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「早うここから立ち去りなさい」謎の娘の正体は?…壮大なスケールで「日本誕生」を描いた歴史エンターテインメント #3 日輪の賦

7世紀終わり。国は強大化する唐と新羅の脅威にさらされていた。危機に立ち向かうべく、女王・讃良(さらら)は強力な中央集権国家づくりに邁進する。しかし権益に固執する王族・豪族たちは、それに反発。やがて恐ろしい謀略が動き始める……。

昨年、『星落ちて、なお』で直木賞を受賞し、一躍注目を集めた澤田瞳子さん。『日輪の賦』は、壮大なスケールで「日本誕生」を描いた歴史エンターテインメント。その冒頭部分を、ご紹介します。

*  *  *

諸国から集められた役民(えだちのたみ)の中には、厳しい労役にたまりかね、作事場から逃亡する者が少なくない。そのうち大半は道中で飢え死にするか、街道で捕縛される。だが中にはごく稀に、畿内の山々にこもり、盗賊として露命をつなぐ男たちもいた。元は官品らしき半臂(はんぴ)からして、彼らもそんな役民崩れに違いない。

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相手は三人、いや、背後に更に二人が続いている。いずれもやせてはいるが、髪や髭をぼうぼうに伸ばし、眼を凶暴に血走らせた餓狼(がろう)のような男どもであった。

荷を放り出して逃げようかとの思いが、脳裏をよぎる。だが彼らは荷はもちろん、廣手(ひろて)や狗隈(いぬくま)の衣まで追い剥ぎ、近在の市で売り飛ばす腹に違いない。だとすればここで遁走(とんそう)しても、命が助かる保証はない。

ひんやりとした銅製の把(つか)を、廣手は強く握りしめた。

八束(やつか)に及ばぬまでも、剣技にはそれなりの自信がある。数では負けるが、相手はただの役民。勝ち目は皆無ではないはずだ。

大刀を抜き放った廣手に、男たちは四、五間離れた場所で足を止めた。彼らを睨みつけたまま、視界の端で素早く周りの様子をうかがう。

山を登り始めた時間から推すに、おそらく峠は目前。それを越えれば、あとは麓に向かって、ひたすら道を下るだけだ。

「いいか、狗隈。僕があいつらの囲みを破ったら、いっさんに駆けるんだ。山を下りれば、すぐに葛城の里があるはず。いくらあいつらでも、人里までは追って来まい」

「へ、へえ――」

「行くぞッ」

廣手は意味を成さぬ喚き声を上げながら、男たちに突撃した。生っ白(ちろ)い若造が手向かうとは、予想だにしていなかったのだろう。うわっと驚きの声を上げる彼らのただ中を、やみくもに大刀を振り回して駆け抜ける。

わずかな手ごたえとともに、

「この野郎ッ」

との怒声が弾けたのは、振り回した刀が誰かを傷つけたゆえか。とはいえ背後を振り返る暇はない。

「行くぞ、狗隈ッ。遅れるなッ」

「くそッ、あの若造め」

「あの大刀一振りでも、餌香(えが)の市に持ち込めば、相当な米に換えられるぞ。ええいっ、逃がしてなるかッ」

野太い怒声とともに、握りこぶしほどもある石が背後から飛来し、廣手の耳をかすめて藪に落ちた。あれをまともに脳天に食らえば、命が危ない。

だが走れども走れども、すぐにたどり着くかに思われた峠はなかなか見えてこない。しかも盗賊たちはあきらめもせず、執拗(しつよう)に背後に迫ってくる。

己の息がひどく大きく耳底に響いている。こんなことなら、脇道に逸れるべきではなかった。考えてみれば、自分より盗賊たちのほうがこの山には詳しいだろう。仮に峠にたどり着いたとて、里に下りる前に先回りされるかもしれない。

畜生、と唇をかみ締めた時である。

頭上近くに昇っていた日輪がさえぎられ、黒々とした影が山道に落ちた。

見上げれば杉木立の向こうに、馬にまたがった人物がいる。太陽を背に受け、顔かたちは判然としない。それでもその人物が自分たちとせまり来る盗賊を交互に見やったのが、廣手にははっきりとわかった。鞅(むながい)に提げられた鈴が、木々のざわめきを制して高く響いた。

賊たちもまた、思いがけぬ人影にぎょっと足を止め、周囲にすばしっこい探りの目を投げた。

馬はたくましく肥え、陽射しを映ずる馬具も豪奢(ごうしゃ)である。こんな山中に、身分ある人物が一人で現れるわけがない。必ずや従者が近くにいるだろう。彼らが今にも叢(くさむら)から現れるのではと、おびえた顔つきであった。

「薬師寺の造寺場より逃げ出した工人どもが、葛城山中で盗賊稼ぎをしているとは真(まこと)でしたか」

馬上の人物が、わずかに体の向きを変えた。木立の間から降り注ぐ陽光が、その横顔を明るく照らし出した。

縫腋(ほうえき)の黒袍(こくほう)に白袴、頭に漆紗の冠をかぶっている。一見、典型的な文官の姿だが、濃黒の袍は百官の服色に規程がない。

数年前、庶民は黄衣(きのころも)、奴婢は皁衣(くろのころも)を着せと定められて以来、黒といえば奴の色と決まっている。だがその出で立ちには賤(いや)しさの欠片(かけら)もなく、しっとりと重い闇の色の袍に、朱の長帯がひどく鮮烈であった。

しかし廣手の眼を釘付けにしたのは、儀軌(ぎき)にそぐわぬ官服だけではない。

男の如く髪を結い、小さな唇をきっと引き結んだ顔は白く、美少年じみて見える。さりながらその喉から発せられた声の高さは、馬上の人物が廣手とさほど年の変わらぬ女性であることを物語っていた。

驚く廣手には一瞥(いちべつ)もくれず、娘は鞍(くら)の下から短弓を取り出した。それまで気付かなかったが、彼女のかたわらでは鶴のようにやせた五十がらみの男が、馬の轡(くつわ)を取っている。彼が背の靫(ゆぎ)から黒羽の箭(や)を抜いて差し出すと、彼女は無造作にそれをつがえ、きりりと弦を引き絞った。

「造寺場を逃げ出したのみならず、旅人を襲うとは不心得な奴。命ばかりは助けて取らせますゆえ、早(はよ)う寺に戻りなさい。否と申すのであれば――」

言葉が終わらぬ先に、弦音高く放たれた箭が先頭の男の足元に射立った。爪先からほんの一寸ほど先、女子とは思えぬ妙技である。ひええ、という間抜けな声を上げ、男がへなへなと坐り込んだ。

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「次は容赦いたしませぬ。早うここから立ち去り、薬師寺に帰るのです」

脅しではない証拠に、娘は早くも第二の箭をつがえていた。先ほどの腕前からすれば、次は必ずや盗賊の喉元を射ぬくに違いない。

男たちは青ざめた顔を見合わせたが、次の瞬間、口々に悲鳴を上げながら、今来た坂道を我先にと下り始めた。腰を抜かしていた男までが、足をふらつかせながらその後を追う。

娘は険のある顔で、油断なく弓を構え続けていた。男たちの足音が遠のき、やがて鳥の鳴き声が山々に戻ってくると、小さく息をついて箭を下ろした。

化粧っ気はなく、およそ女らしい身拵(みごしら)えとは程遠い。それでいて張りのある目元や強く引き結ばれた唇が、澄明な印象を与える娘であった。

「あ……危ないところをお助けいただき、ありがとうございます」

かすれ声で礼を述べる廣手に、彼女はそっけなくうなずいた。梢を透かした陽に、薄い瞼(まぶた)が淡緑に染められていた。

「何故、官道を外れてかような脇道に迷い込まれたのです。この界隈の山は案外深く、猪なども多うございます。近道をなどと考えられては、命取りにもなりかねませぬ。見たところ、京に赴かれる途中と拝察いたしますが」

腰の大刀や奴連れの風体から、一介の庶民ではないと看取したのだろう。淡々とした声音ながらも、その物言いは丁寧だった。

「はい、お言葉通りでございます。されど京を目前にして賊に遭うとは、思ってもおりませんでした」

規定に背く官服姿といい、並々ならぬ弓の腕といい、どう見ても普通の娘ではない。いったい何者だろうと思い巡らせる廣手をよそに、彼女はかたわらの従者を見下ろした。

「あれだけ脅しておけば、しばらく悪さは働きますまい。ですが、それでおとなしく造寺場に帰るとも思えませぬ。葛城の里の者に山狩りを命じるつもりですが、人麻呂(ひとまろ)は如何(いかが)考えますか」

「忍裳(おしも)さまのお言葉、ごもっともでございます。秋になれば諸国よりの運脚(うんきゃく)の衆が大勢、丹比道を通りましょう。かような者どもが難渋しては、讃良さまの名折れになりますからのう」

人麻呂と呼ばれた男が、甲高い声で答えた。

宮城の官吏には位階に応じた衣が与えられる。彼がまとっているのは、官人の中でも最下位を示す浅縹(あさはなだ)色の官服であった。

「ですがこの広い山中を探し回るのは、葛城の里人だけではひと苦労。ましてや間近な二上山(ふたかみやま)にでも逃げ込まれれば、容易に手出しもできますまいなあ」

「なれば主上(おかみ)に乞うて、兵衛(とねり)を差し向けていただきましょう。あのような不埒者(ふらちもの)ども、一時も早く成敗せねばなりますまい」

もはやこちらのことなど忘れたかのような主従を、廣手は言葉もなく見つめた。

草深い山中、すっくと背筋を伸ばして騎乗する男装の娘の姿は、幻かと疑うほど美しかった。牟婁評(むろのこおり)でも馬に乗る女は多いが、これほど凜然(りんぜん)とした娘は目にしたためしがない。透き通るような肌と化粧っ気のなさが、その姿を更に澄ませていた。

「どうしやした、廣手さま。さっさと参りましょうぜ」

このとき狗隈がせっかちに袖を引いた。しかし、

「あ、ああ、そうだな」

とうなずきかけ、廣手はうっと、小さな呻きを上げた。現金なもので、危難が去った途端、忘れ果てていた腹痛がぶり返してきたのである。

しかもそれは以前とは比べものにならぬ激しさで、下腹をぎりぎりえぐってくる。思わず地面に膝をついた彼に、

「大丈夫ですか。ひょっとして先ほどの賊どもに、怪我でも負わされたんですかい」

と狗隈が血相を変えた。

「い、いや、平気だ。実は朝からひどく腹が痛んでいたんだ。京に着けば医師(くすし)に診てもらえると頑張ってきたんだが」

「ひょっとしたら水あたりでもなさったのかもしれねえですな。とにかく無理は禁物ですぜ」

だけど参りやしたねえ、と狗隈は額に手を当てた。

今日中に京に入るつもりだったが、この分ではそれも覚束ない。とにかく山を下り、手近な里で宿を借りるべきだろう。

丈夫だけが取り柄のはずが、こんなところで身を損ねるとは。悔しさに歯嚙(はが)みしたとき、馬上から落ち着き払った声が降ってきた。

「わたくしどもは、これより京に帰ります。よろしければ途中までご同行いたしましょうか」

「それはありがたい。ぜひお願いいたします。遅れましたが、僕は紀伊国牟婁評の評督阿古志連河瀬麻呂(こおりのかみあこしのむらじかわせまろ)の息子で廣手と申します」

「阿古志連廣手どの……」

その瞬間、忍裳の目元がわずかに強張ったことに、廣手は迂闊にも気付かなかった。

「はい。大舎人(おおとねり)として出仕すべく、京に上る道中でございます」

「そうですか、大舎人に――」

小さくつぶやくと、忍裳は唐突に馬首を転じた。そのまま馬を笞打ち、人麻呂すら置き去りにして、険阻な山道を上って行く。

あまりにそっけない彼女の態度に、廣手は一瞬、不快を覚えた。とはいえ相手の正体がわからぬ以上、下手な文句は言えない。

(それにしても、こっちが腹痛で歩けないってのに、置き去りはないだろう)

漆黒の後ろ背に毒づいたとき、人麻呂が顎を撫でながら、狗隈を振り返った。

◇  ◇  ◇

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日輪の賦 澤田瞳子

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