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数年ぶりに見た妻の夢…小泉今日子さんも絶賛した、再生と希望の物語 #1 骨を彩る

十年前に妻を失うも、最近心揺れる女性に出会った津村。しかし罪悪感で喪失からの一歩を踏み出せずにいた。そんな中、遺された手帳に「だれもわかってくれない」という妻の言葉を見つける。彼女はどんな気持ちで死んでいったのか……。

わからない、取り戻せない、どうしようもない。心に「ない」を抱える人々を痛いほど繊細に描いた、彩瀬まるさんの『骨を彩る』。小泉今日子さんも「著者が紡ぐ言葉や情景がとても美しくて、何度も泣きたくなった」と絶賛した本作から、第一話「指のたより」をご覧ください。

*  *  *

指のたより

襖を引くと、和室には妻の朝子がいた。押し入れから冬服を詰め込んだ段ボールを取り出して、衣替えをしているところだった。

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「ただいま」

呼びかけに振り返った妻は、黒目がちの目を輝かせて「おかえりなさい」と笑う。津村は不思議な気分になった。衣替えは、先週だか先々週だかにもう済ませたのではなかったか。けれど、こうしてセーターだの保温下着だのが畳へ積み上げられているということは、もしかして開梱すべき段ボールを一つ見落としたのか。すまなく思って、そばへ座った。

「手伝おうか」

「だいじょうぶ、あとはこれをしまって、おしまいだから」

朝子はそばに積み上げた衣服の山から、きれいに畳まれたうす緑色のシャツを抜きだした。今年中学に入った娘の、学校指定の半袖シャツだ。夏には日焼けした腕にこの涼しい色合いがよく映えていた。ボタンが並ぶ表面をするりと撫で、収納用の段ボールへ差し入れる。

ふと、違和感にかられて妻の右手を取った。飾り気のない、しっとりとした小振りの手だ。マニキュアの塗られていない楕円の爪が血色よく光っている。手のひらにのせてその手を眺め、津村はああと息を吐いた。

妻の手には、小指が欠けていた。指の付け根に、皮膚に覆われた骨がほんのわずかな盛り上がりを残すばかりで、すらりとした指そのものは切り落とされたようになくなっている。彼女は、事故にでも遭ったのだったか。なにより、長い付き合いであるにもかかわらず、夫である自分が妻の抱える欠落に気づいてこなかったことを申し訳なく感じた。

小指があるべき場所に残った骨のとがりを慎重に撫でる。朝子は津村の動作を気にする様子もなく、穏やかな顔でさっさと段ボールの蓋を閉めた。

「防虫剤を、新しいのに替えなくちゃ」

言って、欠けた右手を畳について立ち上がる。

開いていたはずのまぶたが、もう一枚開く。寝室の見慣れた天井が視界いっぱいに広がった。

数年ぶりの妻の夢だった。まぶたの裏に、台所へ向かう彼女の、ふくらはぎの輪郭が残っている。


「母さんの夢、見たぞ」

朝食の途中にそう告げると、チョコがけのコーンフレークを口へ運んでいた小春はスプーンを止め、ふーん、と気のない相づちを打った。

「なにかお告げっぽいこと言ってた?」

「いや、なにも。衣替えして、お前の夏物の制服をしまってた」

「なにそれ、変なの。お母さん、私の制服姿なんか見たことないのに」

「だから、ちゃんと見守ってるんだろうさ、お前を」

「どうだかね」

小春はさほど信じていない素振りで肩をすくめ、テレビの天気予報に顔を戻した。

食後、それぞれに皿を片付けて身支度を整える。家を出るのは、バスケットボール部の朝練があるのだという小春の方が早い。一年生は早めに登校してコートのモップがけをしなければならないらしい。制服の上にコートを羽織り、マフラーを口元まで引き上げた小春は、玄関口で津村へ振り返った。

「お母さん、パパと相川さんの仲を妬いて出てきたんじゃない?」

いたずらを仕掛けるように唇の両端を持ち上げ、いってきます、と玄関の戸を押し開く。黒い革靴から伸びたふくらはぎは、まるで子持ちししゃものように上部の筋肉が突き出ていて、まぶたに残る妻のふくらはぎとよく似ていた。津村はひげの剃り残しがないことを確認し、生ゴミ袋の口を縛ってからスーツの上にコートを着た。

部屋を出る間際に、ふと思いついて簞笥の引き出しを開いた。保温下着も長袖の寝巻きもきちんと畳んで詰め込まれ、使われるのを待っている。衣替えはちゃんと先月のうちに済ませてあった。けれど、そうだ。確かに防虫剤の有効期限が切れていて、新しいものを買ってこようと思ったのだった。妻のお告げに感謝しながら引き出しを押し込み、ゴミ袋を提げて家を出た。

津村は都心にほど近い西武沿線の駅前で小さな不動産事務所を営んでいる。父の代までは地域に密着した個人経営の事務所だったが、時代の波にはあらがえず、津村が引き継いで数年も経たないうちに大手不動産会社とフランチャイズ契約を結んだ。従業員は営業担当の社員とアルバイトの事務員がそれぞれ二名ずつ。景気の変動に翻弄されながらも、小回りのきく事業規模とベテランの従業員たちに助けられて、なんとか赤字を出さずにやってきた。

いつも通り事務所に一番乗りで出勤した津村はフロアのモップがけをし、夜の間に届いた顧客からのメールを順々に開いていった。トラブル対応など火急の用件がないことを確認して、今度は本社指示をプリントアウトする。八時を回り、出勤した事務の宍戸さんがコーヒーをいれてくれた。もう五十近いだろう、地顔がむっつりとした無口な女性だが「親身になってくれる」と顧客からの評判は良い。温かいマグカップを受け取り、津村はありがとうございます、と礼を述べた。

「今朝は霜がおりてましたね」

「ええ。来る途中で、畑の野菜が凍ってました」

妙な夢を見たせいかも知れない。ふと、宍戸さんの右手に目を引かれた。ささくれの目立つ乾いた手だ。角質がこまかな鱗のように浮き上がり、ぶ厚い爪にはスジがいくつも入っている。人差し指に、大きな絆創膏が巻かれていた。

「指、どうかされましたか」

宍戸さんは絆創膏へ目をやり、ああ、と素っ気なく肩をすくめた。

「あかぎれで」

短く言って、彼女は席へ戻る。さぶいさぶい、と両腕をこすりながら若く賑やかな営業担当者が出勤して、事務所の一日が始まった。

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津村の妻・朝子は、十年前に大腸がんで亡くなった。享年は二十九。不幸にも若さが病の進行を早める一因となった。発見されたときには周囲の臓器への浸潤が見られ、手の施しようがなかった。

病の辛さをあまり口に出さない女だった。頭痛をこらえてソファに横たわっている姿ばかりが印象に残っている。当時、父親の事務所を継いだばかりだった津村は一癖も二癖もある老舗の業者や、二代目のボンボンと舐めてかかる取引先との関係作りに早朝から深夜まで奔走し、あまり病の妻をいたわることが出来なかった。

あるいは娘の言うことは正しいのかも知れない、と勤務を上がった帰り道、弁当屋で自分用の「キムチ焼肉弁当」と、娘が好きな「カロリー控えめ豆腐ハンバーグ弁当」の出来上がりを待ちながら思う。亡き妻は、夫が薄情にも新しい恋人を作ったことに腹を立てて、夢へ現れたのかも知れない。夢の中では妙なこじつけをしたものだが、妻はあくまで病気で亡くなったのであり、もちろん事故には遭っていない。指だって、棺に釘を打つ瞬間まで十本きちんと揃っていた。

そこまで考えて、津村は眉間にしわを寄せた。死者を解釈しようとすればするほど、彼女を冒瀆している気分になってきたのだ。妻は、自分にも他人にも厳しいところはあったけれど、けして誰かを恨むようなたちではなかった。そんな彼女を貶めるような想像を、十年も経った今になって、わざわざしなくたっていいだろう。馬鹿馬鹿しい。

それにしても、夢で笑う妻はなつかしかった。小春の制服を撫でていた手つきを思い出すだけで、全身がじわりと温かくなる。

「津村さん、お待たせしました」

カウンターの裏から出てきた店員が、ビニール袋に入った出来たての弁当を渡してくる。店員の名札には「相川」と文字がプリントされている。相川光恵。年齢は、三十二歳だと聞いた。丸顔で、目尻に愛嬌のある笑いじわが二本ずつ入っている。二年前に夫と別れ、子供はないまま実家である弁当屋に戻ってきたらしい。彼女が来てからメニューに足されるようになった「日替わり炊き込みご飯にぎり」を津村が気に入り、足繁く弁当屋に通うようになったことが縁の始まりだった。

津村は礼を言って袋を受け取った。周囲に客がいないことを確認し、低めた声でささやきかける。

「土曜日、楽しみにしています」

光恵の休憩時間に近所の森林公園で水鳥を見る約束をしている。顔を上げた光恵はどこか照れくさそうな間を置いて、はい、とほがらかに頷いた。


うたたねから覚めると、同じこたつで妻がビールを飲んでいた。酔っぱらっているのか、目尻が赤い。

「小春は?」

聞くと、彼女はゆるゆると首を振ってテレビの画面を指差した。

「雪、降ってきたから。学校に泊まりだわ、こりゃ」

大粒の雪がざんざんと町を埋めていく。アナウンサーが言うところによると、積雪はすでに十メートルを越えたらしい。津村は起き上がってカーテンを開けた。庭へ面したガラス戸は白いもので埋めつくされていた。雪だ。この分では、建物ごとすっぽりと覆われているかも知れない。今頃、上空から見たらほとんどの家は雪に埋もれ、町は真っ平らな白い平原のように見えることだろう。

「雨戸、閉めればよかったな」

「そうね、寒いわ」

「しばらく外には出られないか」

「どうせ、こんな雪の日に物件を買おうなんて酔狂なお客は居ないわよ」

妻は鼻歌を歌いながら台所へ向かった。そこで津村は、自分が妻の実家にいることに気づいた。もうすでに義父母は亡くなり、妻の兄姉もみな別の場所にいるため、この家には誰も住んでいない。そうだ、正月の帰省で、墓参りがてら掃除をしに帰ってきたのだ。

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骨を彩る 彩瀬まる

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