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『雪国』のヒロイン「駒子」のモデルになったのは誰? #1 川端康成と女たち

『雪国』『伊豆の踊り子』『掌の小説』『山の音』『片腕』……。数々の名作を生み出し、日本人初のノーベル文学賞を受賞した文豪・川端康成。作家・比較文学者の小谷野敦さんが上梓した『川端康成と女たち』は、女給のちよや芸者の松栄といった「女性」を切り口に、川端作品を再読する画期的論考。難しいと避けてきた文学がぐっと身近になる、そんな本書の一部をお届けします。

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そこはまだ「雪国」ではなかった


川端は、家では仕事ができないと言い、旅館へ行って仕事をするのを、戦後まで常とした。のちには「福田家」を定宿とするが、上野にいたころは、犬や鳥などをたくさん飼っており、そこから「禽獣」のような小説も生まれたが、子供がいるわけではないから、それがうるさいので外で書くというのでもない。家にいると落ち着いて書けないのだろう。

昭和九年の夏は、群馬県の温泉で執筆していた。その当時は、家に郵便物が来ると、秀子が出先へ転送しており、川端はそのやり方がまずかったりすると、「馬鹿野郎」とどなるために東京へ帰ろうかと思ったなどと、手紙で暴君ぶりを発揮している。秀子も川端を手紙で「旦那さま」と呼んでいる。
 
六月、川端はふと思い立って、新潟へ出ることにし、水上駅から上越線で北へ向かい、越後湯沢で降りた。上越線が越後湯沢まで延伸したのは大正十四年、この時から九年前のことである。この時、川端は初めて「国境」を越えたのだが、もちろん六月だから、出た先は「雪国」ではなかった
 
この「国境」について、「こっきょう」か「くにざかい」かという議論がある。明治維新前は、群馬県は上野国、新潟県は越後国だったから「国境」なのだが、どう読むかについては、どうでもいい・どっちでもいいとしか言いようがない。「掌の小説」についても、「てのひら」か「たなごころ」かという議論があるが、これもどっちでもいい。
 
そして問題の高半旅館に宿泊したのだが、この時はまだ「駒子」のモデルの藝者とは会っておらず、いったん帰京している。だが、その土地が気に入ったのか、八月末に再びこの旅館へ泊まっている。この時もむろん「雪国」ではない。
 
そしてこの九月一日、盲目の女按摩を呼んだ。この人は本名を星野ミサというが、のち『雪国』が名作とされるようになったから、多くの人がモデル探しにやってきて調べた結果分かっているのだ。

駒子のモデル・松栄との出会い

このように、文学作品について、モデル探しをしたり調べたりすることを嫌う人もいる。作品は作品として味わえばいいので、そんなことは余計なことだと考えたがるわけである。

しかし、調べたくなる気持ちがあるのもやむをえない。特に、研究者の場合、作品を読んで感想だけ言っていたのでは、感想文だ、学問ではないなどと言われることがあるから、学問らしい体裁のために調査するということもある。
 
だがそれも、ある時期からプライバシーといったことがうるさくなり、綿密に文学作品のモデルについて調査することがやりにくくなった。それでも人は調査をやめないだろう。
 
川端は女按摩に体を揉ませながら、いい藝者はいないか教えてくれと言った。女按摩は、顔がいいのと、話ができるのとどっちがいいかと訊いた。川端が、話ができるのがいい、と答えたので、按摩が紹介したのが、松栄という藝者だった
 
松栄は本名を小高キクといい、この年満で十九歳になり、三月ごろにこの温泉町で藝者になった。ここはキクに記憶の錯誤があるが、おそらくこの九月に呼ばれたのが最初だろう。

藝妓にせよ娼妓にせよ、置屋と揚屋が別ということがあり、この場合は温泉旅館だから、置屋からおそらく三味線を持ってやってくるのである。松栄は一階の部屋に呼ばれ、翌日から二階の霞の間へ移ったと言っている。
 
松栄は文学少女だったことがあり、自分の帳面に、読んだ本の感想など書いていた。それでも川端の名は知らなかったらしく、毎日三味線を聞かせに通っていて、三日目に、川端が封書の表に「川端康成」、裏にも同じように書いているのを見て、ものを書く人かもしれないと思ったという。
 
話のできる藝者といっても、松栄は別に不美人ではなく、十人並みの容貌で、恋人がいたこともあったという。九月は五日ほどの滞在で川端は帰京したらしいが、十二月にまた湯沢へ行って松栄に会っている。この十二月の越後湯沢行きの時であろう、清水トンネルを抜けると雪国だったという経験を初めてしたのは

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