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自分の「ダメ」のルーツを探しに、17年間会ったことのない父に会う #3 傷口から人生。
過剰すぎる母に抑圧され、中3で不登校。大学ではキラキラキャンパスライフになじめず仮面浪人。でも他人から見てイケてる自分でいたくて、留学、TOEIC950点、ボランティア、インターンなど、無敵のエントリーシートをひっさげ大企業の面接に臨んだ。なのに、肝心なときにパニック障害に。就活を断念し、なぜかスペイン巡礼の旅へ……。
小説家としても活躍している小野美由紀さんのデビューエッセイ、『傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』は、「つまずきまくり女子」の人生格闘記。読めば生きる勇気が湧いてくる、そんな希望にあふれた本書から一部をご紹介します。
* * *
私の大半はこの人と重なっていた
2007年の4月の終わり、私は京都にいた。
17年間、会ったことのなかった、父に会うためだ。
その時の私は、就活に失敗して、将来のことが何も分からずしょげていた。
まだ、スペイン巡礼に旅立つ前のことだ。どうもがいても、泥沼の中にずぶずぶと沈みこんでゆく気がした。誰でもいいから、そこから救い出してほしかった。
そのとき、ふと唐突に、5歳の時以来会っていない父に会おう、と思ったのだ。自分の「ダメ」のルーツに会えば、自分のダメさに納得がいくと思ったのかもしれない。私は自分のルーツ探しの旅に出た。
父の下の名前は、けっこう変わっている。試しに google に打ち込んだら、父の勤め先のホームページが、一番最初に出てきた。
探偵を雇うことも、戸籍謄本を取り寄せることも、親戚に電話をかける必要もなかった。最近の人探しって、便利だな……。と思いながら、私はノートパソコンの蓋を閉じた。
父は大学教授で、現在は京都のとある研究機関に勤めていた。父の職場の番号に、私はどきどきしながら電話をかけた。秘書の女性に名を名乗り、取り次いでもらう。なんと言っていいかわからず「みゆきです」と言ったら受話器の向こうから、父の息をのむ音が聞こえた。
その時の会話は、ごくごく短く終わったように思う。
二言、三言交わしたのちには、待ち合わせの日時が決まっていた。数日後、私は新幹線で京都に向かった。
電話口の、父の声は、私よりもふるえていた。
桜の季節が終わった4月の京都はのどかだ。
うぐいすが飛んでいて、空気がすきっとしている。桜の花びらが、雲も一緒に連れ去ってくれたのか。
カール・ブッセの詩の一行、「山のあなたの空遠く 幸い棲むと人の云う」の「山」は、嵐山のことなんじゃないか、と思うくらいのどかだ。
とはいえ、春の頭なので、まだまだ空気が冷たい。ちくちくと、コートの内側にまで差し込む寒さに震えながら嵯峨野観光などをして、父との待ち合わせ先に向かった。
父とは桂のミスドで落ち合うことになっていた。電話で待ち合わせ場所を聞いた時には、「大学教授も、ミスドでドーナツを食べるのか」と思うと可笑しくなったが、桂駅の改札を出る時には、切符を通す手がふるえた。
ミスドの小さな席のすみっこに、父の姿を発見した。感動の対面、になる前に、平常心を保たなければ、という気持ちのほうが先行する。「こんにちは」と声をかけると、父は立ち上がって、しかつめらしくおじぎをし、「こんにちは」と返した。
花粉の季節だからなのか、感情も間延びしている。もそもそと、起伏も無いまま、私たちは互いの近況を話し合った。
会ってまず思うのは、私の大半は、この人と重なっている、ということだ。
要領を得ずにもごもごしゃべるとことか、コーヒーが飲めないところとか。父の眼鏡のふちにかかる紐が、普段ならださいと思う前に、センスいいな、と思ってしまうところとか。
体内の染色体の90パーセントはこの人からなんじゃないかと思うくらい、似ている。なんていうか、ベクトルが一緒だ。
母と父のベクトルは、正反対を向いている。「一緒に暮らすの、無理っす」みたいな別向きのベクトルだ。180度違うベクトルがあわさって生まれた子だから、90度くらいの開きがあると思っていたら、10度くらいしか違わない。
「人間死ぬまでモラトリアムだ」
しばらく話して、少しだけ心に余裕が出て来たところで就活の話になり、
「将来、やりたいことが分からないけど、今決めなきゃいけないのがおっくうだ」と、強がってみせたら、父は、
「今決めなきゃならないなんて誰が決めたんだ。人間、30くらいまでフラフラしてていいんだぞ。30どころか、人間死ぬまでモラトリアムだ」と言った。
コイツ、すごいこと言うなぁと思った。
父は38歳までアカデミックフリーターだったそうだ。学生闘争で大学を放校処分になったあと、出版社を立ち上げてはつぶしたり、サラ金に勤めながら小説を書いたりと、定まらない人生を送りながら、大学の教授職に、なんとか潜り込んだらしいから、まぁ、間違いないだろう。
そのあと、父の奥さんに会いに父の自宅に伺った。
家に入ると、「THE・家庭」といった感じで、「THE・お母さん」みたいな人が出てきたのでびっくりした。「めちゃ×2イケてるッ!」の、コントのセットかと思った。でも、実際に話してみたら、見た目とは裏腹に、市民運動に熱中する破天荒な人だった。アフリカンアートと、柳宗悦と、杉並区の教育問題について盛り上がった。
二人とも学生運動の世代だ。この時代の人の、自分が正しいと信じたことをひるまずにする姿勢を好ましく感じる私は、なんだかとても、うらやましいと思った。
「慶應が嫌いだ。偉そうな学生ばっかりだし、企業ランクとか年収とかに拘泥して、そんな話ばっかしてるやつは、死ねばいいのに」
と言うと、
「あんたはあんたの感性信じてフラフラしたらいいよ」
と言われて、そうか、と思った。
もう遅いので、泊まって行きなさいと言われてお風呂を借りた。
お風呂に入る。寒い寒いといいながら、狭い脱衣所で服を脱いだ。
この家のバスタオルは分厚い。ホテルのタオルみたいに、ふかふかと指が埋まる。うちのタオルは、薄い。祖母の好みで、木綿の、さらさらとした肌触りのものばかりだ。四月の夜はまだまだ底冷えする。木製の古ぼけた風呂椅子に座ると、尻がひやりとした。せまい風呂の床を、家族4人分、それぞれ異なるメーカーの、シャンプーとリンスの巨大なボトルが埋めつくしていた。うちは、みな一緒だ。
家族というのは、砂絵のようだ。
こういう、砂粒みたいな、小さな小さな差異が、寄せ集まって、その家族の形を作っている。全部掃いて捨てたら、なにか、残るんだろうか。
布団は4月の日差しを吸い込んで、いいにおいがした。南の島の海のはじっこで、あたたかい波を毛布にして寝ているような気持ちがした。
その日はひさしぶりに、ぐっすりと眠った。
1泊して、早朝に伊勢に向かった。
阪急電鉄の窓から見える大文字山は、ほんのり桜色に染まっていて、谷間の白く霞んだ空は、扇型に広がっていた。
◇ ◇ ◇