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あなたへ #1

森沢明夫さんによる『あなたへ』は夫婦の深い愛情と絆を綴った、心温まる感涙小説です。刑務所の作業技官の倉島は、亡くなった妻から手紙を受け取る。妻の故郷にもう一通手紙があることを知った倉島は、妻の想いを探る旅に出る。

◇  ◇  ◇ 

第一章 それぞれの夏の夜

少し、肌寒いかな……。

リビングの椅子いすで文庫本を読んでいた倉島英二は、エアコンのスイッチを切り、代わりにベランダに通じるガラス窓を開け放った。

網戸の向こうの宵闇よいやみから、鈴虫たちの恋歌と一緒に、北陸のなまめかしい夏の夜風がふわりと忍び込んできた。

凜――。

窓辺につるした風鈴が、涼しげな音色を奏でる。

「いい音」

二人掛けの古いソファにぐったりと身体からだを横たえた妻の洋子が、少しかすれた声を出した。

「起きてたのか」

「ええ……」

洋子はエビのように丸くなって、ぼんやりと風鈴の方を眺めていた。薄手のタオルケットをかけていても骨格が透けて見えそうなほどに痩やせた身体が痛々しい。

「もうすぐ、八月も終わりだな……」

何気なくつぶやいた英二だったが、自分の口から出たその台詞せりふが不用意なものであったことに気づくと、続く言葉を失ってしまった。

しかし洋子はむしろ、ふっと微笑ほほえみながら明るめの声を返す。

「そうね。もう九月ね」

「……」

思わず、すまん、と謝りそうになった英二だが、その台詞だけはなんとか喉元のどもとみ込んだ。

八月が終われば、当然、九月だ。

だが、その九月は――五十三年という、あまりにも短すぎる洋子の人生に終止符が打たれると宣告された月でもあった。

悪性リンパ腫。

余命は六ヶ月。

担当医に宣告されたあの日から、ちょうど五ヶ月が経たった今日、洋子は久し振りに富山刑務所・職員官舎の二〇二号室――自宅へと帰ってきたのだった。

いわゆる「最後の帰宅」というやつだ。

洋子の身体に芽吹いたがん細胞は、すでに全身に転移していて、もはや医師たちには手のほどこしようがなくなっていた。つまり、癌は、憎々しいほどきっちりと余命宣告どおりに洋子の命を蝕むしばんでいるのだ。

凜。

ふたたび風鈴が鳴ると、洋子は怠だるそうな身体を起こして、「ふぅ」と気力を奮い立たせるような息を吐いた。

「ねえ、あなた」

「ん?」

「レモンスカッシュみたいな、冷たくてすっきりしたジュースが飲みたいわ」

夕食はほとんど喉を通らなかったのだが、飲み物なら受け付けるようだ。

「そうか。じゃあ、その辺で買ってくるよ」

読みかけの文庫本をテーブルに置き、英二は立ち上がった。

「わたしも、行くわ」

「え……」

凜――。

風鈴が鳴る。

「せっかく、気持ちよさそうな夜ですから」

洋子はソファの背もたれにつかまりながら、ゆっくりと立ち上がった。

「大丈夫か?」

「大丈夫なように、エスコートしてくださいね」

「エスコート?」

英二をからかった洋子は、くすっと笑って奥の部屋へ入ると、着ていた寝間着を着替えはじめた。

英二は着古したTシャツにジャージのズボンのまま財布を手にし、洋子の着替えを待った。

ところが、五分待っても洋子は奥の部屋から現れなかった。

まさか――。

「洋子」

声をかけつつ、ふすまを開けると、鏡台に向かって化粧をする妻の横顔があった。

「ごめんなさい。もうちょっとだから」

「その辺のコンビニまで行くのに、わざわざ化粧をするのか?」

よく見ると、着ている服までよそ行きのものだった。

ネックレスにイヤリングまで付けている。

いったい、どういう風の吹き回しだろうか。

抗がん剤治療をはじめてからはみるみる痩せて、張りを失った唇に、少し明るめの口紅をひいた洋子は、上下の唇をこすり合わせながら鏡に映る英二の顔を見た。

鏡の中で目が合うと、にっこりと微笑んだ。

「ちょっとだけ、頑張らせてくださいな」

「え?」

「きっと、最後のデートですから」

「……」

英二は何も言わず、自分もジャージのズボンを新しめのスラックスに穿き替え、Tシャツの上にパリッと糊の利いたボタンダウンの半袖シャツをはおった。

洋子と結婚したのは、十五年前のことだった。

当時、英二は四十八歳、洋子は三十八歳――多少の無理をすれば子供を授かれない年齢ではなかったが、しかし二人は穏やかで満ち足りた大人だけのつつましやかな人生を選びとっていた。

英二は木工専門の作業技官、つまり刑務作業をする受刑者たちに木工を教える指導員で、この十五年の間に四回の転勤を経験した。勤務先はもちろん、全国各地の刑務所だ。ここ富山刑務所はそんな英二にとって最後の職場となるはずだったのだが、定年後に思いがけず嘱託として再雇用され、今年で三年目に入っている。

「ねえ、裏道をくるっと回って行きません?」

官舎を出てやわらかな夜風を深呼吸した洋子が、左を指差した。裏道というのは刑務所の裏手の路地のことで、そこは田んぼと、小川と、用水路に面していた。

英二は「うん」と頷うなずき、刑務所の高い壁に沿って左回りにゆっくりと歩きだした。

「いい風……」

夜空を眺めるような上向き加減で、洋子が並んで付いてくる。髪の抜け落ちた頭には、白いサマーニットの帽子をかぶっている。その横顔が、なんだか遠いあの世を見詰めているようにも見えて、英二は逆に視線を落としてしまうのだった。

田んぼからは、無数のカエルの鳴き声が聞こえてきた。用水路はチョロチョロと心地よい流水の音を奏でている。昼間なら銀鱗ぎんりんをきらきら光らせた小魚の姿が見られる、澄んだ流れだ。

「そういえば、今年は蛍を見られなかったわ。残念――」

ふいに洋子が英二を振り向いた。

「そうだね」

この裏道には、梅雨つゆ時になると蛍が舞うのだ。数は多くないが、それでも毎年、洋子と夕涼みがてら散歩をしては、幻想的な緑色の光を眺めていたのだった。だが、来年はもう、こうして洋子と夜の道を散歩することすら叶かなわない。

英二は、ふらふらと頼りない足取りで歩く洋子の手をそっと握った。骨張って、ひんやりとした、はかない小さな手だった。ぎゅっと握ったら、泡のように消えてなくなりそうだ。

「あなたから手をつないでくれたのって、これがはじめて」

うれしいような、かなしいような声でそう言って、洋子はきゅっと英二の手を握り返した。

「エスコートするように、言われたからな……」

照れ隠しに言うと、洋子は「ふふっ」と笑った。

考えてみれば、なるほどこれがはじめてだった。「最後のデート」になって、ようやく自分から手を握れただなんて――、消極的すぎる己の性格が情けなくなる。

英二は物心ついた頃から、人より一歩さがって生きてきた。中学校の教師をしていた厳格な父親に頭を押さえつけられるようにして育ったせいもあるだろう。自分の意志で自分の道を切り開くことを、できる限り避けながら、毎日を過ごしてきたのだった。

思えば、作業技官になったのも、公務員を推した父の意見に従った結果であった。自分の唯一の趣味である木工を活かし、かつ、父の言うとおりの公務員……となると、道は、ただひとつ、刑務所の作業技官以外にはなかったのだ。そんなネガティブな消去法でもって、人生を大きく左右するであろう職業を選んでしまったのである。

しかし、結果的に英二はそのことを後悔してはいなかった。毎朝きっちり決まった時刻に起きて、規則にのっとった仕事をこなし、そして、誰にも迷惑をかけずに小さな塀のなかの世界で生きてゆくこと――。はからずも、それは英二の性にぴったりと合っていたのだ。

木工を教える相手が犯罪者であるというのも、むしろ好都合だった。刑務官の冷厳な視線のなかで常に規律正しく振る舞わなければならない彼らは、英二の指導に反抗することもなければ、不平を口にすることもないのだ。もしも塀の外の一般社会において「自分よりも立派な他人」を指導することになったなら、自分は負い目や不安を抱いてしまうだろう。そう思うと、犯罪者相手という多少のリスクはあっても、刑務所のなかの方がむしろ精神的に穏やかでいられるのだった。

もっと言えば、出世競争とは無縁の職種であることも幸いしていた。刑務官とは違い、英二の属する作業技官には、出世もなければ降格もない。何年経っても階級はずっと同じ中堅のままだから、周囲の人間関係に余計な気を遣わなくて済む。そんなところにも、居心地のよさを感じていたのだった。

どこまでも平坦な、受け身の人生――。

英二はひたすらそういう控えめな道だけを辿たどってきた。友人にも、女性にも、自分から積極的に働きかけることはなかった。そして、そんな生き方を分相応であると信じて疑わず、ただ、日々を淡々と平穏に暮らしていたのだった。

ところが、そんな地味でモノクロームだった英二の人生を、鮮やかな総天然色に塗り替えてしまう存在が現れた。それが、他ならぬ洋子だったのだ。


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