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神の手(上) #4

安楽死は、日本ではまだ法的には認められない。いくら安楽死の要件がそろっていても、やれば医師は殺人罪に問われる。

押し黙っている白川に、晶子が泣きながら取りすがった。

「望んで選ぶんじゃないんです。それしかないから頼むんです。これ以上、この子を苦しめるのは耐えられません。いつかまた元気になれるのなら、我慢もします。でも、もうどんなに苦しみに耐えても、望みはないんでしょう。それなら頑張らせるのはかわいそうすぎます。だから先生、お願いします」

「しかし、今の日本では、まだ……」

「だめですか。先生、どうしてもだめですか。白川先生なら、やってくださると思ってたのに! ああっ」

絶望した晶子は、章太郎のベッドに身を投げ出して嗚咽おえつした。

それが七日前のことである。

鎮静剤だけでは不十分なことは、白川にもわかっていた。あとは死ぬしかないのに、この苦痛に耐えさせるのはあまりにも酷い。しかし、安楽死が許されない状況で、ほかにどんな方法があるのか。

白川は中心静脈栄養のカロリーを減らしたり、水分量を半分にして脱水状態にしたりなどの無難な方法を模索した。しかし、そんな姑息こそくな手段で、章太郎の激烈な苦痛を消すことができるはずもない。

章太郎の血圧は、上がずっと一五〇以上で、脈も一〇〇を超えていた。肝臓も腎臓も正常で、若い臓器が全力で肉体を生かそうとしている。その一方で、がんは全身に転移し、神経に食い込み、途方もない痛みを生み続ける。

安楽死は高齢者の問題だと思われがちだが、そうではない。ほんとうに必要なのは、若い患者だ。生命力がありすぎて、どんなに苦しくても死ぬに死ねない。安楽死で彼らを救わなければ、とてつもない悲惨が続くばかりだ。なのに、自分は何もしていない。ただじっと終わるのを待っているだけだ。これでいいのか。

晶子から「あれを」と迫られた翌日、白川は病室で絶望している彼女に言った。

「まだ、やると決めたわけではありません。しかし、まず本人の意思を確認しなければなりません」

ケタラールの量を減らせば意識はもどる。白川はゆっくりと点滴を絞った。一分、二分。章太郎の呼吸が徐々に荒くなり、うめき声が大きくなる。

「あ……、あっ、あー、あーっ」

「章ちゃん、わかる。伯母さんよ」

晶子の呼びかけに、章太郎は顔をしかめながらうなずいた。

「古林君、わかるか。私だ、白川だ」

溺れかけた人が一瞬、水から顔を出したように、章太郎は大きくまぶたを開いた。白川は思わず言葉に詰まった。死にゆく本人に、しかも今、絶望的な苦しみにさいなまれつつある当人に、安楽死するかどうかなど、どうしてそんな無神経な問いが発せられよう。本人の意思確認など、安楽死の現場から遠いところにいる人間の空論ではないのか。

ふとそんな腹立たしさが頭をかすめたが、事態は一刻の猶予もなかった。白川は精いっぱいの誠意を込めて、章太郎に訊ねた。

「今、鎮静剤を少し減らして、意識をもどしたんだ。これ以上、薬を増やすと、呼吸が止まるかもしれない。それでもいいか」

「うーっ、うー、うぅーっ」

「古林君!」

章太郎は必死に苦痛に耐えながら、歯を食いしばっている。自分はなんと残酷なことをしているのかと、白川は己のおぞましさに身震いした。しかし、目を逸らすわけにはいかない。

晶子が我慢しきれなくなって叫んだ。

「先生、お願い。もう眠らせてやって」

章太郎が白川を見つめて、激しくうなずいた。

「いいんだな。よし」

言うが早いか、白川はケタラールの点滴を全開にした。薬液が連なって落ち、章太郎の意識が遠のく。徐々に呼吸が弱まる。ケタラールの呼吸抑制だ。うめき声が間遠になる。

「章ちゃん。これで楽になれるね。よかったね。長い間、苦しませてごめんね」

晶子が覚悟したように涙をあふれさせ、章太郎の手を握った。しかし、白川は点滴を調節するプラスチックのクレンメを半分ほどもどし、ふたたび薬の量を減らした。

「先生っ、どうして」

「まだ死なせるわけにはいきません」

弱まっていた呼吸が、徐々に回復する。それに伴い、喘ぎ声がふたたび高まる。やがて、さっきまでと同じ、もうろう状態でのうわごとがはじまる。

「どうしてなんです、先生」

晶子が悲しみに耐えきれないようすで顔を覆った。

「まだ、お母さんの了承を得ていない。康代さんに連絡しなければなりません」

康代の名を言われて、晶子はたじろぐように顔を上げた。

「わたしがずっと母親代わりだったんです。なのにどうして、今さら……」

章太郎の母、古林康代は、エッセイを書きながらテレビのコメンテーターとしても活躍するタレント文化人だった。白川が会ったのは、手術の数日後と、がんが再発してから見舞いに来たときの二回きり。姉の晶子とは見た目も性格もまるでちがう、派手な顔立ちのやり手のようだった。

康代自身が語ったところによると、彼女は京都の女子大を卒業後、ボランティアで介護施設を支援するNPOを立ち上げ、関西一円にネットワークを広げたという。その傍ら文筆活動に励み、十年前に新聞社のエッセイスト賞を受賞して、今は介護のみならず、社会保障全般に詳しい論客として注目されているとのことだった。

彼女が章太郎を産んだのは二十七歳のときで、相手の男とは婚約はしていたが、出産の前にそれを破棄したらしい。少し前に彼女のNPO活動がテレビで取り上げられ、メディアへの露出がはじまったからだ。活動の場を広げたいと思っていた康代は、家庭に縛られたくないと思ったのだという。

これらのことを、康代は初対面の白川に、立て板に水の関西弁でしゃべったが、その意味するところはつまり、母親の役目を果たしていないことへの弁解のようだった。

康代に代わって章太郎を育てたのが、独身の晶子である。彼女ははじめ康代の家に通って世話をしていたが、章太郎がワープロに向かう康代にまとわりついて邪険にされたり、食べ物をこぼして平手打ちをされたりするのを見て、自宅に引き取ったのだという。校正者としての収入と、親の遺産で晶子には多少の余裕があったようだ。

その晶子に康代を呼んでほしいと頼むと、なぜか連絡を渋った。妹は忙しいとか、章太郎のことは自分に一任されているとか、説明ともつかない言い訳を繰り返すので、白川が重ねて頼むと、晶子は言いにくそうに白状した。

「実は、康代に話してないことがあるんです」

「どんなことです」

「章ちゃんが、こんなに悪いって……」

「何ですって」

白川はあきれた。だから、康代は見舞いにも来ないのか。性格の弱い晶子は、我の強い妹を恐れているようなところがあった。しかし、章太郎の状態がこれほど切迫している今、遠慮などしているひまはない。

「それじゃ、私が連絡します」

白川は晶子にかまわず、康代のケータイに連絡した。二回のコールでつながり、白川が名乗ると、「あ、白川先生ですか。章太郎がほんまにお世話になってます」と、テレビで聞き覚えのある歯切れのよい関西弁が飛び出した。

「章太郎君のことでお伝えしたいことがあるので、一度、病院に来て……」

言い終わる前に、康代がまくしたてた。

「先生、ご存じやと思いますけど、今、わたしが追っかけてる薬害脳炎の裁判、いよいよ大詰めなんです。原告団は被害者の全員救済を訴えて、一歩も引かへん構えです。間もなく二回目の和解案が出ますけど、国も追い詰められてるよって今度は譲歩まちがいなしですわ」

この母親はいったい何を言っているのだろう。息子が死ぬかもしれないというのに、仕事の話を優先するのか。いや、晶子がきちんと伝えていないせいで、楽観しているのかもしれない。

「古林さん。実は章太郎君の容態について、ぜひお伝えしなければならないことがあるのです」

「何ですのん、そんなに改まって。病気のことですか。それやったらむずかしいというのは承知してます。けど、できるだけのことをしてやってほしいんです。お願いします。わたし、現代医療を信じてますから」

「いや、そういうことではなくて」

白川は思わず天井を見上げた。まさかまだ治る見込みがあるとでも、思っているのではないだろうな。

「古林さん。よく聞いてください。章太郎君の治療方針について、至急、お目にかかってご説明したいことがあるのです。明日にでも病院にお出でいただけませんか。午前でも午後でもけっこうですから」

「うかがいたいのはやまやまですけど、今は忙しいて食事の時間も惜しいくらいなんです。電話やったらあきませんの?」

「いや、ぜひお目にかかって直接」

「ほんならできるだけ行くようにしますけど、こっちも事態が切迫してますよって、確約はできませんけど」

「よろしくお願いします。お待ちしていますから」

いったいだれのための連絡か。白川は不快になったが、感情を抑えて通話を終えた。

翌日、白川は一日中時間を空けて待っていたが、康代は現れなかった。

その翌々日、すなわち今から三日前、白川は朝いちばんに康代のケータイに連絡を入れた。改めて来院を依頼しようとしたら、また話を遮られた。

「先生、昨日のニュース、見てはりませんの」

「何かあったんですか」

「昨日の夕方、薬害脳炎患者の十九歳の青年が、国会議事堂前で焼身自殺を図ったやないですか」

それは知らなかった。章太郎以外にも十二人の患者を受け持っている白川は、章太郎の治療の合間に、ほかの患者の診察や手術をこなしている状態だったから、テレビなど見るひまがなかったのだ。

康代は興奮した声で続けた。

「そやから、わたし今、東京なんですよ。幸いガソリンの量が少なくて、青年は命を取り留めました。よかったわ。ほんまによかった」

彼女はいったいだれの母親だ。章太郎か、この自殺未遂の青年か。腹立たしい気持を抑えつつ、白川は声を強めた。

「お母さん。章太郎君は今、たいへん危険な状態なんです」

お母さんと呼んだのは、少しでも自覚を促すためだ。ところが、康代の声がふいに尖った。

「危険て、どういうことですの。今にも章太郎が死ぬような言い方やないですか」

白川は気を緩めずに応えた。

「それに近い状態です」

「何ですて。そんなん聞いてへんわ。先生、まさか章太郎の治療をあきらめはったんやないでしょうね。危険な状態や言うて、人工呼吸器はつけてるんですか。できるかぎりのことはしてもろてるんですか」

「今は人工呼吸器をつけるような状態ではありません」

「それやったら、大丈夫でしょう」

「しかし、その、心臓が弱っていて、そろそろ限界に……」

白川は言い淀んだ。つい嘘の説明が出てしまったからだ。章太郎は心臓が丈夫だから死ねないのだ。しかし、心臓が弱っているとでも言う以外に、康代を呼び寄せる方法があるだろうか。

「ほんなら強心剤は使うてるんですか。補助心臓とかもあるでしょう」

がんの末期患者に、補助心臓だと? 白川は開いた口がふさがらなかった。こういう生半可な知識で現場をかきまわす似非えせインテリがいちばん困る。

「そういう状況ではないんです。病院に来ていただいたら詳しくご説明しますから、どうか時間を作ってください」

「無理です。今度の事件で、市民の怒りは最高潮に達してるんですよ。今、わたしが現場を離れるわけにはいかへんわ。章太郎の治療には、とにかくベストを尽くしてください。あらゆる手段を使うてください。最後まであきらめんと」

通話は切れた。

「くそっ」

白川はケータイを床に叩きつけたい衝動をかろうじてこらえた。実の母親がここまで治療を望んでいては、章太郎を安楽死させることなどとてもできない。

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