#6 贋作と本物を決めるものは【東野圭吾、電子書籍特別解禁】
悪夢から目覚めた神楽は、陶芸家だった父を襲った「ある事件」を思い起こす……。有名な陶芸家だった父の贋作が出回る中、贋作グループの男はロボットによって完璧な芸術品を作れると証明すると言いーー。
これまで日本では一切電子化されていなかった、東野圭吾作品。このたび、二宮和也、豊川悦司出演で映画化もされた超話題作『プラチナデータ』が、初めて電子書籍になりました! 発売に先駆け、特別に100P相当の「プラチナ試し読み」を全7回にわたってお届けします。
「外に出たい若者たちよ、もうしばらくご辛抱を! たまには読書でもいかがですか。新しい世界が開けるかもしれません。保証はできませんが。ーー東野圭吾」
* * *
7
風の気配を頬に感じた。風といっても、ほんのわずかな空気の揺れだ。空調だな、と気づく。さらには、音が耳に蘇ってきた。何の音だろう、と考える。遠くで車が走る音だ。
目覚めたようだ、とリュウは自覚した。
目を開けた。白いテーブルの端が見えた。いつものテーブルだ。水上教授の部屋にあるテーブルだ。その上に灰皿が載っている。そこには煙草の吸い殻がひとつ。といっても、それがふつうの煙草でないことは彼も知っている。その火を消したのが水上教授だということも知っている。『彼』――神楽は、それを吸った直後に気を失うのだ。それで指に挟んだ煙草が床に落ちる前に、教授が回収するというわけだ。
リュウは顔を上げた。水上が彼を凝視していた。観察する目だった。
「気分はどうだい?」水上が訊いてきた。
「まあまあかな」
「神楽君は君に興味津々のようだ」
リュウは声を出さずに笑った。椅子の上で身体が揺れた。
「俺のことなんかほっときゃいいのに。まあでも、無理ないかな。あいつにしてみれば、頭の中に居候が住んでるみたいなものだから」
「腹は減ってないかい?」
「食事は神楽に任せています。小便や大便もね。ついでにセックスも」
「そういう生理的欲求は殆どないといってたね」
「ゼロではないけど、そんなことをしている時間が惜しいんです。何しろ俺の人生は短いですから。大半は眠っているわけでね。短い人生だから、自分のやりたいことだけをしていたいんです」
「わかってるよ。絵を描かせろということだね」
「そういうことです。先生が神楽に反転剤を少ししか渡さないものだから、ここ以外の場所では、なかなか描くチャンスがない」
「無闇に反転剤を使用すると人格障害を起こすおそれがあるんだ」
「それはわかっています。だから我慢しているんです」
水上は一本の鍵をテーブルに置いた。
ありがとうございます、といってリュウはその鍵を手にした。立ち上がり、ドアに向かって歩きだした。しかしドアを開ける前に振り返った。
「以前から一度訊きたかったことがあるんです」
「何かな」
「水上先生には俺たちの症状を治せるんですか。この奇妙な病気を」
水上は一瞬迷いの色を顔に浮かべた後、二度三度と首を縦に動かした。
「必ず治せると思っている。少なくとも、神楽君がやろうとしていることに比べれば、はるかに容易なはずだ」
「それは頼もしいお言葉ですね」
「不安なのかい」
「いいえ、別に。ただ、ちょっと気になるだけです」
「何が?」
「仮にこの症状が治った場合、どっちが消えることになるのかなと」
「消える?」
「そういうことでしょう? 今は神楽と俺の人格が同居している。だけど症状が治ったら、神楽か俺か、どっちかの人格は存在できなくなる。違うんですか」
水上は、ゆっくりと瞬きした後、首を振った。
「それはわからない。その時になってみないと。現時点では、二人の人格が融合するのではないかと私は考えている」
「融合ですか。それはそれで、今以上に厄介な気がするけど。まあいいです。ちょっと訊いてみたかっただけです。俺は、自分が消えたって構わないと思っていますしね。では、部屋をお借りします」
ゆっくり楽しみなさい、という水上の声を背中で受け止めながら、リュウは部屋を出た。
エレベータに乗り、一つ上の階に移動した。廊下はひっそりとしている。かつてこのフロアでは、ヒトゲノムを解析する研究が行われていた。その研究が完結し、設備がよそに移された後は、各科の物置のように使われている。
リュウは奥に進み、あるドアの前で立ち止まった。鍵穴に水上から借りてきた鍵を差し込んだ。空き部屋ではあっても、厳重に施錠されているのだ。
ドアを開け、部屋の明かりをつけた。そこにはたくさんの絵が置いてあった。すべてリュウが描いたものだった。彼はそれらを一つ一つ眺めて回った。そのうちの殆どは、手だけを描いたものだ。左右の手で何かを包むようにしている構図が多い。
中央にイーゼルが立てられ、まだ何も描かれていない白いキャンバスが置かれていた。水上が用意したものだろう。その横の小さなテーブルには、絵の具や筆が並んでいた。
リュウが筆を取り、深呼吸をひとつした時だった。ドアをノックする音が聞こえた。
彼は思わず微笑んでいた。邪魔が入ったとは思わなかった。来訪者には心当たりがあった。むしろ待っていたとさえいえる。
彼はドアを開けた。外に立っていたのは、髪の長い娘だった。十五、六歳に見える。体つきはほっそりとしているが、顔つきには丸みがあった。二重瞼でぱちぱちと瞬きした後、リュウを見上げ、にっこりと笑いかけてきた。
こんにちは、と娘はいった。
やあ、とリュウは応じた。
彼女は当然のように部屋に入ってきた。まだ何も描かれていないキャンバスを見た後、リュウのほうを振り返った。
「はい、おみやげ」そういって彼女が差し出したのは缶ジュースだった。オレンジだ。
ありがとう、と彼はいった。
「ねえ、今日は何を描くの?」彼女は訊いた。
オレンジジュースの缶を握りしめ、少し躊躇ってからリュウはいった。
「もちろん、決まってるだろ」
すると彼女は再び笑った。丸い頬の上で、目が細くなった。
8
薄暗い廊下が前方に延びている。懐かしいようで、恐ろしくもある光景だった。
その廊下を、ゆっくりと歩いていく。廊下の両側には、引き戸が並んでいた。どれも皆、同じ形だ。歩いても歩いても廊下が途切れることはない。そして、どこまで行っても引き戸が並ぶ。それを開けるのが怖くて、彼は歩き続ける。いつかどこかに辿り着けるのではないかと期待している。引き戸がなくなるのではないかと願っている。しかし廊下は続く。永遠に続く。引き戸も際限なく現れる。絶望的なほどに無限だ。
やがて疲れ果てた彼の中に、ある期待が生じる。自分の求めている出口は、この引き戸ではないか。これを開ければ、別の世界が開けるのではないか。
その期待は次第に大きくなっていく。この状況から逃れたい一心で都合のいい答えを作りだしているだけだとわかりつつ、引き戸に手をかけてしまう。
やめろ、と誰かが叫んでいる。誰の声なのかはわからない。そいつは続ける。そこを開けたら取り返しのつかないことになるぞ――。
彼は、そいつに心でいい返す。だったらどうしろというのだ。この永遠に続く廊下を、闇に向かって歩き続けるのか。そのことにどんな意味がある。俺はもうたくさんだ。ここから出たいのだ。
やめろ、と誰かが再び叫ぶのを無視し、彼は引き戸に手をかける。そして、思いきってそれを開ける。
目の前に誰かが立っていた。黒い人影が、すうっと上下に伸びている。よく見ると立っているのではなく、吊されているのだ。
吊されているのは男だった。男が彼を見た。死人の目をしていた。
全身を痙攣させながら神楽は目を覚ました。その直前には、悲鳴とも呻きともつかない声を発した感覚があった。身体中から汗が噴き出している。
神楽は床に転がっていた。いつものことだった。例の、『彼』が絵を描く部屋の床だ。『彼』が眠りについた後、神楽は目覚める。その時には、決まって同じ夢を見る。永遠に続く廊下と引き戸の夢だ。
これまたいつものことだが、神楽はすぐには動けなかった。脳の中に煙が充満しているように頭が鈍く痛い。その煙が晴れるまでには少し時間がかかる。
そばに立っているイーゼルを見上げた。キャンバスに描かれているのは、一人の少女だった。髪が長く、白いワンピース姿で、こちらに向かって微笑んでいる。その目からは、人間の持つ負の気配が全く感じられなかった。神楽の知らない少女だったが、その純粋な眼差しに、一時引き込まれた。
イーゼルの真下にジュースの缶が二つ、並んでいた。どちらも空のようだ。『彼』がそんなものを買うとは思えないから、絵の少女が持ってきたのだろう。一体、どこの誰なのか。いつから『彼』――リュウと親しくしているのか。
神楽は、ゆっくりと身体を起こした。しかしまだ立ち上がる気力はなく、壁にもたれた。その姿勢で室内を見回した。たくさんの絵が壁に立てかけてある。多くの絵は、人間の手を描いたものだった。
水上教授が提供してくれたこの部屋は、いわばリュウのアトリエだ。同時に神楽にとっては、人間の心の謎を解く資料の宝庫でもある。なぜリュウは絵を描くのか。その絵にはどんなメッセージが込められているのか。いやそもそもリュウとは何者なのか。なぜ存在するのか。ここにある絵から、それらのことを解明しなければならない。
改めて少女の絵を見つめた。うまい絵だと感じた。自分には描けないとも思った。
だがこの絵に芸術的な価値があるかどうかは、神楽にはまるでわからなかった。それ以前に、芸術の意味が不明だった。芸術という言葉は、彼にとっては白いカーテンだ。その向こうは見えそうで見えない。じつは何もないのではないか、という疑いが常に頭の隅にある。
ある人物の声が神楽の耳に蘇る。
「芸術とは作者が意識して生み出せるものではない。その逆だ。それは作者を操り、作品としてこの世に生まれる。作者は奴隷なのだ」
この台詞をいった人物とはほかでもない、彼の父親だった。
神楽昭吾は、孤高の陶芸家と呼ばれた。新技術、新素材を使った陶器が普及する中、昔ながらの製法で、誰にも真似のできない彼独自の作品を提供し続けた。濫造せず、自分が真に気に入ったもの以外は、決して残そうとはしなかった。その姿勢と芸術性は高く評価された。当然のことながら、彼の作品は人気が高く、最高ランクに近い値がつけられていた。個展を開けば、高価なものから順番に売れていった。
一方で、家庭生活には向かない人物だった。見合い結婚をしたが、妻はストイックな生活に嫌気がさし、夫と息子を残して出ていってしまった。神楽が五歳の時だ。
だが神楽は父親が好きだった。納得する作品ができるまで土をこね続けている姿を見て、自分もこんなふうに生きられればどんなに幸せだろうと思った。他人には真似のできない作品を創造できる力を、心の底から尊敬していた。
そんな神楽昭吾の作品が、ある時期からコレクターの間で、頻繁に売り買いされるようになった。どう考えても数が合わなかった。
美術品調査委員会が警察と連携し、真相を究明することになった。その結果、贋作が大量に出回っていることが判明した。全く同じデザインの作品が、複数確認されたのだ。デザインだけではなく、材質、焼き方といったものも一致した。神楽昭吾は、同じ作品を二度と作らないことでも知られていた。
贋作の出現は、神楽昭吾の作品にとどまらなかった。世間で評価の高い陶芸家の作品が、大量にコピーされていた。当然、市場は混乱した。
やがて、組織ぐるみで贋作を作っていたグループが摘発された。彼等のアジトを調べた捜査員たちは、そこに置いてあったものを目にし、仰天した。
それはロボットだった。正確にいうと義手ロボットだ。
コンピュータ技術の進歩や新素材の発明により、ロボットの進化にはめざましいものがあった。中でも、人間の手の動きを忠実に再現できる義手ロボットは、革新的な進歩を遂げていた。指先は、人間の身体の中で最も複雑な動きが必要とされる。それをほぼ百パーセント再現できることで、多方面に用途が広まっていた。その一つが遠隔手術だった。手術室から遠く離れた場所にいる医師が、特殊なグローブを嵌めて指先を動かせば、手術室にセットされた義手ロボットが、彼の指先そのものの動きをしてくれるのだ。医師はモニターに映った患部を見ながら、いつものように執刀に当たればいい。この技術により、病院内に義手ロボットさえ備えてあれば、患者は世界中の医師の執刀を受けることも可能になった。
贋作グループのアジトに置いてあったのは、驚くべきことに、この手術用義手ロボットだった。ただし、それを動かすのは人間ではなく、別のコンピュータだ。
犯人たちは一流陶芸家たちの作品を徹底的に分析し、その構成要素をプログラム化することに成功していた。コンピュータがプログラム通りに指示を出せば、義手ロボットは陶芸家の手を正確に再現した。
だがこれだけならば、単に精巧な模倣物に過ぎない。じつは犯人たちは、次なる手段を計画していた。それは、この世にはまだ存在していないオリジナルを作るというものだった。もちろん、無名作家の名で作ったところで商売にはならない。犯人たちはコンピュータとロボットを駆使し、既存の陶芸家たちが「作りそうな」オリジナル作品を製作し、コレクターたちに売ろうとしていたのだ。
陶芸家や美術専門家は、冷笑を浴びせた。コピー作品なら客を騙すことはできても、機械によって作られたオリジナル作品など、芸術品に成り得ないだろうと決めつけた。
これに真っ向から反論したのは、ほかでもない。贋作グループのリーダーだった、Kという男だ。
「それならば、我々が作った試作品と陶芸家たちの未発表作品を専門家たちに見せてみればいい。どれがロボットの手によるものか判別できたのなら、自分たちの負けを認めよう」
牢屋からの挑戦を、意外なことに裁判所が後押しした。贋作作りは無論犯罪だが、その精巧さによって罪の大きさが変わるからだった。専門家が見分けられないほどなら、極めて悪質ということになる。つまりKとしては、そんな実験は自分で自分の首を絞めることに繋がるおそれがあるわけだが、それを覚悟してでも貫きたい信念があったのだ。
じつはKは、かつて優秀なロボット技術者だった。会社員時代、それに関する特許を何件も取得していた。しかしある時、彼が関わったロボットが事故を起こし、その責任を取る形で会社を追われた。彼にしてみれば、多大な利益を生み出してきた自分が、そんなふうに会社から切られるとは思ってもみなかった。彼の能力を過小評価している業界全体にも憤りを覚えた。贋作作りは、そんな私怨から始まったことだった。したがって、ロボットによって完璧な芸術品を作れると証明することは、たとえ刑罰が重くなるという結果を招いたとしても、彼としてはどうしても必要だった。
この挑戦を何人かの専門家が受けて立った。警察、マスコミ、さらには裁判関係者が見守る中、前代未聞の鑑定大会が実施された。
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