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あなたへ #3

森沢明夫さんによる『あなたへ』は夫婦の深い愛情と絆を綴った、心温まる感涙小説です。刑務所の作業技官の倉島は、亡くなった妻から手紙を受け取る。妻の故郷にもう一通手紙があることを知った倉島は、妻の想いを探る旅に出る。

◇  ◇  ◇

あの教室から見えていた窓の向こうは、薄暗く、白濁した世界だった。外は叩き付けるような豪雨で、時折、激しい雷鳴とともに稲妻が閃光せんこうを放っていた。

誰もいない教室の真ん中で、杉野のネクタイを直す素振りをする女子生徒がひとり。十代のあどけない顔の裏側から、ちらちらと大人のつやっぽさを見え隠れさせていた。

「ねえ、先生」

鼻にかかったような、甘えた声。たっぷりとこびを含んだ、メスの声だ。

「駄目だって。先生には、そんな不正はできない」

彼女は、卒業をするために必要な出席日数もテストの点数も足りない、問題のある生徒の一人だった。進学とはまるで無縁の地方の女子高。そのなかでも、ひときわ出来の悪いこの生徒には、過去に二度の補導歴があった。

「うん、わかってる。卒業できなくてもいいよ。だって、先生に迷惑かけたくないもん」

「……」

「でもね……」潤んだ目で杉野を見上げながら、声にいっそうの艶っぽさを含ませた。「わたしが学校やめたら……、教師と生徒の関係じゃなくなったら……」

「え……」

女子生徒は、杉野のワイシャツの胸のあたりを、白い指で撫ではじめた。

「先生の、彼女になりたいだけ」

「な、何を言ってるんだ。お前な――」

「知ってたでしょ」杉野の言葉をさえぎるように、女子生徒は言葉をかぶせた。「わたしの気持ち……。知ってたんでしょ」

「え、いや、先生は――」

そんな気持ち、微塵みじんも知らなかった。

「わたし、もう、我慢できないよ」

ふいに女子生徒の左腕が杉野の首に巻き付いて、素早く唇が重ねられた。あまりの急な出来事に呆然ぼうぜんとしかけた杉野が、ハッと我に返って顔を引こうとした瞬間、今度は下半身に甘いしびれが走った。女子生徒の右手が、杉野の股間に伸びていたのだ。

キスをされたまま、思わず、ごくり、と唾液を飲み込む。

「ん……」

ふたたび唇を離そうとしたが、女子生徒は首に絡めた左腕に力を込めて、しぶとく舌を絡み付かせてきた。そのままズボンのファスナーが下ろされ、細くて白くてやわらかな指がそのなかにするりと滑り込んできたとき、杉野は自分の内側から理性が蒸発していくのを感じていた。

春雷の閃光が弾け、一瞬、教室は真っ白な異世界になった。すぐに激しい雷鳴がとどろき、ガラス窓をビリビリと揺らす。絡み付く舌。唾液の蜜の味。白い指の感触。幼い愛撫あいぶ。甘やかに溶かされていく股間。

杉野は、なかば無意識に両腕を女子生徒の背中に回し、華奢きゃしゃな上半身を抱き寄せた。

そのまま、やわらかな唇を強く吸った。

「あん……。ちょ、ちょっと、センセ……」

杉野の急な変貌へんぼうに驚いたのか、女子生徒はファスナーのなかから右手を引き抜くと、一歩あとずさって逃げるような格好をした。

しかし、杉野の腕力は後戻りを許さなかった。

セーラー服の背中をぐいっと引き寄せて、ふたたびやわらかな唇をふさいだのだ。

雷ではない閃光が教室のなかに走ったのは、その瞬間だった。

ハッとして、その光源に目をやると、三人の女子生徒が教室の入口に立ってにやにや笑っていた。しかも、いちばん前に立っている生徒は、一眼レフカメラを手にしていたのだ。

「もう放してよ、エロ教師」

いままで唇を吸っていた女子生徒が、杉野の腕を強引に振りほどいた。

ハニー・トラップ。

気づいたときは、もう遅かった――。

翌日、杉野は女子生徒の出席日数とテストの成績を改ざんして、卒業を約束した。交換条件として、昨日のフィルムを渡してくれと言ったら、少女は「はぁ?」と、さげすむような顔をして笑った。

「そんなの無理っしょ。フィルムを渡して、やっぱり卒業ダメなんて言われたら困るし。でもね、正直、先生がエロくて助かったよ。サンキュ」

あっけらかんと頬の横でVサインを見せて、教え子は廊下を軽やかに駆け出していった。その後ろ姿のあまりの邪気のなさにぞっとして、杉野は鳥肌を立てた。

その女子生徒を卒業させてひと月ほどが経ち、学校全体がようやく新学期に慣れてきた頃、ふいに杉野は校長に呼び出された。まさか、と思ったが、嫌な予感というのは的中するもので、例の写真が校長と県の教育委員会の元に届いていたのだった。

少し考えればわかることだった。思春期の女の子たちの口に完全なフタなどできやしないということに。杉野が呼び出されたときにはすでに、あの写真は学校関係者や保護者、さらには生徒たちの間にまで広がっていた。

女子高の国語教師が生徒に猥褻せつ行為――。

数日後、そのニュースはテレビでも新聞でも扱われた。

警察の取り調べでは、ありのままを話してみたのだが、予想どおり、ほとんど聞く耳を持たれなかった。それも、そのはずだ。あの現場を見ていた証言者は女子生徒の仲間たちだけで、証拠写真まで撮られているのだ。いまさら何を言っても無駄だということは杉野も重々わかっていた。

杉野をわなにはめた女子生徒の両親は、事件の性質上、裁判をすれば娘がさらに傷ついてしまうと主張し、この一件は示談となった。

そして、ほどなく杉野は教職を解雇された。

職を失うと同時に、家族も失った。

何より大事にしていたはずの妻と娘は、あからさまに肩を落とし、泣きはらした青い顔で住み慣れた家から出ていった。

近所の人たちは、みな同じ視線のとげで杉野を刺した。旧友までもが「お前、見損なったよ」などと言ってくる。

やがて杉野は、どこにいても周囲の視線が気になりはじめ、陰口を叩かれているような被害妄想にさいなまれて、ずるずるとうつ状態に陥っていった。

せめて人目を気にせず暮らせるように――と、他県に引っ越して安アパートに転がり込んではみたものの、鬱々と病んだ精神をどう叱咤しったしても、仕事をする気力などは湧いてこず、生活はじりじりと逼迫ひっぱくしていった。

預金残高がいよいよ底をつきそうになった頃、隣の部屋で暮らしていた大学生に誘われてけ麻雀をするようになった。その雀荘で知り合ったチンピラまがいの男に、ちょっとした遊び心から大麻の味を覚えさせられ、気づけば組織的な車の盗難の仕事に誘われるようになっていた。

「ちょいと特殊な技術さえ覚えちまえば、あとはもう、チョロくもうかる仕事なんですよ」

男はそう言って悪戯っぽく笑った。

厭世えんせい的で、日々の生活に困窮していた杉野に、断る理由などあるはずもなかった。

元来、手先が器用な杉野は、ピッキングの技術を教わるやいなや、水を得た魚となった。次々と車を盗んでは、得体の知れない組織から小金をもらうという日々を送りはじめたのだ。一台あたりの報酬は少額でも、それが十台ともなれば、ある程度はまとまった金になるし、高級車をれば、そこそこ割りのいい報酬を手にすることができた。やがて杉野は高級車専門で盗難を続け、ジリ貧の生活からはなんとか抜け出せた。

しかし、自称「法治国家」であるこの国の警察が、プライドをかけて盗難組織撲滅に乗り出してくると、末端の杉野はあっけなくお縄頂戴となった。そして、それから刑務所と娑婆しゃばを行き来する人生がはじまったのだった。刑務所から出所しても、百年に一度と言われるこの不況下では、まともな就職先などはなく、結果、ついつい手軽なピッキングに走ってしまうのだ。

三度目の逮捕で放り込まれたのは青森刑務所だった。再犯率の高い犯罪者が多く入れられることで知られる刑務所だが、しかし、そこで杉野は、ひとつの心理的な転機を迎えたのだった。刑務作業の一環として与えられた木工という仕事が、自分でも思いがけないほど性に合っていて、たのしかったのだ。

木工をしているときは他人の目を気にせず、モノ作りに集中できることが何よりも心地よく、ある種の安らぎすら感じることができた。さらに、出来上がった杉野の作品が人に使われ、喜ばれていることを作業技官から伝えられると、それまですさんで乾き切っていた杉野の心が、じわじわと潤っていくような気さえするのだった。

木工のとりこになった杉野は、刑務作業に精を出す模範生となり、予定よりも半年ほど短い刑期で出所し、そして、心機一転、木工所の就職先を探し歩いた。

しかし、世間はそんな杉野を指弾し続けた。考えてみれば、何度も繰り返し罪を犯した前科者をおいそれと雇うような物好きな職場など、そうそうあるはずもないのだ。

それでも、門前払いを覚悟で必死に探しまわっていると、千載一遇の好機が巡ってきた。たまたま三人の社員が一度に辞めて困っているという製材所兼木工所があったのだ。すでに還暦を間近に控えていた杉野は、二十歳も年下の社長に平身低頭へこへこと頭を下げまくり、ようやく働き口を得ることができたのだった。

ところが、就職してすぐに問題が起きた。経理の事務処理をしていた女性が、現金が二万ほど足りないと騒ぎだしたのだ。真っ先に疑われたのは杉野だった。

滅相もありません。神に誓ってやっていません――。

言えば言うほど、社内の人間たちの目は冷ややかになっていった。それは、かつて猥褻事件を起こした直後に、近所の連中が杉野に向けたのと同じ、棘のある視線だった。自分を鬱へと引きずり込んだ、あの堪えがたい毒針……。

杉野はすぐにでも逃げ出したい衝動に駆られたが、しかし、ここで仕事を辞めてしまえば、無実の罪を認めたことになる。だから杉野は、職場で孤立したまま、黙々と働き続けた。勤勉さを行動で示すことで、自分を理解してもらおうとしたのだ。

しかし、その一週間後、社長に肩を叩かれた。

「俺だって杉野さんが犯人じゃないと信じたいよ。でもさ、申し訳ないけど、他の社員の手前……。ね、わかるでしょ」

そう言っている社長の視線にも、たっぷりの毒が含まれていた。

そして杉野はまた無職の風来坊になった。

それからしばらくは、かつて賭け麻雀をやっていた頃の仲間を頼りつつ、ふらふらとその日暮らしをしていたのだが、あるとき、仲間の一人が脳卒中で急死したという知らせを耳にした。死んだのは、身寄りのない一人暮らしの中年男だった。

杉野は、喪主が誰なのかすらもわからない葬式の準備のどさくさに紛れ込み、堂々と死んだ男の家にあがり込むと、勝手知ったる居間の引き出しのなかから車のキーを拝借した。そして、そのままその男の車が停めてある駐車場へと向かった。家から歩いて数分のところにある砂利の駐車場には、見覚えのある紺色のワゴン車が停められていた。ドアを開け、運転席に座る。外見はトヨタの一般的なハイエースワゴンだが、車内は寝泊まりのできるキャンピングカーだった。杉野の脳裏に、旅から旅への放浪暮らしという、悠々自適なイメージが広がった。

思えば、敬愛する種田山頭火もまた、不幸の連続の人生の果てに放浪の旅に出たのだ。

ならば、自分も――。

杉野は賭け麻雀の仲間たちには何も知らせず、盗んだキャンピングカーに乗ってふらりと旅に出た。

それがちょうど二ヶ月前の、梅雨の晴れ間のことだった。

出発してすぐに、山頭火の句を口にした。

「分け入っても分け入っても青い山」

放浪生活は、想像以上に杉野を満足させた。自分をとりまく風景が変わるにつれて、杉野の内側をがんじがらめにしていた鎖がパラパラとほどけていくような快感を味わえたのだ。

自分はもう世間を捨てた。現代の山頭火になったのだ。何にも縛られず、すべてを受け流しながら生きていく。それでいい。旅の終わりも、行き先も決めず、死ぬまで、ただただ流れていく。杉野はそう決めた。決めたら、気持ちに羽が生えて自由になり、久し振りに――、いや、二十年振りに、心のなかに清々すがすがしい「自分の人生」という風が吹き抜けた気がしたのだった。

「明日は、雷かよ……ったく、縁起でもねえ」

峠道をさらに下りながら、杉野は自嘲じちょうぎみに笑った。

カーラジオのFMが、天気予報から若者向けの歌番組に変わる。杉野はチューナーを操作してAMの民放から気に入った番組を探した。ニュース、洋楽のロック、下らないトーク、そしてまた若者向けの歌番組。

面倒になって、スイッチを切った。

やがて峠を下り切ると、赤信号につかまった。

なにげなく車窓から夜空を見上げた刹那、脳裏に山頭火の句が降ってきた。

《月のぼりぬ夏草々の香を放つ》

遠い街の明かり――その上に、刃物のように鋭く光る三日月が浮かんでいたのだ。

「刺さりそうな月だな……」

つぶやいて、杉野はパワーウインドウを下ろした。

しかし、車内になだれ込んできたのは、夏草の香りではなく、かすかな海の匂いと虫たちの歌声だった。


◇  ◇  ◇

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