「死後の世界は存在するのか?」物理学者と仏教学者の対話 #4 真理の探究
「仏教」と「近代科学」。一見、正反対のように見えますが、アプローチこそ違うものの、共通する部分がたくさんあることをご存じでしょうか? 『真理の探究――仏教と宇宙物理学の対話』は、仏教学者・佐々木閑さんと物理学者・大栗博司さんが、釈迦の教えから最先端の科学まで、縦横無尽に語り尽くしたスリリングな対話集。その一部を抜粋してご紹介します。
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私たちは構成要素の集合体にすぎない
大栗 私は、死後の世界の存在は、ほぼ否定されていると考えています。意識が生まれるメカニズムはまだ解明されていませんが、自然法則に支配された脳の働きによることは間違いないでしょう。
そして、すでに確立されている自然法則を認めれば、脳内に蓄えられた情報が、死後にも保存される理由がないことは明らかです。佐々木先生はどう思われますか。
佐々木 先にも申しましたように、私は輪廻という現象は信じてはいません。この世には天・人・畜生・餓鬼・地獄という五種類の、あるいはそこに阿修羅も加えた六種類の生物界があって、あらゆる生き物はその世界で生まれ変わり死に変わりを永遠にくり返す、というのが輪廻思想です。
それを信じるということは、たとえば「地面をどんどん掘っていけばやがて地下深くにある地獄に行き当たる」ということを事実として認めるということです。そのような世界観を現代において信奉することは不可能です。
大栗 では輪廻という特定の世界観ではなく、もっと広い意味で、死んだあとも何らかの形で自分という存在が継続していくと信じていらっしゃいますか。
佐々木 信じません。なぜなら釈迦の教えによれば、私たちの存在はたんなる構成要素のゆるやかな集合体にすぎず、それが生まれ変わり死に変わりに際して離合集散していくのが輪廻だからです。そこには「自己」という不変の実在はありません。
これを仏教では「諸法無我」と言います。もしも業のエネルギーがなければ、死によって発散した「私」は二度と再構成されないはずなのですが、そこに業が作用して、再び別の形で「私」を形成してしまうので、輪廻がくり返されると言うのです。
この、「私たちは構成要素の集合体にすぎない」という考えは、釈迦独自の視点であり、私はそれを信じます。
そうしますと、いま言いましたように、私は業や輪廻という現象を信じませんから、結果として、私という存在は、「再構成の可能性を持たない、構成要素のゆるやかな集合体だ」ということになります。それはつまり、私に死後の世界はない、ということを意味します。
大栗 これは、さきほど私が申し上げた、「脳内に蓄えられた情報が、死後にも保存される理由がない」ということに通じますね。
ただし、科学では原理的にでも観測できないことについては語ることができません。死後の世界がないとすると、それを観測する主体もないわけですから、その有無を純粋に科学の問題として語るのは難しいと思います。
人生を自力で意味づけしていくのが仏教
佐々木 ここで申し上げておかねばならないのは、私自身が死後の世界を信じていないからといって、「死後の世界はある」と主張する人たちの立場を否定するつもりはまったくないということです。
大栗先生もおっしゃったように、「死後の世界があるかないか」という問題自体が、科学とは関わりのない宗教世界での問いですから、それに対する答えは科学的事実である必要がありません。
死後の世界があると信じている人にとっては死後の世界はあるであろうし、ないと信じている人にはない、そういった視点で答えるべき問題だと思っています。
ですから私自身は「自分の死後はない」と確信していますが、その確信が、他者にまで適用されるべきものとは思っていません。
私が宗教の世界に身を置きながらも、こういったフレキシブルな、あるいは今風に言えば「ゆるい」世界観で自己を支えていけるのも、仏教ならではのあり方だと思っています。
大栗 一神教では、神様が人間に生きる目的を与えてくれます。「神から役割が与えられているから、生きることには意味がある」と考えることができるのです。仏教は、人間には本来、生きる意味が与えられていると言いますか?
佐々木 言いません。
大栗 そこも大きな違いではないでしょうか。キリスト教は生きる意味を与えることで人間を救っているのだと思いますが、仏教にはそれがない。
佐々木 そうです。ですから、「生きることには意味がある」と言ってくれる宗教が大いに力を持ったときには、仏教はそれに太刀打ちできません。しかしみんなが「生きることには意味がない」と思い始めた時代には、逆にキリスト教やイスラム教に利用価値がなくなってしまう。
それに対して仏教は、本来的に意味を持たない自分の人生を、自力で意味づけしていこうという宗教ですから、有効性が高まるのです。
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