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意識不明で集中治療室に…慟哭の真実が明らかになる感動ミステリ #4 罪の境界

「約束は守った……伝えてほしい……」。それが、無差別通り魔事件の被害者となった、飯山晃弘の最期の言葉だった。みずからも重症を負った明香里だったが、身代わりとなって死んでしまった飯山の言葉を伝えるために、彼の人生をたどり始める。この言葉は誰に向けたものだったのか? 約束とは何なのか?

薬丸岳さんの最新刊『罪の境界』は、決して交わるはずのなかった人生が交錯したとき、慟哭の真実が明らかになる感動ミステリ。謎が謎を呼ぶ、本作の冒頭をご覧ください。

*  *  *

「ちょっとこちらにいらしてもらえますか」
 
そう言いながら女性が受付から出てきた。女性に案内されて一階にある『総合相談室』とプレートが掲げられた部屋に航平は入った。白い大きなテーブルに四脚の椅子が備えられている。

「こちらでお待ちください」
 
手で着席を促して女性が部屋を出た。椅子に座ってしばらく待っていると、ビニール袋のようなものに入れたスマホを持って女性が戻ってくる。
 
「あの……明香里……いや、浜村さんは」
 
航平が問いかけると、向かいに座った女性が憐憫の表情を浮かべた。
 
「浜村さんは近くにある神宮前病院に搬送されました」
 
深い落胆が胸に広がった。
 
「間違いなく彼女なんでしょうか」
 
「所持品の中に免許証がありました。浜村さんにご家族はいらっしゃいますか」
 
女性に訊かれ、航平は頷く。
 
「静岡に両親と弟さんがいます」
 
「連絡先はおわかりでしょうか」
 
「いえ……スマホに登録されてるのではないかと思いますが」
 
「パスワードがわからないので開けないんです。朝になったら携帯電話会社に問い合わせようと思っていたところで……」
 
「そんなこと明香里に訊けば……」
 
「意識不明の状態で集中治療室に入っています。かなり……危険な状態だと聞いています」
 
遮るように女性に言われ、目の前が真っ暗になる。
 
「できるかぎり早くご家族のかたにお知らせしたいと思っていますが、パスワードに心当たりはないでしょうか」
 
心がかき乱されながらも航平は必死に考えた。
 
「……どうかわかりませんが、とりあえず思いつくのは921116です」
 
921116――一九九二年十一月十六日。明香里が生まれた日だ。
 
女性が番号を復唱しながらビニール越しに中に入ったスマホを操作する。すぐにこちらに顔を向けて「違うようです」と言う。
 
「911213では?」
 
当てずっぽうで言ったが、女性がその番号を押すとスマホのロックが解除された。
 
一九九一年十二月十三日――航平の誕生日だ。

3


「ルミちゃんの性感帯はどこなの?」
 
薄暗い個室の中で溝口省吾が訊くと、狭いベッドで隣に座った茶髪の女が上目遣いにこちらを見て首をひねった。
 
「どこかなあ……どこでもけっこう感じちゃうけど」
 
女がそう言いながらピンクのキャミソールの裾をめくった。省吾の手をつかんで、あらわになった太腿の内側あたりに添えさせる。
 
「……しいて言うなら、このあたりが一番感じちゃうかな」
 
「こんな感じで触られると?」
 
そう言いながら省吾が愛撫すると、「うっ……」と女が下半身をびくつかせた。
 
「じゃあ、好きな体位は?」
 
もてなしながらさらに訊くと、「やっぱ、正常位?」と答える。
 
多少打ち解けてきて取材の波が乗ってきたと思っていた矢先、ぎしぎしとベッドが軋む音や、激しい息遣いや喘ぎ声などが隣の個室から薄い壁越しに聞こえてくる。
 
「ごめんね。うちの事務所狭いからこんなところで。いつもはやっぱ、そういうところで話すの?」
 
「事務所で取材することもあるけど、おれはこういうところで話を訊くほうが好きだな。なんか臨場感があってさ」
 
臨場感などは正直どうでもいいが、事務所や喫茶店などで先ほどのような卑猥なことを臆面もなく訊くのは抵抗がある。いや、抵抗というよりも、自分がどうしようもなく惨めに思えると言ったほうが正しいだろう。
 
エロやゴシップネタが中心の週刊誌で風俗記事を書くようになってもうすぐ二年になるが、この仕事にやりがいを感じたことなど一度もない。ただ、施設を出てから十三年間いろんな世界を漂ってきて、とりあえずたどり着いてしまった生業に過ぎない。
 
だが、それでも二年間こんなことをしているうちに、文章を書くのと、知らない人間と接するのが案外苦にならないことに生まれて初めて気づかされた。
 
「臨場感っていうなら、実際にサービスを受けながら取材する? 溝口さん、けっこうタイプだからそれでもいいよ」冗談とも本気ともつかない口調で女が言う。
 
「そうしたいのはやまやまだけど、クライアントからそういう行為は厳しく禁止されててさ」省吾はやんわりと嘘をついた。
 
人前で肌をさらしたくないだけだ。
 
「ところでさ……ルミちゃん、年いくつ?」
 
省吾が訊くと、「さっき言ったじゃん。二十歳だよ」とルミが笑いながら答える。
 
「本当は?」ルミをじっと見つめながら、穏やかな口調でさらに訊いた。
 
「二十歳には見えないってこと?」
 
不服そうな表情でルミに問われ、「そうじゃないんだ」と省吾は返した。
 
「さっきから話を聞いてて、二十歳にしてはずいぶんとしっかりした女性だなって感じたから。もしかしたらけっこう社会経験を積んでるのかなってね」
 
「本当にそんなふうに思う?」機嫌を直したようにルミが笑みを浮かべる。
 
「ああ。自分で言うのもなんだけど、人を見る目にはけっこう自信があるんだ。何て言ったって取材でたくさんの人に会ってるからさ」

省吾はちらっと腕時計に目を向けて、すぐにベッドの横に座るルミに視線を戻した。
 
「約束の時間までまだ二十分ほどあるでしょう。取材で訊きたいことは一通り訊いたし、ルミちゃんとちょっと世間話でもできたらなって」
 
「それも記事に載せるの?」
 
「もちろんオフレコで」
 
読者は風俗嬢の身の上話などに興味はない。ルックスと、どれぐらいの金額で遊べるのかが知りたいだけだ。
 
省吾の話を聞いて、考え込むようにルミがうつむく。
 
こういう振りをすれば、十中八九は話してくれる。
 
風俗で働いている女の多くは、他人にプライベートな話をすることに抵抗感を持っているが、同時に自分の話を人に聞いてもらいたいという欲求も強くあるのではないかと、これまでの経験から感じている。
 
「……本当は二十四」少しためらうようにルミが言った。
 
「そう。この仕事はダブルワーク?」
 
省吾が訊くと、ルミが首を横に振る。
 
「もう三年ぐらいこの仕事一本でやってる。この年になっていったい何やってるんだろうって、たまに考えちゃうけど……子供の頃は、二十代半ばの自分がこんなふうになってるとは思ってもいなかった」
 
「子供の頃は、どんなふうになっていると思ってた?」
 
「そうだなあ……学校の先生とかに憧れてたかも。小学校の……」
 
「学校が好きだったんだ?」
 
「勉強がそんなにできるほうじゃなかったからそれほど好きってわけじゃなかったけど、家にいるよりはマシだったから。それに安定してるじゃない」
 
「家が好きじゃなかった?」
 
省吾が訊くと、「そうだね……」とルミが頷く。
 
「父親はろくに仕事もしないで酒ばっかり飲んでたから」
 
「お母さんは?」
 
「わたしが小学校二年生のときに、浮気相手とどこかに消えちゃった。飲まなきゃやってられない気持ちもわからないでもないけど。生活保護でもらったお金もほとんどお酒やパチンコ代に消えちゃって、食べる物も着る物もまともに与えてもらえなかった」
 
貧困家庭における育児放棄だろう。
 
脳裏に忌々しい記憶があふれそうになるのを必死に抑えつける。
 
「同級生から貧乏人って言われたり、バイキン扱いされて無視されたりしたけど、それでも学校にいるときのほうがはるかにマシだった。学校に行けば給食を食べられたし、それに家にいても居場所なんかなかったしね。父親は酔っぱらうと最初は物に当たって、次にはわたしにも暴力をふるうから。父親が酔いつぶれて寝ちゃう時間まで家に帰らないように、児童館や図書館で過ごしてた。もちろんひとりでね」
 
「お父さんとはまだ一緒に暮らしてるの?」
 
省吾が訊くと、「まさか」とルミが大仰な声を上げた。
 
「わたしはその頃秋田に住んでたんだけど、高校一年生のときに家を出てから父親とは会っていないし連絡も取ってないから、今どうしているのかはわからない」
 
「高校を中退して家を飛び出したってこと?」
 
「そう」
 
「いじめに遭ったりしたの?」
 
「高校ではそういうわけでもなかったかなあ。わたしが通っていたのは誰でも受け入れるような定時制高校で、同級生たちは昼間働いてたりする人が多かったから、いじめなんかする気力もなかったみたいで学校にいる間はだいたい寝てたよ」
 
「じゃあ、どうして……」
 
「父親がお金を払ってくれなかったから。たいした金額じゃないのに、『学校に行きたいんなら自分で働いて払え』って。アルバイトはしてたけど、その言葉に何かプチンと切れちゃって、『それならもういい』って」
 
「それで今の風俗の仕事に就いたの?」
 
「さすがにそれはないよ」ルミがそう言いながら笑う。
 
「東京に来たときにはまだ十六歳だったし。最初は寮のある工場で働いてた。コンビニで売ってる弁当を作る工場で。でも、来る日も来る日もロボットみたいに同じ作業ばっかりで飽き飽きしてたし、それに三交代制だから時間も不規則で不眠症になったり精神的にもきつくなって、二年ぐらい働いて辞めちゃった」
 
「でも、工場を辞めたら寮からも出て行かなきゃいけないよね」
 
省吾を見つめながらルミが頷く。
 
「貯めてたお金で五畳ぐらいの安アパートを借りた。それで、もう少しまともな仕事に就こうとハローワークに通ったんだけど、中卒の自分にできる仕事なんてほとんどなかった。ハローワークの人から、職業訓練でヘルパー二級の資格を取ったらどうかって勧められたの。資格を取って埼玉の和光市にあるグループホームで働き始めた」
 
「正社員で?」
 
「そう。たしか手取りが十五万円ほどだった。そこの仕事は工場のときよりさらに過酷で、不眠がもっとひどくなった。それだけじゃなくて、休みのときとかは何もやる気が起きなくて、ベッドの中でひたすら寝るような状態になった。そのうち死にたい、死ななきゃいけないっていう気持ちが湧き上がってくるようになって……」
 
ルミの話を聞きながら、省吾はさりげなく彼女の手を見た。
 
先ほど手をつかまれたときに気づいたが、彼女の手首には幾筋ものリストカットの傷跡がある。

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