あなたへ #2
森沢明夫さんによる『あなたへ』は夫婦の深い愛情と絆を綴った、心温まる感涙小説です。刑務所の作業技官の倉島は、亡くなった妻から手紙を受け取る。妻の故郷にもう一通手紙があることを知った倉島は、妻の想いを探る旅に出る。
◇ ◇ ◇
夏の夜空に、天の川が渡っていた。
だが、頭上がきらびやかなぶんだけ、その下にある峠の展望台の駐車場には幽寂とした闇が沈殿していた。
駐車場の周囲は、ぐるりと濃密な樹々に覆われている。
頭上では、影絵を思わせる幾千もの枝葉が生暖かい夜風と戯れて、ざわざわと不穏な音を立てていた。
明滅を繰り返す自販機が、ひとつ。
古びた水銀灯が、ふたつ。
それらの頼りない光源には無数の蛾たちが吸い寄せられ、狂ったようにガラスにぶつかりながら乱れ飛んでいた。
その明かりすらもほとんど届かない駐車場の最奥部には、紺色のハイエースワゴンが停まっていた。ワゴンはまるで、何年も前からそこに捨て置かれているように、ひっそりと闇に同化していた。数十台は停められそうな駐車場だが、午前零時をまわったいま、停まっているのはこのワゴン車だけだった。
「蜘蛛は網張る私は私を肯定する……」
バックシートを倒したそのワゴン車の運転席で、白髪頭の杉野輝夫がぽつりと天井に向かってつぶやいた。
放浪の俳人、種田山頭火の句だ。
つぶやいた句はすぐに闇に吸い込まれるように霧散し、ふたたび耳鳴りのしそうな静寂が車内を満たした。
杉野は首にかけていたタオルで、脂ぎったあばた面に滲んだ汗をごしごしとぬぐう。
ワゴン車のエンジンは停止させていた。したがってエアコンも切ってある。車内はひどく蒸し暑かった。せめて窓を開けて風を取り込みたいところだが、そうすれば今度は蚊が一斉に飛び込んでくるし、この車内に人が存在することを獲物に感づかせてしまう可能性もある。だから、閉め切っておく。
還暦を一年ほど過ぎた身体にこの熱帯夜はさすがにこたえるが、蜘蛛が獲物を捕えるには気配を消しておかねばならないのだ。
しばらくすると――。
駐車場に一台の車が滑り込んできた。
杉野は倒していたバックシートからわずかに上体を起こし、その車の様子をそっと覗き見た。展望台へと続く遊歩道の階段からいちばん近い自販機の前に、白いセダンの高級車が停まった。
「ようこそ、蜘蛛の巣へ」
ひとりごとをつぶやいて、杉野はセダンのなかから人が出てくるのを待つ。
最初にドアが開いたのは助手席で、緩慢な動作で降り立ったのは予想どおり若い女だった。続いて運転席から背の高い男が降り立つ。男の方は、女よりも十歳ほど上に見える。
男は車を回り込むと、女の肩を抱いて歩きだした。女の手も、男の腰に回される。二人はぺったりと上半身をくっつけて、もつれ合うように展望台へと続く階段を登りはじめた。
「ごゆっくり、どうぞ」
つぶやいた杉野は、あばたの浮いた頬を歪ませた。
笑ったのだ。にやりと。
この駐車場から展望台までは、片道十五分。往復で三十分かかる。カップルならば、夜景を見下ろしながら、しばらくはいちゃつくだろう。つまり、彼らがここに戻ってくるまでは、少なくとも四十分はかかる計算だ。杉野が仕事を完遂させるには、充分すぎる時間だった。
この上の展望台には、丸太で作られたベンチが三つあるだけで、自販機ひとつない。だから、いちいち財布を入れた鞄を持っては登らないだろうと杉野はふんでいたのだが、見事にそのとおりになった。二人は手ぶらで歩いていったのだ。
カップルの後ろ姿が見えなくなると、杉野は静かに運転席から降り立った。ルームランプを消し、ドアはわずかに開けたままにしておく。不用意にバタンと音を立てるのは素人のやることだ。
車外には森の匂いのする夜風が吹いていた。その風が、汗ばんだ杉野の首筋をすうっと撫でて、火照りを冷ましてくれる。
天の川に向かって両手を突き上げた。
んー、と大きく伸びをしてから、杉野はのらりくらりと無人の高級セダンに向かって歩きだした。背中を丸めてがに股で短い脚を運びつつ、グレーの短パンのポケットに両手を突っ込む。そして右手でジッポー型のターボライター、左手でミネラルウォーターの入った小さなペットボトルをつかみ出した。
展望台へと続く階段の下まで来ると、いったんそこで耳を澄ました。カップルの気配は完全に消えている。
杉野は高級セダンの運転席の脇に立ち、車に警報装置が付いていないことを確認した。
カチッと小さな音を立てて、ターボライターに着火した。
シューッ。
勢いよく噴き出す青い炎を窓ガラスの一点に吹き付ける。
二十秒も炎を当てていると、高熱で窓ガラスがぐにゃりと水飴のように歪んだ。
「こんなもんだろ」
ライターのフタを閉じると、今度はペットボトルのキャップを開けて、歪んだガラスに水をどぼどぼと降りかける。
ピシ……ピシピシピシ……。
乾いた音とともに、ガラスに蜘蛛の巣状のひびが入った。ガラスは急激な温度差に弱いのだ。
「なかなか、きれいな蜘蛛の巣だ」
満足げに目を細めた杉野は、芸術作品でも鑑賞するようにガラスのひび割れを眺めた。そして、ライターの尻でコツンと蜘蛛の巣の中心を叩たたいた。
バラバラバラ……。
細かく砕け散ったガラス片が、ほとんど音も立てずに車内へとこぼれ落ちる。
窓ガラスに、ぽっかりと丸い穴があいた。
焼き破り――。
このところ窃盗犯の間で流行している、ガラス破りの方法だ。
窃盗犯がガラス窓から侵入する方法はいくつか知られているが、実はどれも効率的ではない。たとえば杉野がかつて得意としていたピッキングには専門の道具や技術が必要だし、よほどの敏腕でない限り時間もかかる。粗野な外国人のようにガラスを叩き割れば、時間はかからないが、大きな音を立ててしまう。
その点、焼き破りはいい。ライターと水を持っていても警察には怪しまれないし、音もほとんどしない。鍵を開けるまでの時間もせいぜい一分あれば済む。
杉野はガラスに空いた穴から右手を突っ込んでドアロックを解除し、悠々と運転席のドアを開けた。
ルームランプが点灯して、車内を黄色く照らし出す。
助手席には女物のバッグがあった。高級ブランドだ。コンソールボックスの上には、男物の革鞄が無造作に置かれていた。
「チョロいですなあ」
両方の鞄をひょいと手にすると、男物の鞄のなかから長財布を抜き出し、ざっと中身を確認した。一万円札が十枚以上はある。杉野は福沢諭吉をひとつ抜き取り、それをダッシュボードの上に置いた。全額いただいてしまっては、万一、帰りにガス欠になったりしたときに不憫だし、ラブホテルの宿泊代金くらいは置いていってやるのがプロの心意気というものである。
杉野は自分が触れて指紋をつけた箇所をハンカチで丁寧にぬぐいとり、ライターの尻でスイッチを押してルームランプを消した。冬場は手袋を使えるため指紋を残す心配はないが、夏場は出会い頭の職質に備えて、手袋を持ち歩かないのがプロの常識だ。もちろん、犯行後に車のドアを閉めて音を立てるようなことはしない。半ドアのままで放置だ。
きらめく星空を見上げながら、杉野はゆっくりとワゴン車に戻り、助手席にポイッと高価な鞄をふたつ放り投げた。「よっこらしょ」とかけ声を口にして運転席に乗る。静かにドアを閉め、エンジンをかけ、エアコンのスイッチを入れた。
快適な涼風に、ため息をもらす。
「けふもよく働いて人のなつかしや」
山頭火の句をつぶやいてから、ワゴン車をゆっくりと発進させた。ここから先は、まず県警の管轄が変わる隣県まで車を走らせ、どこかで現金だけを抜き取ったあと、残りの鞄や財布は川にでも流してしまう。それがいつもの杉野のやり方だった。
駐車場を出て、ハンドルを左に切った。
そのまま暗い峠の坂道を下っていく。
峠を下りて国道に出たら、日本海沿いに南下していき、そのまま西へ向かおうと思っていた。理由はとくにないが、あえて言えば、「仕事」を繰り返しつつ東北地方から降りてきたから、なんとなくそちらには戻りたくないのだ。
今宵は、道すがら海に面したパーキングでも見つけて、そこをねぐらにして夜を明かすつもりだった。このワゴン車はキャンピング仕様に改造されているから、どこでも停めたところがその日の宿になる。明日は、風情のある温泉でも探して、ひとっ風呂浴びるのもいいだろう。
暗い九十九折りの坂道をひたすら下っていくと、やがて遠く樹々の間隙にちらちらと街の明かりが見えはじめた。
杉野はカーラジオのスイッチを入れた。
地方のFM局にチューニングを合わせると、天気予報が流れはじめた。甲高くて少しハスキーな声をした女が、明日は全国的に悪天になると報じている。日本海側では、ところによって激しい雷雨もあるらしい。
雷、か……。
カーブに沿ってステアリングをゆっくりと切りながら、杉野は遠い目をした。
あの日の雷は――、元女子高の国語教師らしく言えば、春雷というやつだったはずだ。寒冷前線の通過にともなってしばしば起きる、激しい春の雷。
杉野の頭のなかに、ふつふつと二十年前の放課後の教室の映像が甦ってくる。女子高特有の、汗と化粧品の混じったような甘ったるい匂いまでも、リアルに思い出してしまう。
あのとき――。
◇ ◇ ◇