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神の手(上) #1

◆プロローグ

――一九九×年二月。

ロンドン、ヒースロー空港を予定通りに飛び立った日本航空402便は、順調にウラル山脈を過ぎ、シベリア上空にかかろうとしていた。

自由共和党(自共党)の元総裁、佐渡原一勝さどはらいっしょうは、ファーストクラスの窓側席から雪に覆われた大地を見下ろし、ロンドンの会議で持ち出された幾多の話題を思い返していた。

今回の会議は、“はがねの女”と称されたイギリスのスカーレット・ミッチェル元首相の肝煎きもいりで催された“同窓会サミット”なる集まりだった。出席者は佐渡原のほか、アメリカのドナルド・リーガン元大統領、フランスのアンドレ・ミッシュラン元大統領、ドイツのシュプレヒ・コーラ元首相ら、一九八〇年代に世界をリードした首脳たちである。

話し合われた議題は、世界の環境、人権、貧困対策、平和維持や民主化運動など、多岐にわたったが、いずれも概念的な内容で具体性にとぼしかった。第一線を退いた“元”リーダーたちの会合ならば、それも致し方ないかもしれない。国際社会のご意見番会議などと銘打ってはいたが、実態は老人の茶飲み話である。

半ば義理で出席はしたものの、佐渡原は苦々しい気分を持て余していた。自分にはそんな悠長な集まりに時間を費やす余裕はない。まだまだなすべき仕事がある。総理の座を退いて十年余。その間に、日本はいったい何人の総理が替わったことか。二十一世紀を目前に控え、日本は国際的にも国内的にも難問が山積している。

佐渡原は約五年にわたる長期政権において、日米安保体制の強化、行政改革、三公社の民営化などを実現し、すでに歴代宰相の中でも功なり名遂げた存在になっていた。だから、さらなる名誉や権勢を求める気持はない。あるのは、自分に残された時間と能力を、わずかでも日本の将来ために注ぐという使命感のみである。佐渡原は総理退任後も政界に隠然たる力を持ち、その影響力は強まる一方だった。卓抜な先見性、洞察力、決断力にかれ、党派を超えて与野党の若手議員が佐渡原の元に集まりつつある。彼らの力を結集して、何とか日本の未来に活かせないか。それが佐渡原の頭を終始悩ませる問題だった。

政治、経済、防衛、教育、福祉、雇用、治安、環境、国際協調。いずれも国民の生活に密着しつつ、安全と平和を維持するために重要な課題だ。いかに佐渡原の影響力が強いとはいえ、そのすべてに取り組むことはできない。さて、どの分野に的を絞るべきか。

総理在任中、各分野でそれぞれのブレーンを重用してきた佐渡原は、今もいくつかの私設諮問しもん機関を設け、情報を収集している。しかし、そこから上がってくる提言は、いずれも場当たり的で視野が狭く、佐渡原の心を動かすには至らなかった。凡庸な専門家を何人集めてもよい知恵は出ない。ブレーンにはその分野のずば抜けた人材が一人いればいい。それはわかっているが、肝心の人材がおいそれとは見つからないのが実情だった。

「フルーツはいかがでございますか」

客室乗務員がワゴンに載せたフルーツバスケットを運んできた。目の前にバナナが二本突き出ている。総理時代、外務省の担当官にひとこと、「バナナが好きでねぇ」とらして以来、外遊のたびにバナナが出される。いくら好きでも、行く先々でバナナばかり用意されては、食傷するのがわからないのか。それでもせっかくの心遣いを無にするのは忍びなく、佐渡原は笑顔で「じゃあ、それを」と指さした。客室乗務員はフォークとスプーンで器用にバナナをはさみ、冷えた皿とともに差し出した。

通路をはさんで座っている随行員たちにも、ワゴンサービスが供される。今回の会議出席は、公的なものとはいえ、随行員は政務秘書と私設秘書のほか、外務省からの担当官、事務職員を含め、十人足らずの陣容である。報道陣を含めると二百人近かった総理時代の大所帯とは大きなちがいだ。

気取ったことの嫌いな佐渡原は、無造作にバナナを手に取り、皮をいて頬ばった。

日本は今や経済も科学も発展し、世界一の長寿国になっている。だが、果たして将来は安泰なのか。このまま時代の流れに任せていて、思いがけない困難に遭遇しはしないか。

そう考えながらふと目を上げたとき、突如、胸の奥に鉄拳の一撃を食らったような衝撃が突き上げた。心臓を鷲づかみにされ、引きちぎられるような痛みだ。佐渡原は思わず顔をしかめ、「ううっ」とうめいた。よく通る低音のうなり声は、空席をはさんだ通路側にいる私設秘書の耳にも届いた。

「佐渡原先生。どうされました」

異変に気づいた随行員たちが、慌てて席を立つ。佐渡原は両手で胸をかきむしるように押さえ、前かがみになって歯を食いしばった。

「先生。大丈夫ですか。緊急事態だ。医者を呼べ! 乗客の中にだれかいないか」

政務秘書の怒号に、客室乗務員が機長室に走る。秘書や外務省の担当官らが口々に叫ぶ。

「水だ。水を持ってこい!」

「座席を倒して寝ていただこう。ネクタイも緩めて」

「それより救急箱だ。いや、酸素ボンベを用意しろ!」

やがて、機内アナウンスが、緊張した調子で医師の搭乗者に協力を求めた。五百人に近い乗客なら、医師の一人や二人乗っていないはずはない。だが、即座に名乗り出る者はなかった。佐渡原が同乗していることは、エコノミークラスでも噂になっているようで、まさか元総理の急変だと知れるはずもないが、ファーストクラスの異常事態に、医師がいても名乗り出にくいのかもしれない。その間も、佐渡原は額に脂汗を浮かべ、ネクタイをむしり取って自分の胸を叩き続けた。

「医者はまだか」

「だれか治療できる者はいないのか」

随行員たちは動転して、右往左往するばかりだ。私設秘書がアタッシェケースをひっくり返し、佐渡原のかかりつけ医から預かった緊急用の薬剤を取り出した。

「念のためにもらってきた痛み止めがありますが、どうでしょう」

「試してみろ。何もないよりましだ」

政務秘書の指示で、私設秘書は震える指を御しつつ、ヒートシールに封入された錠剤を押し出した。

「先生。これをお飲みください」

佐渡原は随行員らに抱きかかえられ、私設秘書が差し出した薬を口に入れた。水を一口飲み、激しくむせる。胸の苦悶は収まらない。脂汗は冷や汗に変わり、額から頬へ噴き出すように流れた。

「佐渡原先生。しっかりしてください」

「お気を確かに」

随行員らの励ましも空しく、佐渡原は短い呼吸であえぎながら、言葉にならない唸りを洩らし続けた。政務秘書が客室乗務員に怒鳴る。

「医者はおらんのか」

「今、客席をまわってさがしておりますが、お申し出がございません」

男性の客室乗務員が、手動の人工呼吸用のバッグと携帯用の酸素を持ってきた。ゴムマスクを佐渡原の口元に当てるが、うまく密着できない。佐渡原はフルリクライニングした座席で、釣り上げられた大魚のように何度も身体を反転させた。

そのとき、ファーストクラスの後方の座席に座っていた人物が立ち上がり、セカンドバッグを片手に近づいてきた。

「失礼ですが、もし、わたしでお役に立てるようでしたら」

控えめな声で言い、手短に自己紹介をした。随行員たちは一瞬、顔を見合わせたが、迷っているひまはないとばかりに前を開けた。その人物は佐渡原の横にひざまずき、慎重に脈をとった。

「あいにく大した道具は持ち合わせていないのですが」と言いつつ、ペンライトで瞳孔を調べ、佐渡原の胸に耳を直に押し当てる。

「どんな状況ですか」

「おそらく心筋梗塞でしょう」

取り乱す私設秘書に冷静に答え、セカンドバッグからプラスチックの薬ケースを取り出した。先のすぼまったオレンジ色のカプセルをヒートシールから出し、親指と人差し指でつまむ。

「それは何の薬です」

私設秘書が不安げに聞く。

冠血管かんけつかん拡張剤です。新しく出たカプセルで、舌の下に薬液を垂らすので、従来の舌下ぜっか錠より早く効きます。ちょっと失礼いたします」

佐渡原の口に指を差し入れ、タイミングを見計らって舌の裏側にカプセルを押しつける。ちゅっとカプセルのつぶれる音がして、ヒマシ油のような油っぽい液体が流れ出た。

「薬は呑み込まないようにしてください。酸素は続けて。マスクを軽くあてがうだけで大丈夫ですから」

佐渡原は押し出された液体を口の中に溜め、必死で鼻から酸素を吸った。胸の芯が針金でぐるぐる巻きに締めつけられたような圧迫感が、わずかに緩み、胸が広がった気がした。呼吸も針の穴から吸っていたようだったのが、少しずつ楽に空気が入ってくる。それでもまだ心臓に千枚通しを突き刺されたような感覚があり、眉間みけんの深い皺を解くことはできなかった。

「胸の痛みが強いようですね。モルヒネがあるといいのですが」

頭上の声が困惑気味に言い、薬ケースから何かをさがす気配がした。

「座薬を使いましょう。今はこれしかありません」

「その薬は」

「非麻薬系の中枢性ちゅうすいせい鎮痛剤です。ポジションを替えて、座薬を入れやすいようにしていただけますか」

随行員たちは佐渡原を横に向け、ズボンと下着を下ろした。白い銃弾のような座薬は、手慣れた操作でスムーズに挿入された。

「気持悪いかもしれませんが、少しご辛抱ください。便意があっても出さないように」

佐渡原は無言でうなずく。苦悶はまだ続いているが、身体の奥底から少しずつ不安が和らぐのが感じられた。事態が徐々にいい方向に進んでいるのがわかる。

しばらく待つと、薄皮をぐように胸の痛みも薄らいできた。

◇  ◇  ◇

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