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行き場を失った二人の出会い…驚愕の結末が話題のサスペンス長編 #5 それを愛とは呼ばず

妻を失ったうえに会社を追われ、故郷を離れた五十四歳の亮介。十年所属した芸能事務所をクビになった、二十九歳の紗希。行き場を失った二人が東京の老舗キャバレーで出会ったのは運命だったのか。再会した北海道で、孤独に引き寄せられるように事件が起こる……。驚愕の結末が話題を呼んだ、直木賞作家・桜木紫乃さんの傑作サスペンス長編『それを愛とは呼ばず』。二人の運命が動き出す、物語のはじまりをご紹介します。

*  *  *

高校を卒業してから上京したのがそもそもの間違いだったのか、と振り返る。親から出された条件が、高校だけは卒業することだった。

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あの二年が悪かったのではないか――。

つまずくたびにぐずぐずと考えていた。年に一度の「これが美少女だ」の優勝者がふたり出たあとで、準優勝の二流ねらいが一発逆転することなど最初からなかったのだ。マネージャーたちはいつも掛け持ちの片手間で紗希を受け持っていた。ちょっとでも火の点いたタレントに力を入れて、紗希の営業などほとんどしない。それでもどこかで「まだがんばれる」と思い続けていた。マネージャーも会社も自分になびく日がいつか来るはずだと信じていた。目が腫れない程度に泣くのが上手くなった。それがこの十年の収穫だった。

創業八十年銀座ガス灯通りにあるキャバレー「ダイアモンド」が、これから唯一の勤め先になる。もう、タレントの片手間のアルバイトという言いわけは通用しない。出勤日数は同じでも、働き口はここしかなくなってしまうのだ。重い気持ちで通用口を入ると、フロア係がいつもより高い声で「おはようございます」と声をかけてくる。あぁ、自分はいま暗い顔をしているのだと、彼らの声で気づかされる。女の子たちのテンションを上げるのも、彼らの仕事だった。

二階の端にある木の扉を開け、細い階段を上る。衣装部屋の前を通ってもう一段高いところにあるのがロッカールームだ。ウナギの寝床のようなひょろ長い部屋の、壁一面にロッカーが並んでいる。

キャバレー「ダイアモンド」のロッカーは、ひとつひとつがシューズケースを少し大きくしたくらいしかないので、大荷物は入れられない。ショーで使う楽器などは部屋の隅に並んでいた。木製で壁一面何段もあるロッカーの数字並びはバラバラだ。みんなお気に入りの場所に自分のラッキーナンバーを書き込んだ紙を貼り付けている。昭和初期からほとんど変わらないと聞いた。歩くたびに床の板が鳴る。もう、どこを踏めばどんな音がするのか覚えてしまった。

紗希は「これが美少女だ」コンテストのエントリーナンバーだった「007」のロッカーの前に立った。ボンドガールを意識しているのだが、誰からも指摘されたことがなかった。身長が百六十八センチあるので、ヒールを履くといちばん上のロッカーが顔の高さになる。在籍しているホステスは二百五十人。週末は昭和を懐かしむ客で一階も二階も満杯になる。ロッカーにバッグを入れて、壁を隔てた隣にある衣装部屋に入った。

「おはようございます」

身長別にずらりと貸し衣装が並んでいる。百五十から百六十がほとんどだ。長身のホステスは紗希を入れて三人ほどしかおらず、「百七十」という札のところだけ、極端に衣装が少ない。

「お客様に借り物だと悟られないように、なるべく五着以内でまわしましょう」という店の指導も、いろいろ試してみたい若い子たちには不評だ。衣装ハンガーの向こうから紗希を呼ぶ声がする。

「紗希ちゃん、ちょっとこっちに来て」

少しかすれた声は、衣装部マネージャーの吉田典子だ。何百着もある衣装をひとりで管理して、毎日女の子たちの希望どおり、どんな衣装も体にぴったりと合わせてくれる。多少のサイズのずれも彼女の手にかかると、安全ピンひとつであつらえたようなドレスになった。店の女の子たちからは、その腕への信頼から「吉田プロ」と呼ばれている。

「ダイアモンド」に勤めている女のなかで素顔のまま仕事をしているのは吉田典子ひとりだろう。もともとは有名デザイナーの元で縫い子をしていたという噂だった。

ベテランは一割、紗希のような中堅が二割、あとは常に入れ替わる初心者層だ。誰と誰の仲がいいのかを知る前に、若い子のほとんどは入れ替わってしまう。勤めが長い者ほど余計な会話のない職場だった。不思議と指名が多いのは、ごく普通の主婦と間違えそうなくらい目立たない女だ。吉田典子が微笑みながら言った。

「いいドレスが入ったの。紗希ちゃんにどうかなと思って。なかなかサイズがなくて、気になってたのよね」

手に、薄いグリーンのタイトなカクテルドレスを持っている。スパンコールも少なめで、胸元でクロスさせた布のドレープが美しい。ロングの裾が歩くたびに美しく揺れるだろう。

「春っぽいでしょう」

「今日、着てみてもいいかな」

吉田が「もちろん」と言って更に微笑んだ。衣装部マネージャーだが、吉田プロにはホステスたちの相談相手という側面もある。衣装を合わせてもらっているあいだにひとことふたことこぼした愚痴は、彼女に優しく吸い取られてゆく。フィッティングのプロは、楽屋裏のプロでもあった。

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白いエナメルのヒールを脱いで、一段高くなっている畳の上でドレスを着てみた。測ったようにサイズが合う。ドレープのクロスが胸元を美しく演出してくれる。色もそうだが、デザインが清楚でいい。ドレスは希望する女性客にも貸し出しをするし、誰が着てもいいことになっていた。

「やっぱりこのドレス、紗希ちゃんのイメージにぴったり」

着心地もいいし買い取ろうか、と思った瞬間、昼時に受けた電話が蘇った。

「どうしたの、紗希ちゃん」

勘のいい吉田プロにはすぐに気持ちの陰りが伝わってしまった。紗希は精いっぱい微笑んでドレスの裾を持ち上げた。

「事務所クビになっちゃった。今月いっぱいだって。契約の更新なし。もう、タレント廃業なの」

言葉にするとまた涙が出そうになる。いけない。化粧時間とこれからお店に出るまでの余裕を秤にかけた。体の向きを変えてドレス姿を大鏡に映し出した。目が少し赤いが大丈夫だ。鏡の中で吉田プロが肩紐の長さを調節している。

「紗希ちゃんには、幸せな結婚をしてほしいな、わたし」

「結婚?」

考えたこともなかったが、姓の変わった年賀状が何通かあったことを思いだした。郷里の友人たちとはもうほとんどつきあいが途絶えている。報せをもらって素直に喜んであげられるような日々ではなかった。祝い事の報せは、受け取るほうにも「そこそこの暮らしをしている」という看板が必要なのだ。

事務所のマネージャーには「スキャンダルはここぞという場面で使う」と言われ続けていたので、誘いを受けても警戒心が先に立つ。週に一度、夜中の番組に出ていたころはスタッフやゲストの俳優に誘われたりもしたが、それも遠い話だ。

改めて「愚鈍」という言葉が胸の奥に響いた。すべて仕事のためという言いわけを許し続けていたツケが、今ごろになって回ってきた。いつかスポットライトを浴びる日のために節制してきた日々――。

「結婚なんて考えたことなかったな。吉田プロはどうなの」

「わたしはこのまま、ダイアモンドの衣装守って暮らすのも悪くないと思ってるよ」

有名デザイナーの元を離れた理由を聞いていなかった。女の子たちの悩みを聞いてばかりの彼女は、どんな道筋をたどって「ダイアモンド」に流れ着いたのか。紗希は大鏡の中の彼女に「吉田プロもこのままここで埋もれるつもりなの」と問うた。鏡の中で瞬間目が合う。彼女の表情が曇ることはなかった。

「紗希ちゃん、言いたい人には言わせておけばいいの。日々の自分に満足していないとイライラするだけでしょう。そんなのお肌にも精神衛生上も良くないじゃない」

紗希は「結婚かぁ」とつぶやいてヒールにつま先を入れた。吉田プロのドレスの見立ては完璧だった。あまりにもぴったりで、キャバレー「ダイアモンド」でこのドレスを着こなせるのは紗希だけのような気がしてくる。

「今年三十だもんね。ベテランのお姉さんたちを見習って、毎日出勤でミリオンさん狙おうかな。結婚よりそっちのほうがずっと現実的かも」

給料と指名料で月に百万以上稼ぐ先輩ホステスたちは「ミリオンさん」と呼ばれている。そうなると銀座「ダイアモンド」の看板として、永遠に語り継がれてゆくのだ。若いだけで客がつく店ではない。老舗の暖簾は今も生きている。安易に稼げるお店に移らず、ひたすら自分の根を守ったという評価が人としての信頼に変わる。創業八十年のグランドキャバレーでは、歴代のミリオンさんはみな祝福されて堂々と独立したという。もとは創業時から店を潤わせたホステスが、自分の店に「ミリオン」と名付けたのが始まりだった。

ミリオンを狙うなどと言ってはみても、自分がその器ではないことくらいわかっている。芸能界に執着してきた十年間ほど、ホステスで上りつめたいと思えない。吉田プロが「さぁ、今日も気張って稼いでらっしゃい」とドレスの背中を軽く叩く。どうやらまた、顔が曇っていたらしい。紗希は精いっぱいの笑顔で応えた。

その夜、紗希がマネージャーの指示で着いた席は、五十代のひとり客だった。黒っぽいスーツにおとなしいネクタイ姿。サラリーマンのようにも見える。胸にちいさな白いリボンを付けていた。初回のしるしだ。男の視線が、ボックス席の前で一礼した紗希を見上げる。初対面の際に男が見せる動揺が、今夜はなかった。女を見慣れている気配だ。業界の人間にありがちな「品定め」の気配もない。紗希は不思議な心もちになった。「品のいい男」とはこういうものかもしれない。

「こんばんは、いらっしゃいませ」

胸に付けたネームプレートをつまんで微笑みかける。

「紗希と申します。よろしくお願いします」

男は軽く頭を下げて「こんばんは」と言った。一礼して、横に座る。初回からボトルが入っているようだ。ウイスキーのネックに「伊澤」というプレートが下がっている。

男の希望どおりに薄めの水割りを作った。自分の分も作っていいかと訊ねる前に、男が紗希のグラスに氷を入れていた。礼を言ってグラスを受け取り、男よりも少しだけ薄い水割りにした。

「ありがとうございます、乾杯」

初回の客へのサービスで、ミニオードブルが運ばれてきた。チーズやクラッカー、サラミといった定番だ。早い時間にひとりでやってくる客は珍しい。ずいぶんと物静かな男だった。

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