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仏教学者がズバリ答える「輪廻転生を信じるのか、信じないのか?」 #2 真理の探究

「仏教」と「近代科学」。一見、正反対のように見えますが、アプローチこそ違うものの、共通する部分がたくさんあることをご存じでしょうか? 『真理の探究――仏教と宇宙物理学の対話』は、仏教学者・佐々木閑さんと物理学者・大栗博司さんが、釈迦の教えから最先端の科学まで、縦横無尽に語り尽くしたスリリングな対話集。その一部を抜粋してご紹介します。

*  *  *

仏教と科学の大きな違いとは?


大栗 さきほどの仏教の三つの理念について、質問させてください。

第一に、超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明すること
 
第二に、努力の領域を肉体ではなく精神に限定すること
 
第三に、修行のシステムとして、出家者による集団生活体制(サンガ)をとり、一般社会の余りものをもらうことによって生計を立てること
 
ということでしたが、第二、第三の理念は、いかに心安らかに生きていくかという哲学のように見えます。いかにして苦しみを取り除き、より良く生きるかの方法論を語っている。

これは科学とは関係のないことで、おそらく日本で仏教を受け入れている人々の多くも、主として第二、第三の理念に納得しているのではないでしょうか。
 
それに対して第一の理念である「超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する」は、科学の自然観と重なります。物理学者も超越者の存在は認めず、自然界に法則があると考える
 
ただし仏教が科学と違うのは、実験や観測で検証しようのないものを仮定しているところです。たとえば輪廻は仏教における主要な概念だと思いますが、これは検証しようがありません。これは仏教があらかじめ受け入れてしまったものだと考えてよろしいのでしょうか
 
佐々木 そうです。それは釈迦が生きた時代のインドでは当たり前の社会通念として存在しました。だから仏教もその枠組みを受け入れた。

おそらく当時の釈迦は輪廻に対して何の疑念も持たず、その上に自分の理知を載せるようにして世界観を構築したのだと思います。科学者にも、無条件で受け入れる通念はありますよね。
 
大栗 おっしゃるとおりです。科学者も過去の科学で確立した法則を受け継いで、世界を理解しようとしています。

しかし、科学では、確立した法則であっても、新しい知見があれば修正され、拡張されることもあります。たとえば、ニュートンの重力理論がアインシュタインによって乗り越えられたのはその例です。

すべてを信じているわけではない


佐々木 その点は仏教も同じです。二千五百年前のインドでは当然の社会通念だった輪廻も、現在の日本人にとっては社会通念ではないので、私たちはそれを土台にすることはできません。私自身、輪廻は信じておりませんから

大栗 おお、そうなんですか。
 
佐々木 ええ、そうです。輪廻というのは単に「生まれ変わりを信じる」ということではなく、ある特定の世界観を承認することなんです。
 
この世には天・人・畜生・餓鬼・地獄という五つの領域が実在し、生き物はそれらの領域の中で無限に生まれ変わりをくり返すというのが輪廻です。釈迦はこの輪廻世界の上に自分の理論を構築したわけですが、それを現代の私たちにそのまま認めろというのはムチャな話です。
 
大栗 一神教の場合、とくにイスラム教はそうですが、宗教の教えをそのまますべて受け入れるか、あるいはまったく信じないか、白か黒かの二択を迫る傾向があります。ムハンマドの言葉を一部でも否定すれば、イスラム教徒ではなくなるのでしょう。

しかし、仏教はそうではない。お釈迦様の言葉の一部を受け入れずに、それでも仏教の信者であることは可能だということですね。
 
佐々木 もちろん、釈迦の教えを一から十まで丸ごと信じなければ仏教信者ではない、と主張する人たちもいます。

しかし仏教は絶対者の言葉を人々に説き広めるという使命を持たない宗教ですから、釈迦の教えを丸ごと信じようが部分的に信じようが、あるいは全否定しようが、それによってほかの誰かから福をもらったり罰を受けたりすることはありません。
 
言ってみれば、仏教という道具をどう使って、どう生きるかは各人の判断に任された自己責任の世界なのです。
 
私自身は、輪廻は信じておりませんが、その上に釈迦が構築した世界観――自分の努力によって煩悩を消し、それによって苦しみから逃れる――という部分は、自分の役に立つと信じています。その意味で、私は仏教の信奉者なのです。
 
大栗 なるほど。すると、三つの理念のうち第二と第三はそのまま受け入れ、第一については更新された法則を受け入れるということですね。

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真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話


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