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科学も仏教も「生きる意味」を与えてくれない…なら、どうする? #5 真理の探究

「仏教」と「近代科学」。一見、正反対のように見えますが、アプローチこそ違うものの、共通する部分がたくさんあることをご存じでしょうか? 『真理の探究――仏教と宇宙物理学の対話』は、仏教学者・佐々木閑さんと物理学者・大栗博司さんが、釈迦の教えから最先端の科学まで、縦横無尽に語り尽くしたスリリングな対話集。その一部を抜粋してご紹介します。

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目的や幸福は自分で見つけるしかない


大栗 人生の意味は何か、幸福とは何かという問いに対し、普遍的な答えはないのでしょう。しかし、私は人類のつくった文明は尊いものだと思っています。

もちろん、およそ五十億年後に太陽は終わりを迎えて巨大化し、地球はそれに飲み込まれてしまうので、この文明が永遠に続くことはありえません。宇宙の長い歴史の中で、人類の存在はほんの一瞬の出来事でしょう。
 
しかし、太陽のエネルギーをそのまま宇宙空間に放出するのではなく、たとえ短い時間であっても、それを集めてそれまでの自然界にはない何かをつくり上げたことには意味があると思うのです。

ですから、私たちの文明を維持し発展させることに貢献することには価値があり、それ自体がひとつの幸福と言えるのではないかと。
 
いずれにしろ、宇宙そのものに意味がないとすれば、生きる目的は最初から与えられているわけではありません。目的や幸福感は自分で見つけるしかないでしょう。あるいは、目的のない人生に耐えていくということですね。
 
佐々木 私は耐えて生きるのはしんどいから、自分で目的をつくる人生がいちばん幸福だと思います
 
大栗 仏教はほかの宗教と違って生きる意味を与えないので、その目的は万人に共通の普遍的な意味を持つものではないですね。
 
佐々木 私はむしろそれが仏教の良いところだと思っているんです。普遍的な幸福とは、誰もが当たり前に考えるふつうの幸福ですよね。それよりも、自分だけの幸福のあり方を自分で見つけていくことのほうが大事ではないでしょうか。
 
私自身は、やはり釈迦の人生がひとつの目標であり、お手本です。釈迦は、自分自身でいかに生きるかを決めて、いちばん好きな道を選んで邁進していたら、いつの間にか仏教という新しい世界的な文化を生み出していました。

利得や名声のためにやったわけではありません。自分の好きなことをやった結果、それが人類にとって意味のあるものだと気づいた。こんなに素敵な人生はないと思うんですね。

自分の力で何かを成し遂げる喜び


大栗 私の場合は、この世界をより深くより正しく知りたいというのが、素粒子物理学を研究分野に選んだときの目的でした。

その研究を通じて新しい発見をした瞬間には、美しい絵画や音楽を鑑賞したり、おいしいものを食べたりするときとは、質的に違う喜びがあるように思います。自らの力でこれまで人類が知らなかった何かを見出したということに、深い価値があるように感じられるのです。

もちろん宇宙そのものに意味はないので、その研究を通じて得られるものにも究極的な意味はないのかもしれません。でも、その喜びの深さは、私にとっての幸福と呼んでいいように思います。
 
自らの力で何かを成し遂げる喜びというのは、科学の研究に限ったことではありません。たとえば、美しい音楽を聴くことは楽しいですが、楽器を演奏したり、さらには作曲をしたりするほうが喜びが深いでしょう。

与えられたものを享受するだけでなく、自分の力で世界に働きかけ、何かを見出したりつくり上げたりすることには、価値があると思います。
 
しかし、生きる意味を自分の力で見つけていくというのは、困難な道でもありますね。
 
佐々木 宗教の本質は、本源的な苦しみを軽減してくれるような世界観を提供するところにあります

「死ぬのはいやだ」という、人の本能的苦悩に対処するため、「肉体は死んでも魂は死なない。その死なない魂には永遠の安楽が約束されている」と説くキリスト教やイスラム教が大いに安心のもととなったことは当然です。
 
これらの宗教が説く世界観を疑いようのない事実として受け入れることのできる人にとっては、それはこの世で最高の救済となります。「死んだあとに最高の幸福が待っている」と言うのですから、これ以上の喜びはありません。

もし私が、これらの宗教が登場した時代に生まれていたなら、一も二もなく、その世界に身を委ねたでしょう。
 
しかし問題は、現在の科学的世界観の世の中で生きる私たちは、そういった自分の死後にとって都合よく組み上げられた死生観の実在性を信じることができないという点にあります。
 
そしてそういった絶対者、救済者の存在を信じられない人にこそ、釈迦の仏教が説く「誰も生きる意味を与えてくれない世の中で、絶望せずに生きるためには、自分の力で生きる意味を見つけていかねばならない」という教えが意味を持ってきます。
 
ですから、「自分の力で生きる意味を見つけていくなんていう困難な道は、とても進めない。私はまわりの誰かが説き示してくれる救済の道を信じて、それについていくしかない」と考える人にとっては、釈迦の仏教は影響力を持ちません。

実際、そう考えて、釈迦の仏教からの脱却を図ったのが大乗仏教です。
 
そう考える人たちに対して「あなたは間違っている。真実は我々の教えにあるのだから、私たちのほうに鞍替えしなさい」と説得する力を、釈迦の仏教は持ちません。

釈迦は「分かる人にしか分かってもらえない教えだから、分かる人のためにだけ説き広めよう」と考えて仏教を創始したのですから。

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真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話


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