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ネガティブはエネルギー…怒りたいときは怒ろう、泣きたいときは泣こう #4 傷口から人生。

過剰すぎる母に抑圧され、中3で不登校。大学ではキラキラキャンパスライフになじめず仮面浪人。でも他人から見てイケてる自分でいたくて、留学、TOEIC950点、ボランティア、インターンなど、無敵のエントリーシートをひっさげ大企業の面接に臨んだ。なのに、肝心なときにパニック障害に。就活を断念し、なぜかスペイン巡礼の旅へ……。

小説家としても活躍している小野美由紀さんのデビューエッセイ、『傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』は、「つまずきまくり女子」の人生格闘記。読めば生きる勇気が湧いてくる、そんな希望にあふれた本書から一部をご紹介します。

*  *  *

本当は、怒りたかったのに

とある新聞社の面接を受けた時だ。

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面接の前に、家族構成とその名前までもをアンケート用紙に書かされるような、古風な企業だった。

パーテーションで区切られた面接のブースに入ると、面接官のおじさんは、ちらりとアンケート用紙を見るなり、

「お父さんいないの?」と、一言、言った。

その言葉が、しゅんと耳奥に沁み込んだ瞬間。口がからからに干からびて、話せなくなった。心臓が、どくどく鳴るのをおさえて、私はただ、相手の顔をぼうっと見ていた。

多分、この企業に入れる人は、こういう時に「あははー、そうなんですー、お父さんいないんですよー!」と、明るく言える人、なんだろう。

私は、言えない人。この会社には、入れない人。

この時、明るく「いないんですよ!」と言えたら、私は満点をもらっていただろうか。あるいは、ムッとして、その場で席を立つぐらいの瞬発力があれば、嫌な気持ちをひきずらずに済んだだろうか。あの時、どちらもできなかった、愚鈍な自分の震える声が、ずっと記憶の底に刺さって、今も、抜けない。

私は一体、何を我慢していたんだろう

本当は、私はあの時、とても、怒っていたんだ。

怒っていたけど、怒っている自分が間違っているような気がして、怒りを瞬間的に、封じ込めた。テープでぐるぐるまきにして、記憶の底に沈めたのだ。

本当は、怒りたかったのに

怒り、悲しみ。苦しさや劣等感。ネガティブな感情を出すのは、ずっと、いけないことだと思っていた。「いいね!」が押せるものだけが、明るくてキラキラしたものだけが、存在価値のあるものだと思っていた。キラキラしていない、自分のどろっとした感情は、持っていないフリをして、生きていくしかないと思っていた。

誰もがいい人になろうとする。SNSは「いい人」のショーウィンドウだ。一人で生きて行くには、皆弱いから、「いい人」のフリをする。「いい人」になることで、保険をかけて、生き残ろうとする。「いい人」のインフレ。

でも、なんだか苦しい。だからそれは、別の形で爆発する。反転して、今度は過剰な「他人叩き」が始まる。Twitter は感情の洪水だ。他人へのネガティブな思いが寄せ集まれば、濁流となって、相手を飲み込む。もしくは、過剰な自虐で自分を慰める。

表と裏が、水と油のように、なんだか上手く混ざってはくれない。

でも。

この巡礼路はそんなありふれた「我慢」が一切意味を持たない場所だ。泣き、笑い、怒り……。誰もが、突然内側から溢れ出た感情に、とまどいつつも素直に従い、惜しみなくさらけ出している。うわべだけは研磨され、手触りよく整えられていた気持ちが、ある瞬間、ごつごつした原石に逆戻りする。

この道で皆が直情的になるのは、幼稚な願望の発露なのかもしれない。けれど、自分の国に帰った時、こんなふうに自分の感情を素直にぶつけられる場所や相手がいないことは、本当はとても悲しいことなのではないだろうか。うまくやらないといけないんだろうか。私たちは。「いい人」以外は、価値がないんだろうか。泣きたい時に泣いて、怒りたい時に怒りたいと思うのは、幼稚だろうか。心が弱い証拠なのだろうか。弱いのはいけないことなのか。

ネガティブな感情を殺す必要はない

奥谷まゆみさんという人がいる。私がパニック障害を患ってから、ずっと、身体を見てくれていた整体師さんだ。

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彼女はいつもこう言っていた。

「イライラしたり、悲しかったり、不安だったり、っていう感情はね。実は、余ったエネルギーを消費しようとして生まれるものなんだよ。たとえば、鬱病になったり、リストカットをしたり。そういう人こそ、身体をさわってみると、実はすごくエネルギーが溢れている。本当はすごくタフな身体を持っている。だって、そのネガティブな感情に負けないだけの身体を持っているんだからね。でも、その巨大なエネルギーを発散する方法を見つけられずに、自分に向けてしまうと、『心の病気』という形で出てしまうんだ。感情自体は、悪い物じゃない。感情は自分の行き場の無いエネルギーを上手く外に出すための道具だから、我慢しないほうがいい

ずっと、ネガティブな感情は殺さなければいけないものだと思って生きてきた。

でも、違う。

ネガティブは力なんだ

本当は、別の形をもって、芽吹くかもしれないエネルギーなんだ。

誰もが芽を出すエネルギーを持っている。

他人の負の感情を見た時、人は嫌な顔をする。誰も、誰かが怒っているところを見たくない。私もそうだ。でも、どんな感情も、その人のエネルギーの発露なのだ、と思えば、優しい目で相手のことを見られる気がする。相手の内側にあるものが、じわじわと外に現れてくるのを、その人と一緒に、待てるような気がする。

悩み、苦しみ、怒り、悲しみ。それらの負の感情を人の中にかいま見る時、その人の身体から、何かが芽吹こうとしているのを感じる。芽吹きたくてたまらなくて、でもどんなふうに発芽したらよいのか分からなくて、その方向性を、じっくり身体の内側でさぐっている、その人の内的な感受性の巡りを感じる。春を待つ動植物のように、じわじわと迷いながらも、芽吹く時を待っている、彼らのエネルギー。

怒りや悲しみの負の感情も、愛や慈悲も、すべて、一人の人間の両端だ。

般若の顔も、聖母の笑みも、すべて一枚の表と裏だ。ただ、その渦中にいる人間は気づかないだけなのだ。自分が強いエネルギーを持っていることに。

ネガティブは悪いことじゃない。病気になったり、落ち込んだり、悩んだり。一見、マイナスに見える人こそ、実はとんでもないエネルギーを秘めている。

ネガティブな感情は、その人の可能性だ。

ただ、本人が気づいていないだけなのだ。

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傷口から人生。

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