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人間を規定するものとしての言語は、もう終わってしまった #5 言語が消滅する前に

いまもっとも注目される哲学者といえば、國分功一郎さんと千葉雅也さん、この二人をおいて他にいないでしょう。『言語が消滅する前に』は、そんな二人がコロナ禍で加速した世界の根本変化について語り合った対話集。情動、ポピュリズム、安全至上主義、エビデンス主義、グローバル資本主義、弱体化する言葉……。いま世界で起きていることが見えてくる本書から、一部を抜粋します。

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人間はもはや言語によって規定されていない


國分 いままで千葉君とは重要な局面で何度か対談をしてきましたね。ただ僕としては、あまり頻繁に対談しているという感覚はないんです。

千葉 確かにそうですね。活字になった対談は数えるほどしかない。

國分 『キャプテン翼』の翼君と岬君のように、たまにゴールデンコンビが結成される(笑)。そういうイメージなんですよ。

千葉 個人的にはよく話してるんですけどね。

國分 よく話しているけど、世間的にはたまにしか現れないんです。そういうレアコンビですが、二人で話してきたことを世間的に訴えたほうがいい状況になってきているとも感じているんです。じゃあ、何をテーマに据えるかと考えたとき、やっぱり「言語」についてだろうと。振り返ってみると、僕は『中動態の世界』で思いきり言語を扱い、千葉君の『勉強の哲学』も、最初の章は言語偏重の人間になることを主張している。

千葉 どちらも言語論ですよね。

國分 そう。だから、僕らがなんといってもこだわってきたのは言語だった。その言語が置かれている現在状況を、まずは確認しないといけない。というのも、言語は本当に大きな変化を被っていて、たぶん二一世紀的な言語状況は、すでにほぼ姿を現している感じがします。それは二〇世紀的な、僕らが九〇年代に勉強を始めた頃とは大きく変わっている。

千葉 そうですね。二〇世紀の思想が新たな段階に入るときに、「言語論的転回」と呼ばれるように、言語を意識することがまずあったわけですよね。だから、二〇世紀の思想において言語意識がベースにあることは、まず確認すべきことでしょう。だとすると、二一世紀にもし言語の弱体化が起きているんだとすると、それは二〇世紀的な人文学のモデルとは違うものに移ろうとしていることになります。二〇世紀においては何より言語の次元が大事だった。文系の人間にとっての言語のポジションは、理系の人間にとっての数学に相当するようなものだったわけです。

國分 確かに人文学が言語に依拠できなくなったら、それは物理学が数学を使えないみたいなものかもしれない。

千葉 一方で、いまわれわれは、「言語」というものをかなり抽象的なレベルで総体として取り扱う議論を始めていますよね。でもたぶん一般の人は、言語をそういう水準で捉えることにピンと来ないかもしれない。普通、言語と言ったら、英語や日本語など特定の国語を想定するでしょう。だから、そもそも言語という存在自体に関わる問いを立てること自体が日常においてはレアなことだと思うんですよね。

國分 なるほどね。千葉君の問題提起を少し展開しましょう。これは前にも引いている例ですが、アガンベンの『身体の使用』にすごく面白いくだりがあるんです。アガンベンによれば、近代の哲学は基本的にカント哲学に基づいて超越論的主体としての人間を研究してきた。それに対しニーチェやベンヤミンやフーコーやバンヴェニストといった哲学者たちは、そこからの脱出を試み、人間を規定する「歴史的ア・プリオリ」を言語に見いだすことでその試みを実現しようとした。つまり人間は言語によって規定されている──こういう一九世紀末ぐらいから始まっていた二〇世紀的な哲学は、超越論的な主体ではなくて、話す人間、言語を扱う人間を扱っていた。これは言語論的転回の起源みたいなものですね。

千葉 多少補足説明をすれば、カントの場合、人間の思考はそもそもいくつかの抽象的なルールによって条件づけられていると考える。それが一九世紀末あたりから、人間の思考や振る舞いを条件づけているのは、歴史的に形成された言語だと捉えるようになったということですね。

國分 そうです。「歴史的ア・プリオリ」というのは、フーコーの用いた表現です。ア・プリオリなのに歴史的というのは矛盾しているんですが、でも、実際にわれわれの思考を遡っていくと、歴史的に規定された前提みたいなものがある。それを言語に求めるのがニーチェ以降の哲学の基本になっていったというわけです。問題はその次で、アガンベンはこの哲学の試みは今日、完結点に到達したと言っているんです。少し引用すると「しかしまた変化してしまったのは、言語活動はもはや、思考されないままにとどまりながら、言葉を話す人間たちの歴史的可能性を規定し条件づけるような、ひとつの歴史的ア・プリオリとしては機能していないということである」(『身体の使用』一九二頁)と。このように、人間を規定するものとしての言語は、もう終わってしまった。人間はもはや言語によって規定されていないとアガンベンは診断しているわけですね。

千葉 歴史的ア・プリオリとは、歴史性を持っているにもかかわらず、絶対的に先行するものであるという二重性を表現しているわけだから、まさに言語そのものを形容するための用語じゃないかと思うんです。動物と人間を言語で分けるのはよくある考え方です。それで、いったい人間の言語能力、あるいは人間の言語能力を可能にするような認知能力が進化的にどこから始まったかというと、はっきりわからないわけですよね。だがそれは歴史的に始まった。でも、人間が存在する以上、絶対的な先行的条件として言語がある。とすると、アガンベンは、人間が他の存在者から区別されるという、その区別の仕方自体が終わったということを言っていることになりませんか。

國分 そうです。ハッキリ言えば「動物化」。

千葉 動物と進化的に連続的なものとしての人間、ということになりますね。

國分 二〇世紀には人間が言語に規定された存在であるというのは哲学的な前提だった。言語は人間がそこから抜け出せないくびきとすら考えられていた。けれども、現代ではむしろ言語のほうが退却してそのくびきから解放されてしまった感がある。千葉君がさきほど、言語の総体を抽象的に問題化することは日常的にはあまりないことではないかと指摘したけれども、それが現代ではなおいっそう行われがたくなっているのかもしれない。哲学、思想ですら、そういうことができなくなっているわけだから。

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言語が消滅する前に


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