています。無論、全てがわかるわけではありませんが、自分の理解できた範囲で精一杯、この本に反映させていただく所存です。

さて、大乗仏教において、一切衆生いっさいしゅじょうを救済するために仏陀ぶっだを目指す人のことを「菩薩ぼさつ」と呼びます。そして、この菩薩となりうるか否かは「菩提心ぼだいしん」という心を持てるか否かにかかっているとしています。

この「菩提心」とは、いったい、何なのでしょうか。これについて書かれたもので最も有名なものが、前述した八世紀のインドの僧、シャンティデーヴァによって著された『入菩薩行論』なのです。『入菩薩行論』というと難しそうですが、シンプルに「菩薩行ぼさつぎょうに入る方法」という意味です。この著作には次のような言い伝えがあります。

北インド・ブッダガヤの西の国の王子に生まれたシャンティデーヴァは、即位が近づいてきたある晩に夢を見ました。玉座に座った文殊菩薩もんじゅぼさつが出てきて、「ここは私の座である。お前が座るべきではない」と言ったのです。

夢から覚めたシャンティデーヴァは、これは「自分が王位を継承せずに出家せよ」との夢諭ゆめさとしだと考え、王位を捨て、大僧院であったナーランダ僧院*5に入ることにしました。

実際には高い境地の修行者であった彼ですが、その生活は外から見ると、寝て食べて排泄するだけのように見えたのです。彼の境地が理解できない血気にはやるナーランダ僧院の若い僧侶たちは、年配の僧侶が止めるのも聞かず、シャンティデーヴァを追い出そうとして一計を案じます。それは、彼に説法会を依頼して恥をかかそうというものでした。

もしや夜逃げするのでは、との僧侶たちの期待をよそに、説法会当日、玉座に上ったシャンティデーヴァの説法は見事で、そのわかりやすさにナーランダ僧院の僧侶たちは皆、シャンティデーヴァの弟子になったということです。

また、「シャンティ」とは“鎮める”、「デーヴァ」は“神”の意味で、若い僧たちの高慢を鎮めた神のような存在という意味の渾名あだなが付き、シャンティデーヴァと呼ばれたとされます。この説法会の内容が『入菩薩行論』なのです。

私は、デプン寺ゴマン学堂のクンデリン・リンポーチェから拝受したダライ・ラマ法王御自身による註釈書をもとに、ツォンカパの後、ガンデン寺座主となったギャルツァプ・ジェの註釈、私の師であるロサン・ガンワン師のさらに師匠であるロサン・トゥンドゥプ(一九一一~一九七七)の註釈『入菩薩行論新釈“ロサン・ラマの口伝”』(ガンデン寺ジャンツェ学堂図書館コンピューター・センター刊、2008)などを参考にし、京都の雲龍院などで僧侶の方々や有志の方を中心に『入菩薩行論』の勉強会を続けて参りました。

読者の皆様にもできる限りわかりやすく「菩提心とは何か」「大乗仏教とはどんな教えなのか」を説明していくつもりです。

では、『入菩薩行論』をナビゲーターとして、仏教の世界に皆様をお誘いしたいと思います。

*1─ラマ……師を表すチベット語。チベット仏教、特に密教では、全ての教えは師に伝授されて初めてわかるものなので、ラマを全ての功徳の根源と考え、最も重視している。

*2─帰依……自分の行状を全てご存じだと思い、全てを任せること。菩薩として自分も仏の徳を備えた存在になりたいと思って全てを任せること。

*3─大蔵経……釈尊の説いたとされる経典と、それに対する註釈の総称である。チベット大蔵経はカンギュル(仏説部)とテンギュル(論疏ろんしょ部)からなり、中国や日本の大蔵経が和漢撰述文献を含むのに対し、チベット人の撰述文献を含まないことが特徴である。

*4─四大宗派……サキャ派、カギュ派、ニンマ派と、ツォンカパを開祖とするゲルク派である。

*5─ナーランダ僧院……五世紀に成立したインドのビハール州にあった世界最古の仏教大学。七世紀には、玄奘三蔵げんじょうさんぞうが留学をしたことで有名である。一一九三年にイスラム勢力の侵入により破壊された。

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