見出し画像

ヘロインなんか俺には効かない…アウトロー麻薬取締官が挑むノンストップミステリ #2 ヒートアップ

麻薬取締官・七尾究一郎は、製薬会社が極秘に開発した特殊薬物「ヒート」によって起こった抗争の捜査を進めていた。そんな折、殺人事件に使われた鉄パイプから、七尾の指紋が検出される。一体、誰が七尾をはめたのか……? 『さよならドビュッシー』などで知られる人気ミステリ作家、中山七里さんの『ヒートアップ』は、最後のどんでん返しまで目が離せないノンストップアクションミステリ。前作『魔女は甦る』とあわせてじっくり読みたい本書より、一部をご紹介します。

*  *  *

「はーい、こちら注目」と、拘束された三人に試験管を振って見せる。

「この試験管の中にあるガラス管、見えるよね。この中には透明のシモン試薬ってのが入ってて、覚醒剤と混合させると色が変わります」

画像1

そして試験管越しにガラス管を折った。中から溢れた透明液は白い結晶体に触れ、見る見るうちに青藍色に変わっていった。

「はい、終了。見事に色が変わりました。もちろん後で本鑑定に回すけど、この結晶は十中八九覚醒剤だからね」

「何か抗弁することはあるか。あるなら今聞いといてやる」

鰍沢が問いかけると、黒シャツが不貞腐れたように反応した。

「言っとくけど、これは俺たちのセカンドビジネスだからな。組とは何の関係もない」

「そうやって組を庇う気持ちは分かるがな。団体を名乗る以上、その構成員のしでかした不始末は団体の責任者である組長の罪になる。まあ覚悟しておくんだな」

「もう一ついいか。どうして、あいつはあんな風に平気なんだよ。ついさっきヘロイン十グラムを注射したばかりなんだぞ」

その数量を耳にしてさすがに釣巻と熊ヶ根は顔色を変えたが、鰍沢は至極当然といった表情で「何だ、そんなことか」と答えた。

「俺たち麻取には、麻薬なんぞに負けて堪るかという鋼鉄の意志がある。それがある限りクスリなんかじゃ欠伸も出ないのさ。分かったか」

麻薬取締官事務所には留置場がないので、麻布署の留置場に黒沢たち三人を送ることになった。釣巻と熊ヶ根に護送を任せると、鰍沢が今までの冷徹な表情をかなぐり捨てて、車中の七尾に駆け寄って来た。

「十グラムだと! 大丈夫かよ、おい」

「反応遅いねえ。第一、俺たちには麻薬なんかには負けない鋼鉄の意志があるんでしょ」

「あんなの方便に決まってるだろ。ヤー公相手に何をどう言えってんだ。それより本当に大丈夫なのか。いくらお前でも」

七尾は苦笑しながら片手をひらひら振って見せた。

「それより消毒用のアルコールくれないかな」

鰍沢はコンソール・ボックスから救急ケースを取り、中から薬用アルコールを差し出した。七尾はアルコールを含ませたティッシュを注射痕にあてがう。消毒していない針を刺すと痕に黴菌が残り、やがて赤黒い傷になる。麻薬常習者の腕に無数の注射痕が残っているのは、それが原因だ。

「こんな仕事だからね。腕に注射痕残したら後に差し支える」

「いや、だから注射痕じゃなくって、先にヘロインの方を心配しろよ。普通、逆だろうが!」

「おとり捜査官としてはとりあえず外見が最優先事項でね。うん? 待てよ。だったらジャンキーっぽくするのに注射痕残しておいた方が便利だったかな」

「……馬鹿に構って損した」

「これ、返しておくよ」

己の口に手を突っ込み、中から摘み出したのは義歯だった。鰍沢はハンカチでそれを受け取り、矯めつ眇めつする。

「しかし、こんなのに発信機が埋め込んであるとは夢にも思わなかっただろうな」

鰍沢は鼻を鳴らして公用車を出した。平日の午前四時。みぞれまみれの幹線道路はいつもより交通量が少ない。この分なら事務所までは十分足らずで到着するだろう。

覚醒剤は砒素のように体内に蓄積することはなく、成分そのものは数日のうちに体外へ排出される。麻薬全般が問題にされるのは、薬効以外に身体と精神に依存性をもたらすためだ。使用を中断すると嘔吐、筋肉痛、下痢や便秘などの不快な症状に陥るのが身体依存性。抑鬱、不安、焦燥に囚われるのが精神依存性だが、乱暴な言い方をしてしまえばこうした依存性さえなければ麻薬はただのクスリでしかない。

そして、七尾は麻薬をただのクスリとして扱える特異な存在だった。

画像2

関東信越地区麻薬取締官事務所は中目黒二丁目にある。東京都職員住宅と共済病院に挟まれた形だが、建物自体は目立つものではない。

一階の調査室と所長室を抜け、奥の階段に向かう。階段を上がれば情報官室、そして捜査第一課と二課の部屋が並んでいる。

捜査第一課は、医療薬物の不正使用を防ぐために製薬会社や病院などに立入検査をして適切な助言を行う。第二課は、医療機関と協力して薬物乱用者の治療や社会復帰に助言を行う。そして情報官室は捜査部門の後方支援を担っている。七尾たちは一課に籍を置く取締官だった。

部屋に入ると、暖気がむわっと全身を包み込んだ。だがヘロインの残滓のためか気温の変化を瞬時に知覚できない。

見渡したが、まだ釣巻と熊ヶ根の姿はなかった。デスクワークをしていた杵田は、七尾の姿を認めると奥の課長室を無言で指差した。

「俺は報告書作っとくから。ほら、行って来い」

鰍沢に促されて部屋に入ると、篠田課長が正面を向いて待っていた。

「寒い中、ご苦労さん。何か温かいものは?」

「いえ。お構いなく」

「シャブ三十一グラムにヘロイン十二グラム押収。逮捕した三人を絞れば、まだまだ組の方からブツが引っ張れるでしょう。いつもながら見事なお手並みでした」

篠田は満足げに七尾を迎えたが、すぐに気遣う顔になった。

「しかし、ヘロイン十グラムを打たれたと報告を受けましたが……」

「ああ、後で診てもらいますが自覚症状はないので、多分大丈夫だと思います」

「お願いしますよ。関東信越地区のエースをおとり捜査のせいで失ったりしたら、上に合わせる顔がない」

篠田は鷹揚に笑って見せたが、屈託のない笑顔なので見ているこちらもつられて笑ってしまう。

麻薬取締官には薬剤師国家試験に合格して採用された技官と、国家公務員試験に合格して採用された事務官の二通りがある。篠田は事務官から課長になった人間だが、現場で働く取締官には相応の敬意を払う人間だった。公務員にはありがちな偏狭さや不遜さもなく、その意味では信じるに足る上司だと七尾は思っている。

「今回は麻布署も密かに追っていた事件でした。彼らの鼻をあかしたという言い方は嫌ですが、これでますます検挙率の差が広がったので組織再編論の抑止力になります」

「また、そんな話が出てるんですか」

「新政権の掲げたマニフェストが省庁再編による公務員数の削減。麻薬対策課もきっちり目をつけられてますが、小泉さんのお蔭で増えた人員を今更減らしたくない、というのはどこの省庁も同じでしょう」

七尾たち麻薬取締官は厚生労働省医薬食品局の麻薬対策課に所属している。ただ任務の内容が警察の薬物犯罪取締とかぶるため、過去には橋本行政改革で国家公安委員会の下に置かれ、警察組織に吸収される寸前までいったこともある。七尾のような一般職員は所属する部署の名称が変更になるだけで仕事が変わる訳ではないが、省庁本体や役職者には死活問題だろう。

「特に七尾究一郎の名前は警視庁のみならず関東一円の捜査員の耳にまで轟いているようだから」

「それはあくまで我々がおとり捜査を許された存在だからでしょうね。警察ではおとり捜査は違法行為なのだし」

「いや、それがなくともあなたの存在は警察にとって脅威ですよ。しかも彼らは宮條貢平という向こうのエースを失ったばかりだから、その思いは尚更でしょう」

その名前を聞いた刹那、胸がちくりと痛んだ。警察庁生活安全局所属、宮條貢平――人事交流で知己となったその男は長きに亘って七尾の良き協力者であり、それ以上に兄弟同様の交わりがあった。明け透けに言ってしまえば、自分が麻薬取締官として評価されている大部分は宮條から薫陶を受けたものだ。薬物犯罪への苛烈なまでの怒り、広範な知識、そして徹底した現場主義。その言葉にどれだけ心酔しただろう。知らぬ間に彼の喋り方を真似し始め、気がつけばプチ宮條などと揶揄されるようにもなった。彼の存在なくして今の自分は有り得なかっただろう。

その宮條も二ヶ月前に殉職してしまった。それも考えられる限り最悪の形で。正直、今回のおとり捜査で多少の無理をしたのも、宮條のいなくなった事実を忘れたかったという理由がある。

「お呼びしたのは、実はその宮條さん絡みでもあります。ヒートについては、今更わたしから説明するまでもないでしょう」

その通りだった。そもそもヒートの捜査は七尾の専管であり、宮條が命を落としたのもその事件に巻き込まれたからだ。

ヒート――それはドイツの製薬会社スタンバーグ社が局地戦用に開発した兵士のための向精神薬だった。薬剤が脳髄に達すると、人間の破壊衝動と攻撃本能を呼び起こし、どんな臆病者も人間兵器に変えてしまう悪魔のクスリ。そのサンプルが渋谷近辺の子供たちの手に渡り、子供同士の抗争が激化したのは数ヶ月前のことだ。

「所沢市で起きた事件については報告書を読みました。ヒートを製造していた研究所は灰燼に帰し、解毒剤のデータも焼失。本社は知らぬ存ぜぬの一点張り。この方面からの情報収集はもう不可能だと?」

「ええ。この先はどうせ外務省から要らぬ干渉が入る可能性が大かと思われます」

「渋谷の子供たちにヒートを売っていたのはMR(Medical Representatives)、つまり医薬情報担当者の仙道寛人である、という結論は納得できました。子供たちの証言もありますしね。では、仙道寛人の消息については?」

「杳として知れません。スタンバーグ社の関係者が一斉に雲隠れした時期と同じくして、消息を絶っています。個人的には口封じされたのではないかと思っているんですが」

すると、篠田はゆるゆると首を横に振った。

「ひょっとしたら活動を再開したかも知れません。これは渋谷署から得た情報ですが、今年に入ってからまたヒートが市場に出回っているようなのです」

「何ですって」

「一昨日、渋谷の子供たちの溜まり場で乱闘事件がありました。よくあるチーム同士の抗争ですが、その巻き添えを食って無関係の少年がひどい重傷を負いました。そして加害者である少年に尿検査を施したところ、ヒートの成分が検出されたんです」

七尾は憮然として言葉を失う。しばらく忘れていた悪夢を久しぶりに見る思いだった。

◇  ◇  ◇

連載はこちら↓
ヒートアップ

画像3

紙書籍はこちら

電子書籍はこちらから