致死率100%、ワクチンなし…最凶の「ゾンビウイルス」を奪還せよ! #5 メデューサの首
微生物学者の坂口が発見した新型ウイルス。感染したラットは互いを獰猛にむさぼり喰い、死んでいった。ウイルスを処分した坂口だったが、その後、ウイルスを手に入れたという謎の団体からの犯行予告が首相官邸に届く。人質は、全国民。坂口は女刑事・海谷とウイルスを探すが、都内では次々と爆破事件が発生し……。
「藤堂比奈子」シリーズで知られる内藤了さんの『メデューサの首』は、衝撃連発のノンストップ・サスペンス小説。その緊張感にみちた物語の幕開けをご覧ください。
* * *
如月は棟内を進み、やがてどこかの前室で止まった。
廊下に備え付けの下駄箱に『微生物研究棟D』のスリッパを入れ、抗菌サンダルに履き替えると、備え付けのロッカーから装備一式を出して着替えた。
「保管庫かな?」
坂口は呟く。
保管庫には、ウイルスを含む研究サンプルが保管されている。それらは冷凍保存され、創薬やワクチンの開発など様々な研究に活用される。例えば周期的にパンデミックを起こすインフルエンザウイルスなどは、発生のたびに株を単離して冷凍保存し、遺伝子や分子進化を調べることで発生のメカニズムに迫ろうとしているのである。
如月は誰と会う予定だったのだろうと見ていたが、保管庫には助教と研究員がいるだけで、学会の打ち合わせに来たようには思えなかった。隠しカメラは胸のあたりに仕込まれているらしく、研究員の笑顔や機器などが映し出される。
――今は何を調べているのかね?――
如月の声がして、研究員の姿が後ろに消える。保管室内部をチェックしているのだろう。やがて映像にはウイルスの冷凍保管庫が映し出された。
――分子時計の検証で、塩基配列を調べようとして……――
相手の声は遠ざかり、如月の声ばかりが反射した。壁の前に立ったのだ。
――黒岩先生の研究室かね?――
黒岩は現在准教授として坂口と同じ研究室にいる。坂口が定年を迎えたために教授のポストが一つ空き、講師から准教授に繰り上がったのだ。
「あっ。そう言えば……」
坂口は席を立ち、デスクの隙間を抜け出した。
応接テーブルに載せたままだった招待状をつまんで戻る。結婚式の招待状は、その黒岩准教授から受け取ったものだった。
酒は好きなのに人付き合いはあまり好まず、どちらかといえば冴えない風貌で、特に女性と話すのは苦手だと言っていた黒岩がこれを持って来たときは驚いた。四十代の黒岩に対し、相手の女性が二十代前半と随分若く、知り合ってすぐ結婚を決めたと聞いた時にはもっと驚いたが、顔には出さずにいられたと思う。彼の大切な招待状が雑多な物に紛れているのはいかにも拙い。家内に見つかったら、黒岩先生に申し訳ないでしょうと小言を言われるところであった。
「そうだった、そうだった」
坂口はまたデスクに座り、卓上カレンダーに招待状を立てかけた。
やれやれとモニターに目を転じ、ギョッとする。意味不明の映像は進み、カメラが冷気で曇っていたからだ。映像は、如月が手にしたサンプルを映し出していた。
坂口は目を細め、サンプルに書かれた記号を読んだ。
――20180224. T S F. KS virus.――
「KS virus.……ケイエス、ウイルス……?」
その名前に聞き覚えはない。
しかも如月は保管庫からそれを出したのではなく、保管庫の奥にそれをしまったようだった。保管したまま二度と出される見込みのない棚列の、一番奥に。
――如月先生――
如月を呼ぶ声がして、映像は終了した。
……今見たものは、いったい何だ?
坂口は自分に問うた。そしてCDに走り書きされた『TSF・神よ』という文字を思った。TSFは何の略か。大学でよく使うTSFの意味は、こうだ。
トップ・シークレット・ファイル。
極秘ファイルなのだろうか。
「……神よ……?」
と、坂口は声に出し、首を傾げながらパソコンを閉じた。
如月と話していたのは、声から察するに二階堂という助教である。背が高く、イケメンで如才なく、坂口自身も何かと目を掛けている青年だ。
坂口は白衣を羽織って部屋を出た。
二階堂を探して廊下を歩き、そして、生体防御研究部門の実験室で彼を見つけた。
「二階堂君ちょっと。随分前のことだけど……」
如月が大学を訪れた日のことを訊ねると、二階堂はそれを覚えていた。
「確かにいらっしゃいましたけど、でも、如月先生から預かった物なんてないですよ」
「ウイルスのサンプルを持って見えたというようなことは?」
「サンプルですか? いいえ」
眉根を寄せて不思議そうな顔をする。
「保管庫にいらしたときのことですよね? あの時は、今どんな研究をしているのかと聞かれただけで……あとは室内の様子をチェックして出て行ったんですよ。さすが如月先生はおやめになった後も研究室のことが気になるんだなあと……挨拶をしただけだったので、久しぶりに顔を見せに来てくれたんだなと思ってましたが」
「保管庫の扉はその時どうしていた」
二階堂は首を傾げた。
「そりゃ……使用中だったので開いてましたが」
「ちょっと一緒に来てくれないか」
坂口は二階堂を連れて保管庫へ向かい、廊下に備え付けられた内線電話で、現在の保管庫責任者である黒岩准教授を呼び出した。
件の映像データは如月が生きていた頃のものだから、もしもその当時にKSウイルスなるものが持ち込まれたとするならば、管理不行き届きの責任は坂口にある。検体を持ち出される可能性はあると考えて警戒していたが、持ち込まれるとは思わなかった。
二階堂と黒岩に事情を話して保管庫の棚列を探った結果、如月が『神よ』と記したウイルスは、映像のままに凍結保存されていた。
六月中旬。
「あなた、ねえ?」と、妻が訊ねる。
謎のウイルス発見から数日後。弁当を届けに来たのを口実に、彼女は研究室の掃除をしている。梅雨時は明るい雰囲気にしましょうと、応接テーブルのクロスを薄い黄色に掛け替えた。白い小花を散らした乙女チックなデザインだけれど、もとより坂口はインテリアに興味がなく、自宅でも研究室でも、家内が掛けたまま、片付けたまま、飾ったままで生活している。彼女は手のひらでクロスの皺を伸ばしてから、テーブルに置かれていたあれこれを、元の場所に戻し始めた。
華やかでかわいらしいテーブルクロスは、灰色の研究室に咲いた花畑のようだった。
「ウイルスには意志があるって、ホントなの?」
研究に関心などないくせに、唐突に悪戯っぽい目を向けてくる。
「ウイルスには意志がある?」
オウム返しに答えると、
「本当なの? 今読んでいる本にね、そんなことが書いてあるのよ」
坂口は老眼鏡を外して妻を見た。自宅に置いた研究書を彼女が読むとも考えにくいが。
「今ね、幸子から借りたホラーを読んでいるんだけど、あるウイルスに感染すると、ウイルスが人の脳を操作して、高い場所から飛び降りるようにしてしまうのよ。それで、遺体の近くにいた人たちが次々に感染していくの」
何かと思えば小説の話だ。作家の想像力ってやつは、どこまでも無責任で浅ましいなと思う。子供たちが家を離れて時間を持て余しているのかもしれないが、妻にはホラー小説などではなくて、もっと平和で愛に満ちた書物を読んで欲しい。そう思うそばから、読みもしないで否定するのは科学者らしからぬ思考だな、と反省する。坂口は自分のデスクを離れ、妻のいる応接テーブルのそばへ移動した。
「意志を持つとは言えないまでも、ある種のウイルスが感染者の脳を操作するのは事実だよ」
「じゃあ、本当なのね」
そう単純な話ではないと、坂口は苦笑する。
「その小説の発想の元になったのは、バキュロウイルスのようなものだと思うね」
「なあに? その難しい名前のウイルスは」
家内がテーブルに戻そうとしていた精密機器のパンフレットを、坂口は取り上げて別の場所に移動した。資源ゴミになる書類用段ボール箱の中である。
「バキュロウイルスについては、東京大学の農学生命科学研究科がメカニズムの一端を明らかにしているんだけどね」
「難しいことを言われてもわからないわよ」
「梢頭病という昆虫の病気がある。幼虫だけでなく、サナギや蛾でも発病するんだが、梢頭病の原因がバキュロウイルスなんだよ。このウイルスの一群には多角体と呼ばれるタンパク質の結晶で守られているものがあって……」
疑問の本筋はそこではないと、家内は小首を傾げてみせる。
坂口は咳払いをした。
どうしても、専門知識を持つ学生に説明するようになってしまうのだ。
「このウイルスに感染した昆虫は枝の先などに移動していく。さっきの話に戻すなら、ウイルスが、感染した個体を外敵の目に届きやすい場所へ誘導するとも言えるかな」
「なんのために?」
「ウイルスは生きた動物の体内でしか繁殖できないんだよ。だから病気の虫を鳥などに捕食させ、昆虫より大きい鳥の体内で繁殖するんだ。枝先に登らせる理由はもう一つあって、高い場所にぶら下がった状態で昆虫を殺すためだ。梢頭病で死んだ個体は崩れやすくて、わずかの衝撃……例えば雨などで簡単に溶解してしまう。そうなると、多角体で守られたウイルス粒子が広範囲に撒き散らされるだろう? ウイルスは宿主から離れると急激に不活性化していくものだけど、粒子の状態であれば自然環境下でも病原力が比較的安定するからね。そうやって汚染された餌を昆虫が食べると、消化管内で多角体が解けてウイルスが遊離、体内に侵入してまた感染……こういう拡散サイクルを作り出すんだよ」
家内は目を丸くした。
「全部を理解できたとは言えないけれど、ウイルスが感染相手を操る可能性は、本当にあるのね……私、架空の話だとばかり思っていたわ」
「今のは昆虫の話だけどね、でも」
いたずらに恐怖心を煽るつもりはないが、坂口は家内の目を見て答えた。
「科学は驚きに満ちている。事実は小説よりも奇なりというけど、調べれば調べるほど驚くことばっかりで、小説なんかよりずっと凄いよ。だからぼくは小説を読まない。研究のほうが、ずっとスリリングで面白いからね」
「でも、じゃ、あながち荒唐無稽な話でもないってことでしょ? ウイルスに感染した人が、高いところへ上りたくなるのは」
「バキュロウイルスは人に感染しないよ」
妻にはそう言いながら、坂口は、(そういえば、ウイルスが人間を操る例もある)と、思った。
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