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「だれもわかってくれない」妻が遺した言葉…「わかりあえない気持ち」に向き合う再生と希望の物語 #3 骨を彩る

十年前に妻を失うも、最近心揺れる女性に出会った津村。しかし罪悪感で喪失からの一歩を踏み出せずにいた。そんな中、遺された手帳に「だれもわかってくれない」という妻の言葉を見つける。彼女はどんな気持ちで死んでいったのか……。

わからない、取り戻せない、どうしようもない。心に「ない」を抱える人々を痛いほど繊細に描いた、彩瀬まるさんの『骨を彩る』。全国の書店員さんが涙した本作から、第一話「指のたより」をご覧ください。

*  *  *

そう自分を納得させようとしても、津村にはどうしてもひっかかることがあった。妻の、欠けてゆく指だ。あれはなんなのだろう。指さえ欠けなければ、ただなつかしく幸福な夢として甘受することが出来るのに。霊現象などはこれっぽっちも信じていないけれど、もしかして本当に妻の霊がなにかを訴えようとしているのだろうか。まさか。妙な考えを打ち消して、片付けを続ける。台所の調味料を整理し、賞味期限の切れた食材を捨てる。ごちゃごちゃと棚の上に積み上げられていた雑誌やCDを片付け、ラックに入りきらない分は段ボールにまとめて押し入れへしまう。長らく見ないフリをしていた、ファイルと書類が山積みになった自分の机にも手をつけた。不要な書類を処分し、引き出しのスペースを作っていく。

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机の、一番下の引き出しの整理をしているときだった。ノートとノートのあいだに、朱色の小さな手帳が挟まっているのを見つけた。なつかしい。なんだっただろう、これは。けれど、たしか、大切なものだ。

表紙へ触れた瞬間、相川光恵の千代紙細工に触れた時と同じ、肌のそわつくような嫌悪感が指先から這い上がってきた。一瞬、ちりりとこめかみが痛む。読まない方がいい。そんな気がした。それなのに、指は勝手にページをめくった。

右上がりの丸文字が、ページ全体をびっしりと覆っている。好きな歌の歌詞や、詩や、小説からの抜粋。妻の手帳だ。妻には、好きな言葉を書き溜める趣味があった。後で読み返すことよりも、彼女は言葉を書くことそのものに執着していたように思う。暇さえあれば背中を丸めてボールペンを動かしていた姿が、今もまぶたに残っている。

亡くなったとき、彼女の手帳は三冊目に突入していた。形見分けにあたって、十代の彼女が綴っていた一冊目は彼女の姉が、二十代前半の彼女が綴った二冊目は小春が、そして、亡くなる間際の彼女が肌身離さず持っていた三冊目は、津村が引き取った。

三冊目の手帳の前半は濃い紺色のペンで、後半はそれよりも少し色の淡い青色のペンで書かれている。途中でインクが無くなって、ペンを交換したのだろう。掃除の手を止めてぱらぱらとページをめくり、津村は一ページ目から順になつかしい妻の筆跡を追い始めた。書名や作者名、ページ数などの短い但し書きの下に、抜粋された文章が太いレースを貼り付けたように並ぶ。

妻は、物語の肝や盛り上がりのシーンよりも、登場人物が道を歩きながらどんなものを見て、夕飯にはどんなものを食べたか、来年のクリスマスには何を欲しがっているかなどを匂わせる細々としたシーンを書き抜いていた。金柑の木、錆びたガードレール、エビの粉末スープ、かじかんだ子供の膝、ムートンブーツ。ページをめくってもめくっても、ありふれた日常を愛でる、光る小石を集めたような抜粋が続く。娘によれば、二冊目の手帳には稲川淳二の怪談話が丸々一話書き写されていたらしいので、妻は昔からずっとこんな淡々とした文章ばかりを好きだったわけではないのだろう。年月と共に嗜好が変わっていったのか。

ページが進むにつれて妙な息苦しさを感じ、津村は喉を鳴らした。無意識に呼吸が浅くなっている。なんだろう。確認したい、と思う。この先に、何もないことを、確認したい。嫌がる指を紙面から引き剥がし、ページをめくった。

手帳の中ほど、谷川俊太郎の詩とハンバートハンバートの歌詞の間に、ぽつりと浮かび上がるような短い一文が書き込まれていた。目が、吸い寄せられる。

だれもわかってくれない

鳥肌が立った。だれもわかってくれない。これは、書き抜きではない。妻の言葉だ。そうだ。

十年前、葬儀が終わり妻の部屋を片付けていた最中に、本棚の奥からぽろりとこの三冊の手帳が出てきた。手伝いに来ていた義姉と、それぞれ適当に一冊ずつ手にとってページをめくり、泣き笑いをしながら「朝子、こんな言葉が好きだったんだね」「ムーミンとか、なつかしいな」と言い合った。その時、たまたま三冊目を持っていた津村がこの一文を見つけたのだ。だれもわかってくれない。弔ったばかりの妻の、血がにじみだすような悲嘆に触れて、津村は手帳を持つ指先がみるみる冷えていくのを感じた。声の震えを抑えながら、「よければ一冊は義姉さんが持って行ってください。この一冊は俺と、あと、将来娘にも一冊持たせてやりたいな、母親の筆跡だから」となるべく軽い口調で言って、手帳の所有権をその場で分けた。そして、手に入れた三冊目をそのまま机の引き出しの奥へとしまい込んだ。

誰にも見せられなかったし、自分でも読み返せなかった。

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妻は、憎んでいたのだ。薬の副作用で髪が抜けていくことも、食事の味がしなくなっていくことも、おぞましい手足のむくみも、手術の恐怖も、日々の苦痛も。忙しさを理由になかなか病院へ付き添ってくれない夫にも、手がかかる盛りの娘にも。どうやっても苦痛を分かち合えない実の親に対してすら、悲しみと苛立ちを募らせていた。言葉尻が、意地悪く曲がった。家から出るのを嫌がるようになった。常に機嫌が悪く、友人であれ知人であれ、口を開くたびに周囲の誰かを嘲笑した。津村との会話を嫌がるようになった。泣き止まない小春の頬を、感情にまかせて叩いたこともある。火がついたように泣きだした小春を自室へ連れて行き、「ママは病気なんだ」とあやしながらも、津村はだんだん妻をいたわれなくなっていく自分に気づいた。あんなに明るくみずみずしかった妻が、ぼろぼろと欠けて、よどみ、不幸を溜めた土くれのようになっていく。どうしても足が家へ向かうことを嫌がり、あえて帰宅を遅らせる日も珍しくなくなった。

「あなたは、人間が冷たいのよ。跡取りのおぼっちゃんで、お母さんたちに甘やかされて育ったから、人の気持ちがわからないの。かわいそうな人」

深夜に家へ帰りついた際、居間で本を読んでいた妻にそう言われたことがある。津村は返事をせず、ネクタイをゆるめて風呂場へ向かった。あの時、妻はどんな顔をしていただろう。いくら記憶の妻を振り返らせても顔の輪郭が歪んでしまう。代わりに、妻を恐ろしく思った瞬間の心臓に錐を刺し込まれるような痛みは、感傷の甘さと共にたやすく蘇った。こわかった。そうだ、こわかった。痛めつけられて、俺はどうしようもなく悲しかった。

手帳を元の位置へしまい直し、津村は引き出しを閉じた。そして、頭の混乱を収めるため、気に入っている洋楽のアルバムを流し、見知らぬ男女の歌声に意識を集中させてなんとか部屋の掃除を終えた。そして、娘から「部活終わった。今から帰るよ」と電話が入ると、フライパンを熱して豚肉と人参とキャベツで焼きそばを作り始めた。隠し味にビールを入れる。流し入れた瞬間、ざあ、と大きく白い湯気が上がる。

初めて焼きそばを作ってやったとき、この湯気に驚いて「ぱぱ、すごい! すごいね!」とキッチンで小さな手を叩いた四歳の娘の表情を、津村は今も覚えている。


それから数日して、また妻の夢を見た。正確には、妻の待つ家へ帰らなければいけない夢だった。予定外に早く仕事が終わってしまい、事務所を出た津村は困った声を作って家へ連絡を入れた。「急な飲み会が入ったから、夕飯はいらないよ。もう作っちゃってたら、明日の朝につまむから」妻の声はノイズに紛れてよく聞こえない。携帯を切り、宵の口で温まり始めた繁華街へ向かった。ラーメン屋でレバニラ定食を食べ、よく使っている飲み屋に向かいかけたところで、思い直して駅へと方向転換した。電車に揺られ、数駅先の少し開けた町に降りる。顔見知りのいないジャズバーで二時間ほどウイスキーを傾け、最後に飲み会という方便のため、パチンコ屋の店内をぐるりと一周して煙草の匂いを強めてから電車に乗った。

不思議と、車内で揺られる乗客たちの指の数は不安定だった。つり革やポールを握る、長い指、白い指、荒れた指。四本、七本、六本、三本。津村はふと、自分の指の数もおかしくなっているかも知れないと不安になった。腹の底が冷え、なるべく手元を見ないまま電車を降りる。改札を出て携帯を開くと、自宅からの着信が十件入っていた。

妻の指は、減ったのだろうか。あれ以上減ったら右手が無くなってしまう。

もしかしたら妻は、片手が無くなってしまった、と悲しんで電話をかけてきたのかも知れない。悪いことをした。さぞ心細い思いをしているだろう。こんな時ぐらい、そばにいるべきだった。そんなことを思っていたら、目が覚めた。

片手が無くなる? 津村は天井に自分の手をかざしてみた。昨日と同じく、ささくれの浮いた乾燥気味の指がきちんと五本とも揃っている。妻は片手どころか、全身が無くなってしまった。火葬炉から引き出された、灰色がかった薄い骨。この世から、一人の人間の顔が無くなるということ。

「パパぁ、七時。遅刻するよ」扉越しに響く娘の声に、津村は布団から起き上がった。

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骨を彩る 彩瀬まる

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