孤独な女たちのクリスマス…新しい人生へ踏み出す6人を描く恋愛小説 #2 隣人の愛を知れ
不倫と仕事に一生懸命なパラリーガル、初恋の相手と同棲を続けるスタイリスト、夫の朝帰りに悩む主婦。自分で選んだはずの関係に、彼女らはどう決着をつけるのか……? ルミネの広告コピーから生まれたベストセラー小説、『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』。7年ぶり、待望の2作目となる『隣人の愛を知れ』は、素直になる勇気を得て、新しい人生へと踏み出す6人を描いた恋愛小説です。その冒頭を特別にお届けします。
* * *
12月25日(日) 知歌
「移動中だから、ごめん」
スマホで短いメッセージを送る。
水戸知歌は、青山一丁目駅で半蔵門線を待っていた。休日でありながら、気になる書類を確認したくて事務所に寄った。思いのほか時間がかかってしまったのは、先週に夜の予定を入れ過ぎたせいだった。
ここ連日続く母からの着信が気になっていなかったわけじゃない。
どうせ妹のことだろう。
知歌はしっかり者のお姉ちゃんと、幼い頃から母に頼られてきた。深夜に帰宅すると、夜が苦手な母親は寝ているのだから仕方ない。妹の瑣末な話をするために、わざわざ電話してこなくとも……と知歌は小さく息を吐く。
妹が結婚するまでは、母ひとり、娘ふたりの女3人で暮らしてきた。性格はバラバラだが、仲が良いといえば仲が良い。
だけど知歌は、義理の弟になった妹の旦那が苦手だった。
苦手というより嫌悪感があると言ってもいい。不動産関係で働いている彼は、誰とでも物怖じせず話すことができる。話し慣れているというべきか。事実よりも印象を操作する表面的な話し方をする。食い気味の相槌からは、彼が相手の話には1ミリも興味がないのは明らかだった。
なんで妹は気づかないのだろう?
知歌は不思議でならない。性善説しか知らない妹の手に負える男じゃないのだ。
あの男には、わたしたちに見せない顔がきっとある。貼り付けたような笑顔には、仄暗いなにかが蠢いている。6つ下の妹の幸せを願いながらも、異性の趣味というのは姉妹と言えど、簡単に口に出せるものでもない。歳の差もあるし、ましてや何に幸せを感じるかは人それぞれだと思うしかない。
妹が結婚してからというもの、姉妹ふたりで話す時間は明らかに減った。
半蔵門線がホームに到着すると、電車内は予想以上の混みようだった。大型のスーツケースと凶器のような紙袋を肩にかけた乗客に挟まれて、知歌は左手首を右手でそっと押さえる。繊細に揺れるブレスレット。小さなダイヤをつなぐ心もとない鎖を守らねば。次駅の永田町では、もっと多くの乗降があるだろう。
金額的にも、使い勝手でも、自分では、絶対に選べない真新しいジュエリーだった。ミサンガのように切れてしまったら、訪れるのは幸運ではなく絶望しかない。永田町をどうにかやり過ごし、大手町では一気に人が降りて、ようやく座ることができた。知歌はそっと、手首から手を離す。
「半蔵門線は昔、三越前で終わりだったんだよ」
そう教えてくれたのは父だ。
三越の屋上広場で、終わらない母の買い物を待っていたときだ。デパートの下で電車が終わるなんて、その先から来る人たちはどうやって帰るのだろうかと、子どもながらに勝手な心配をしていたことをぼんやりと思い出す。
不倫をして家族を捨てた父親。
それを決して許せなかった娘が、自ら不倫をしているなんて。皮肉なものだと知歌は苦笑する。地上の百貨店は今夜、クリスマスプレゼントを選ぶ恋人や、ホールケーキを買う家族で大いに賑わっているだろう。
清澄白河の駅に着いたとき、19時を少し回っていた。もっと低いヒールで来るべきだったか。履き慣れない靴に痛みを感じながらも、商店街をひとり歩いていく。
いつも夕方から開いている居酒屋の前で、すっかり出来上がった若い男がふたり、並んで煙草を吸っている。知歌にちらりと目を向けて、気のない素振りですぐに会話に戻っていく。
この香りはCAMELじゃない。
煙をかき分けるようにして、知歌は思い直した。ラメの入った黒いピンヒールを履いてきて、やっぱり良かったのだ。年内に会えるのは、きっと今夜が最後だろうから。商店街の喧騒を背に、知歌は歩みを速めた。
エントランスに続くライトアップされた回廊が、息を呑むほど美しいと思う。江東区でありながら、行ったこともないどこぞの外国にでもいる気分になる。
東京都現代美術館。
夜間公開は期間限定で、クリスマスの今夜が最終日らしい。
お財布の中から、もらった招待券をそっと出すと、知歌はなんだか自分も芸術家の関係者であるような、誇らしい気持ちになった。
『I witness me. わたしがわたしを目撃する』
世界中からセルフポートレートや自画像だけが集められたこの企画展は、全部をじっくり観ると軽く1時間はかかってしまう。タイトルの意味が、知歌にはいまいちよくわからない。けれど「ぽいなぁ」とは思う。現代アートは意味深でなければ、それっぽくないのだ。
期間中、足を運んだのは、もう4回目だった。
「お友だちでも誘ってどうぞ」
渡された4枚の招待券。誘う人もいなかったが、知歌は1枚も無駄にはしなかった。
つま先の痛みもあって、知歌は入り口から流すように展示に視線を送りながら、目当ての映像作品へと直行する。分厚いカーテンの中に入ると、薄暗い空間になっていて、椅子がランダムに置かれている。今夜はめずらしく誰も座っていなかった。
白壁に投影された映像には、芝生に寝転んだひとりの少年が、じんわりじんわりと歳を取っていく。中年となったところでまた少年に戻るが、そのループの境目が何度観てもわからない。
地味な作品ではあるが、知歌がずっと観ていられるのは愛してしまった男だからか。
「熱心だね」
CAMELの香りと共に、隣に腰をおろしたのは、まさにスクリーンに映っている男だった。
12月26日(月) 青子
「やだ。わたし、靴、忘れてきちゃった」
後部座席のスライドドアが開いて、戸鳥青子は自分の足もとがスリッパのままであることに気がついた。
「明日も同じスタジオだから大丈夫ですよ」
深夜も2時だというのに、マネージャーのさっちゃんは、疲れた顔も見せずに笑ってくれる。握っているハンドルが大きく見えるほど小柄な彼女は、青子の担当について2年目になる。免許を取ってまだ間もないのに、歴代のマネージャーの中で、誰よりも運転が上手かった。その安心感からか、青子は帰り道であっという間に寝落ちしてしまった。明日の台本を確認しておこうと思っていたのに。ふとしたところで疲れが現れるのは、歳を取った証拠だと苦笑いになる。
「青子さんお茶目っぷりヤバいですね。スリッパだったなんて、わたしも気づかなくてごめんなさい」
娘でもおかしくない年齢の女の子に、謝らせるのは情けない。
明日は撮影カットが2つだけなので、昼までかからずに終わるだろう。とはいえ明朝のさっちゃんのお迎えまで、あと5時間しかなかった。
「ありがとね。ちょっと過ぎちゃったけど、メリークリスマス」
青子は用意していた小さなプレゼントを渡して、黒光りするミニバンから降りた。
夫はもう寝ているだろうか。それともまだ帰宅していないだろうか。
スリッパのままエレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。いきなり目に飛び込んできた白熱灯が、老眼がはじまりかけている青子には眩しかった。
映画監督と女優。青子が30歳のときに結婚して15年。
お互いクリスマスに仕事が入ることなんて、当たり前だった。帰宅が深夜になることも、朝まで飲んでくることも、泊まりで家をあけることもめずらしくない。
わたしたちふたりが求めたのは、自立した結婚生活だったのだから。
それでも最近、深夜に帰宅しても電気の点いていない部屋に、青子は淋しさを感じていた。それは夫も同じなのだろうか。ダイニングテーブルの上には、クリスマスプレゼントで夫に贈ったマフラーが、そのまま置きっぱなしになっている。タグも切られてはいない。
「ちょっと早いけど」
そう言って、青子が夫に渡したのはもう5日前だ。
来年からプレゼントは、飲み切ってしまえるワインにしよう。
人がいない部屋は、空気も床も冷え切って、すぐにはあたたまってはくれない。夫はきっとどこかでまだ飲んでいるのだ。スマホを確認してもメッセージは入っていなかった。
湯ぶねにお湯が落ちるのを待つ間に、ウイスキーでも1杯飲もうかと頭をよぎる。ガラス窓をつたう雨粒を見ながら、これは1杯で終われそうにないと青子は思う。
ウイスキーグラスを棚に戻して、台本を片手に風呂場へと向かった。
◇ ◇ ◇