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神の手(上) #5

その日の午後、白川が病室に行くと、晶子が窓際に立って泣いていた。病室は六階だ。窓には簡単な手すりしかない。白川は不吉な予感に襲われて、晶子に歩み寄った。

「どうしたんですか」

「さっき、妹から電話があって、叱られたんです。わたしがしっかりしていないから、妹が大事なときに、先生に振りまわされると」

「そんな。古林さんはこんなに一生懸命に看病しているのに」

ふたたび康代に対する怒りがこみ上げた。章太郎は完全に意識が消えないまま、うめき続けている。康代には晶子の苦しみがわかっているのか。白川が苦々しい表情を浮かべると、晶子が叫ぶように言った。

「先生、わたしはもう耐えられません。気が狂いそう。章ちゃんを殺してわたしも死にます」

晶子はベッドに飛びかかり、章太郎の首に手をかけた。

「何をするんです」

とっさに引き離したが、白川は晶子の思いがけず強い力にたじろいだ。彼女は本気だ。それに痛々しいほどせた背中。さらには首筋からにおう体臭。彼女は毎晩遅くまで付き添い、家に帰っても食事もせず、風呂にも入らず横になるのだろう。

「古林さん、落ち着いてください。もう少しだけ時間をください。私がなんとかしますから」

あらがっていた力がふいに抜け、晶子はその場にへたり込んだ。ベッドに顔を突っ伏して泣き崩れる。その姿を見て、白川は身を切られるような焦りを感じた。

これまでにも、白川は末期がんの患者を何人も看取ってきた。あまりの苦しみように、安楽死を考えたこともある。しかし、いずれも迷っているうちに、患者の寿命が先に尽きた。老いた患者ばかりだったからだ。しかし、章太郎は若いから死なない。ただ苦しみに耐えるだけの命を、座視していていいのか。

翌日、翌々日と、白川はケタラールをぎりぎりまで調節して、章太郎の意識を落とすように努めた。苦痛には波があり、症状が和らぐと章太郎はわずかに眠る。しかし、痛みがぶり返すと、またうめき、腰をよじり、腕を投げ出す。晶子はうつけたようにそれを見やり、精神的には文字通り限界のようだった。

白川はついに意を決して、晶子に言った。

「明日、朝いちばんに、康代さんに連絡して、章太郎君が危篤だと言いましょう。嘘の説明だけれど、仕方がない。それでも彼女が来ないようなら、私がケタラールを増やして、気づかれないうちに章太郎君を安楽死させます。康代さんには、がんが急激に悪化したと言えばいい」

「明日……ですね」

焦点を失った目に、かすかな光が点った。

それが昨日だ。

十月一日水曜日。今朝、白川は出勤と同時に康代に電話した。しかし、留守電だった。とにかく至急来てくださいと吹き込み、八時半から予定されていた食道がんの手術に入った。その執刀を終えて、手術室を出たのが午後三時。手術患者の術後処置をしたあと、昼食もとらずに章太郎の病室に行ったが、康代は来ていなかった。

「康代さんはまだですか」

「今も連絡して、すぐに来てと頼んだんですが、行けたら行くとしか……」

おびえたような晶子の声に、白川は思わず舌打ちをした。いったい、どこまで身勝手な母親なのだ。

ほかの患者の診療や電子カルテの入力をしながら、白川は何度も章太郎の病室へ行った。だが、康代は来ない。そのうち夜になった。このまま康代が現れなかったらどうするか。

いったんは決意したものの、白川にも迷いがないわけではない。安楽死は、実行すれば取り返しがつかない。ほんとうにやっていいのか。

白川は東海大学安楽死事件のときに、横浜地裁が出した安楽死容認の四要件を、思いつくまま胸の内で確認した。

・患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること。これはまちがいない。

・苦痛を除去する方法を尽くし、ほかに代替手段がないこと。これもそうだ。

・生命の短縮を承諾する本人の、明示的な意思表示があること。これも確かめた。

・死が避けられず、死期が迫っていること。死が避けられないのはまちがいないが、このままでは章太郎はすぐには死なない。しかし、すぐ死ぬのなら、そもそも安楽死は不要なのだ。死期が遠いからこそ、死なせるのだ。これは要件のほうがまちがっている。

午後十時十五分、白川はいったん外科部長室にもどり、出前で頼んでおいたハンバーグカレーを食べた。すっかり冷めて、ラップに水滴がびっしりついている。肉も硬く、半分も喉を通らない。

医局の大部屋をのぞくと、だれもおらず、ひっそりとしていた。ふと足元で何かが動いた。黒っぽい虫が弱々しく跳ねる。コオロギだ。どこから迷い込んだのか。こんなところにいたら、飢え死にするか踏みつぶされるかだ。

白川は屈んでそれを指でつかまえた。窓辺に行き、手を外へ出す。コオロギは待っていたように手のひらから夜の闇にジャンプした。あんな小さな虫でも、命は命だ。

しばらく闇を眺めていたが、白川は現実に引きもどされて、医局をあとにした。向かう先は章太郎の病室である。このまま章太郎を安楽死させてしまっていいのか。今なら、まだ中止できる。もし、章太郎の容態が落ち着いていたら、晶子に延期を説得しようか。

迷いながらスライド式の扉を開くと、うめき声は聞こえなかった。異様な静けさ。章太郎は眠っているのか。白川の姿を見た晶子が、逃げるように壁際に顔を背けた。ケタラールの点滴が、滝のように落ちている。

「古林さん。まさか」

白川は急いで駆け寄り、点滴を止めた。晶子が自分でクレンメを操作し、ケタラールを全開にしたのだ。とっさに枕元の心電図を見ると、緑の輝線が平坦になりかけていた。

「古林君!」

大声で呼び、章太郎の頬を打った。かすかなうめき声が洩れ、眉間に苦しげな皺が寄る。白川は反射的に心臓マッサージをした。十回ほどで心電図がもとにもどる。呼吸も回復したが、同時に耐えがたいようなうめき声ももどってくる。

「古林さん、滅多なことをするもんじゃない。あなたが章太郎君を死なせたら、それこそ殺人だ。章太郎君の治療は私に任せてください」

白川の厳しい口調に、晶子はふいに号泣し、狂ったように壁に頭を打ちつけた。痩せた背中が震える。その姿を見て、白川はもう一刻の猶予もないと腹をくくった。

「わかりました。私がやります。だから、どうぞ泣かないで。章太郎君の最期を見届けてあげてください」

白川は晶子を抱きかかえるようにしてベッドの横に立ち、プラスチックのクレンメに指をかけた。章太郎を見おろす。細い眉、高い鼻、まだ幼さの残る唇。

「古林君。いいな」

そう言ってクレンメのロールを押し上げたとき、白川の指先に、これまで経験したことのない電撃のようなしびれが走った。

これが手を下す、ということか……。

思う間もなく、ケタラールの点滴は連なりとなり、章太郎の体内に流れ込んだ。

それから約十五分、呼吸が抑制され、脈拍はいったん一二〇を超え、そして徐々に下がっていった。若い肌から生命の最後のにおいが立ちのぼる。晶子はベッドの傍らに立ち、胸元で両手を握りしめていた。章太郎は何度か顎を突き上げ、最後は静かに喘ぎを止めた。

白川は型通りに死亡確認を行い、晶子に臨終を告げて頭を下げた。

「康代さんは、とうとう来ませんでしたね」

白川がつぶやいたあと、常夜灯だけの薄暗い病室に、奇妙な静寂が訪れた。静かに横たわる章太郎を見つめながら、白川はナースコールを押した。

「古林君が急変した。だれか来てくれ。蘇生セットはいらないから」

そう言ってから、白川は思いがけない緊張に襲われた。ここに第三者を呼び入れることに、言い知れない不安を感じたからだ。

この安楽死は、自分と晶子だけで決めたものだ。外科部長の白川は、立場上、だれの指示を受ける必要もない。しかし彼は、この安楽死を公表するのか隠すのか、まだ決めていなかった。

廊下に足音が聞こえ、扉が開いた。入ってきたのは、西田節子にしだせつこという一年ほど前に京洛病院に転勤してきた看護師だった。二十代後半の目立たない女性だ。

白川は平静を装いつつ、とっさに言った。

「さっき私がようすを見に来たら、もう下顎かがく呼吸になっていたんだ。ケタラールを止めて心臓マッサージをしたが、もどらなかった。古林さんがこのままでいいとおっしゃったから、それ以上の蘇生処置はしなかった。死亡確認は午後十時四十分。あとの処置を頼む」

西田はマスクで表情を隠したまま、「わかりました」と低く応えた。白川は西田の妙に落ち着いた態度に、得体の知れない苛立ちを感じた。

「これでやっと、彼も楽になったんだ」

つい弁解めいた口調になり、白川は慌てて咳払いでごまかした。西田は訝しむように白川を見て、「そうですね」とつぶやいた。

「白川先生。ありがとうございます。お世話になりました」

晶子が深々と頭を下げると、西田が背中を向けたまま、感情を込めずに言う。

「患者さんをきれいにしますから」

西田はてきぱきと動き、ベッドの反対側にまわって章太郎の枕をはずした。タオルケットを剥ぎ、手早く丸める。さっきまで激しく喘いでいた胸は、石のように動かない。

「古林さん。今までほんとうによく看病されましたね。お疲れさまでした」

「はい……」

白川は晶子の注意を遺体から逸らそうとしたが、彼女はだれに何を言われようと、章太郎から目を離さないと心に決めているようだった。

西田は遺体を気遣うそぶりも見せず、胸に貼りつけた心電図のパッドを無造作に剥がした。この調子なら、尿の管を抜いたり、口や鼻に綿を詰めるのも機械的にやるにちがいない。そんなところは、とても晶子には見せられない。

「処置が終わるまで、出ていましょう」

晶子を半ば無理やり廊下に押し出しながら、白川はやるせない苦渋の思いに包まれた。これでまたひとつ、治療が終わった。死者を看送るたびに抱く空虚な痛恨。

白川は、今回の章太郎の処置で、自分が一線を越えたことを、さほどは意識しなかった。すべては必要な治療だったのだ。法律の問題や、安楽死論議のきれい事をいくら並べてみても、現場の判断はこれしかない。

ただ、後ろ手に扉を閉める瞬間、なぜか西田一人を病室に残すことに、強い不安を覚えた。それは一瞬だったが、奈落に墜ちる直前の、身の毛がよだつような胸騒ぎに似ていた。

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